言葉の枠を超えて人と人をつなぐもの。それこそが、「ことば」──手話を言葉として生きる写真家・齋藤陽道さんと考える、コミュニケーションの「そもそも」【学びのきほん つながりのことば学 #2】
齋藤陽道さんによる「コミュニケーションのそもそも論」#2
手話を言葉として生きる写真家として知られる、齋藤陽道さん。
手話を禁じられ心から言葉が離れていった幼少期や、手話に出会い、初めて会話の楽しさを知った高校時代、心の底から他者とつながるために写真を撮り続けた日々など、齋藤さんが「つながり方」を発見していった過程を、他者との関係性に悩む人への道しるべとして読み解く『NHK出版 学びのきほん つながりのことば学』が発売となりました。
今回は本書より、齋藤さんの考える「ことば」と「言葉」についての一節を特別公開します。(全3回の第2回)
ことばの共有地
普段、ぼくは写真家として活動しています。
繰り返しになりますが、ぼくは耳が聞こえません。音声によるコミュニケーションが主流のこの社会で、写真家として活動するにあたって様々な困難に直面しています。
まず、音声でのやりとりができません。マジョリティである聴者と話すときは筆談や手話通訳者を介して会話をしますが、その過程が含まれる時点で大きなロスとなります。
筆談を面倒がられたり、手話に警戒されることは日常茶飯事です。なんにしても、手話で思い煩いなく話すということができません。日本に住んで、日本語を話す大多数の人が何気なくおこなっていることが、ぼくにはまるで夢のように見えます。
写真家としての活動だけでなく、日常生活のあらゆる場面でも言葉の壁に突き当たっています。言葉で関わり合うことを期待すればするほどに、言葉に裏切られ、言葉に阻まれる経験を繰り返してきました。
ぼくが写真をおこなううえで大切にしているのは、言葉で言い表せるものだけではありません。まなざしやたたずまい、沈黙の中で息づく気配……言葉の枠を超えて人と人をつなぐもの。それこそが、「ことば」であり、常に大切にしているものです。
この写真は、偶然出会った猿回しを撮影したものです。
ぼくは猿が好きなので、猿回しがあるとつい見に行ってしまいます。しかし、いつもやるせない気持ちになります。
というのも、猿回しの口上を聞くことができないため、猿と人間との関係性を窺い知ることができないからです。どんな話がされているのかわからないので、まるで猿が人間の都合でいいように使われているかのような構図がダイレクトに見えてしまうのです。
この写真を撮ったときは、関係者として入っていたので裏手から静かに見ていました。すると、急に舞台上の猿が振り返りました。おそらく猿使いの口上や太鼓の音も無視して、猿はぼくを凝視していました。音がわからないので確かなことが言えず、どこまでも推測ではあるのですが。
猿は警戒していたのでしょう。そのまなざしに含まれているものは、決して親密なものではないことを感じ取りました。少しずつ後ずさりをして離れていく間も、猿はじっとこちらを見ていました。
ある程度の距離になったところで、猿の警戒がゆるんだのがわかり、その瞬間を撮りました。そのあとすぐに猿は前を向いて芸の続きを始めました。
このとき、猿とぼくの間で、言葉は一切交わされていません。ですが、射るような鋭いまなざしを通して、言葉もないままに、決定的な何かが交わりました。この交わったものによって、お互いの立ち位置がおのずと決まっていきました。
言葉を一切交わさず、沈黙したまま、お互いの適切な距離感を知ることができる。そこには思いがけない心地よさがありました。
一つの言葉が生まれる前に、自分と相手が対面したその瞬間から意識にも上らないところですでに交わされているもの。それが「ことば」です。猿とぼくとの間では、それを「発する」「受け取る」という沈黙のコミュニケーションが始まっていたのです。言葉がないままに、それでも交わされていたものがありました。声や音に頼らなくても、世界とつながることができる。その感覚は、音声を前提とした社会の中で、ろうの身体を持つ写真家として歩んでいくための、大切なよすがとなりました。
この世界には、言語化される以前の感覚や気配が蓄積し、交わり、静かに漂っている……、そうした領域が存在するのではないか。ぼくはそれを「ことばの共有地」と呼んでいます。
「ことばの共有地」とは、まだ「言葉」として明確な形をとる前の「ことば」が集まる場所です。
そこには日々の経験や出会い、沈黙やまなざしといった非言語的なやりとりを通じて育まれたものが集まっています。人はそうした「ことば」を無意識のうちに受け取り、蓄えていく。その営みを通して、自分の中に「ことばの共有地」が広がっていきます。
「共有地」にはもともと、特定の個人や団体が所有せず、地域社会が共同で利用・管理する空間という意味合いがあります。たとえば、公園や図書館のように、誰のものでもあり、誰のものでもない場所です。
大地も同様です。本来、大地は誰にも所有できないものです。樹が育つためには、大地が必要です。土の中には、無数の生き物や微生物がいます。土に種が落ちて、雨が降り、芽が出て育ち、枝を増やし、葉を広げていく。そうして、樹はそこに存在するのです。
「ことばの共有地」もまた同じように特定の誰かが所有するものではなく、かつ自分だけのものでもありません。あまたの関係性や環境の中で育まれ、独自の生命を持って広がっているものです。自分の中に「ことばの共有地」があるからこそ、そこから「自分の言葉」が立ち上がってくるのではないか。ぼくは「言葉」と「ことば」の関係について、そのように考えています。
『NHK出版 学びのきほん つながりのことば学』では、言葉が伝わらないことを身にしみて知っているからこそ見出した、「言葉の共有地」「言葉の解像度」「消感動と宿感動」「存在を聴く」などの視点から、安易なノウハウではない、コミュニケーションの「そもそも」を考えていきます。
著者紹介
齋藤陽道(さいとう・はるみち)
1983年、東京都生まれ。写真家。都立石神井ろう学校卒業。2020年から熊本県在住。2010年、写真新世紀優秀賞受賞。2013年、ワタリウム美術館にて新鋭写真家として異例の大型個展を開催。2014年、日本写真協会新人賞受賞。写真集に『感動』、続編の『感動、』(赤々舎) で木村伊兵衛写真賞最終候補。著書に『異なり記念日』(医学書院)、『声めぐり』(晶文社)、『ゆびのすうじ
へーんしん』(アリス館)、『よっちぼっち 家族四人の四つの人生』(暮しの手帖社・熊日文学賞受賞)など。2022 年に『育児まんが日記 せかいはことば』( ナナロク社) を刊行、NHK Eテレ「しゅわわん!」としてアニメ化。同年、NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」のエンディング曲「きんらきら ぽん」の作詞を担当。写真家、文筆家以外にも、活動の幅を広げている。
※刊行時の情報です
◆『NHK出版 学びのきほん つながりのことば学』「はじめに」より
◆ルビなどは割愛しています