『関羽も敗北』実は名将キラーだった?五将軍・楽進はここまで強かった!※三国志
名脇役・楽進の実像
三国時代は、曹操・劉備・孫権の三勢力が中原の覇権を争い、幾度となく激戦が繰り広げられた動乱の時代である。
中でも魏と呉が激突した「合肥の戦い」は、三国史上屈指の攻防戦として語り継がれる。
この戦いで最も名を挙げた武将として広く知られているのが、魏の名将・張遼(ちょうりょう)である。
張遼の突撃は、後世まで武勇の象徴として称えられ、数多の物語やエンタメ作品でも圧倒的な存在感を放っている。
しかし、歴史の陰には必ず主役を支えた名脇役がいる。
今回は、張遼と共に合肥の防衛に身命を賭して尽力しながら、後世の物語では語られることの少なかった武将・楽進(がくしん)の実像に迫りたい。
古参として曹操軍を支えた武将
楽進は、三国志を題材とした小説や漫画、映像作品などで、その名を知る読者も多い武将である。
筆者のイメージとしては、合肥の戦いで名前を見たという程度の認識であり、『三国志演義』では楽進の一番の見せ場である合肥の戦いで甘寧の矢を受けて「大丈夫か?」と心配になりながらそのままフェードアウトしてしまった。
ところが、正史『三國志』における楽進はまったく異なる。
曹操軍の名将として「五将軍(五子良将)」の一人に数えられ、古参の部類に入る人物である。
正史には正式な加入時期の明記は無いが、黄巾の乱には参加しておらず、董卓討伐連合の成立前後、すなわち190年前後に曹操の幕下に加わったと推測されている。
当初は帳下の吏、すなわち記録係として従軍していた。
その後、兵を募るために故郷へ戻されると、千人を超える兵を率いて帰還し、曹操を驚かせたと伝わる。
この功績により武将へと抜擢され、軍の中で重要な役割を担うようになったのである。
『演義』の被害者?奪われた楽進の手柄
楽進は小柄ながら胆力に優れ、常に先陣を切る勇将として知られている。
呂布との「濮陽の戦い」では一番乗りの戦功を挙げ、曹操が出陣するたびに最前線へと駆けつけた。
曹操軍の戦場には、常に楽進の姿があった。
天下分け目の「官渡の戦い」では、逆転の決定打となった烏巣奇襲において、兵糧庫を守っていた淳于瓊(じゅんうけい)を討ち取る戦果を挙げており、正史にもはっきりと「斬紹將淳于瓊」と記されている。
【原文】
渡河攻獲嘉,還,從擊袁紹於官渡,力戰,斬紹將淳于瓊。【意訳】
楽進は軍を率いて河を渡り、獲嘉を攻め取った。
その後帰還して官渡で袁紹軍と戦い、激しい戦闘の末に 袁紹の将である淳于瓊を討ち取った。三國志 卷17 魏書 樂進傳 より
だが『三国志演義』しか知らない読者であれば、ここに違和感を覚えるだろう。
演義でも曹操は烏巣を急襲するが、その描写は正史と大きく異なる。
演義における淳于瓊は酒に溺れ、酔い潰れて眠っていたため、不意を突かれて陥落する。
捕らえられた後は耳や鼻(作品によっては指まで)を削がれ、失態の責任を問われて袁紹によって処刑されるという末路となっている。
つまり、正史では「楽進が討ち取った武将・淳于瓊」が、演義では「酒に溺れ失態を犯した凡将」に変えられており、楽進の大きな戦功は物語から完全に消されてしまっているのだ。
正史において確かな戦歴を残しながら、演義では活躍の大半を失った武将は少なくない。
関羽のように正史の記述が少ない分、後世の物語で英雄視された例がある一方で、楽進のように確かな功績を持ちながら、物語上の役割によって存在感を削られる武将もいる。
特に演義では魏が「悪役」として描かれる傾向が強く、魏の武将は意図的に活躍を抑えられたり、役割を変えられたりすることがある。
官渡の戦いの時点で、すでに楽進はその「演義の被害者」としての側面を背負わされていたと言えるだろう。
関羽に連勝!魏の軍神キラー
楽進の戦歴を辿ると、その活躍はまさに常勝将軍であった。
呂布、袁紹、劉備、関羽、孫権といった名立たる武将の軍勢を相手にして、いずれの戦いにおいても勝利に大きく貢献している。
名将たちとの対峙で結果を残したという事実だけでも、その卓越した軍才が十分に伝わってくる。
ただし補足しておくと、楽進が打ち破ったのはそれぞれが率いる軍勢や、無名の将を撃破した結果としての勝利である。
関羽に対する勝利も、演義に描かれるような壮絶な一騎打ちではなく、戦局を有利に進めた上で関羽軍を退けた、という形で語られている。
演義では全く触れられない楽進と関羽の戦いについて、正史を追うとその輪郭が見えてくる。
208年の荊州侵攻から、赤壁の戦いに至る曹操の南下に従った楽進は、荊州平定後も襄陽に留まり、関羽、蘇非らを撃破して追い払ったと記録されている。
【原文】
後從平荆州,留屯襄陽,擊關羽、蘇非等,皆走之,南郡諸郡山谷蠻夷詣進降。又討劉備臨沮長杜普、旌陽長梁大,皆大破之。
【意訳】
その後、曹操が荊州を平定する際に従軍し、平定後も楽進は襄陽に駐屯した。
関羽、蘇非らを攻撃して撃退し、南郡各地の山間部に住む異民族(蛮族)が楽進に降伏した。
さらに、劉備が任命した臨沮県長の杜普、旌陽県長の梁大を討伐し、これを大いに破った。『三國志』卷17 魏書 樂進傳より
しかし、その戦いの詳細は楽進伝には簡潔にしか記されておらず、どのような戦術、どのような規模の戦闘だったのか判然としない。
一方、文聘(ぶんぺい)伝には、文聘と楽進が尋口で関羽の輜重(食料や武器等の物資)、軍船を焼いたと書かれており、楽進伝にはない具体的な戦果が描写されている。
ただし、これが関羽を退けた戦いと同一であるかは明確ではない。
また、後世の資料には、関羽と楽進が「青泥」で対峙していたと伝えるものが存在し、劉備が劉璋へ救援の必要性を訴えたとされる記述も見られる。
正史に直接の記録は残っていないものの、当時の情勢や各伝の記述から判断すれば、楽進が複数回にわたり関羽と相対し、いずれも戦局を有利に運んでいたという評価は十分に成り立つだろう。
曹操軍と劉備軍の兵力差を考えると、関羽にとって厳しい状況であった点は無視できないが、後世に「軍神」と称される関羽を相手に連戦連勝を収めた楽進は、まさに「軍神キラー」と呼ぶにふさわしい存在である。
合肥防衛の立役者
前述したように『演義』では『正史』の活躍のほとんどがカットされているが、楽進を語る上で「合肥(がっぴ)の戦い」は欠かせない。
合肥は、魏と呉の国境に位置する戦略上の最重要拠点であり、両国が長年にわたり争奪を繰り返した要衝である。
この合肥を守るため、曹操は張遼・李典・楽進の三将に城の守備を任せた。
やがて孫権が10万を号する大軍を率いて侵攻し、合肥城は包囲される。
城を守る張遼・李典・楽進らの兵は約7000人のみで、兵力差は10倍以上に達していたと伝えられる。
さらに三将は普段から折り合いが悪く、城内の空気は最悪で、落城は時間の問題と見られていた。
しかし曹操はそれすら見越していた。
出陣に際し、張遼・李典・楽進、そして護軍の薛悌(せつてい)に対し、呉軍来襲時に開封する密書を残していたのである。
そこに記されていた指示は、「張遼・李典は出撃し、楽進は城を守れ」というものだった。
当時、三将の不仲は周知の事実であり、総大将不在の状況では指揮系統の混乱が生じる危険があった。
曹操はあらかじめ役割を分担させることで、電撃戦による主導権確保と籠城による持久戦の双方を成立させ、自身の援軍が到着するまで合肥を維持できる体制を整えたのである。
張遼は夜のうちに精鋭800を募り、牛を屠って将兵を慰労すると、翌朝自ら甲冑をまとって先頭に立ち、孫権の本陣へ突撃した。
少数で敵中に突入し、孫権の目前に迫って多くの兵を斬り伏せたこの電撃戦により、呉軍は大きく動揺し、以後の攻勢に陰りが生じた。
李典も張遼の出撃に同調し、「国家の大事にあたっては計略こそ重く、私怨を持ち込むべきではない」と述べて合戦に加わっている。
一方、楽進は曹操の命令どおり城の防衛にあたり、薛悌とともに守備側の中核を担った。
その後、孫権が合肥を攻めあぐねて撤退を開始すると、張遼は諸軍を率いてこれを追撃し、孫権を捕らえかけるほどの戦果を挙げた。
この追撃戦にも楽進は加わっており、合肥防衛における重要な役割を果たしたことがわかる。
なお、小説『三国志演義』やドラマ作品では、この合肥の攻防がより劇的に脚色されている。
例えば、楽進が張遼とともに出撃して橋を破壊し退路を断つ場面や、呉将・凌統との一騎打ちの最中に甘寧の矢を顔に受けて、以後は登場しなくなる展開などは、いずれも物語側の創作であり、正史の記述とは異なる。
正史の楽進は、その後も軍功を重ね、合肥の戦いから3年後の建安23年(218年)に没しているため、少なくとも合肥で戦死したわけではない。
語り継がれるべき名将キラー
このように、楽進の史実における評価は極めて高い。
張遼・于禁・張郃・徐晃と並んで「五将軍(五子良将)」の一人に数えられ、曹操軍の中でも指折りの名将として名を残している。
楽進は魏が正式に建国される220年より前に亡くなっており、厳密には三国時代を迎えることなく世を去ったが、その功績が霞むことはなかった。
関羽を含む名将達との戦いで幾度も勝利し、戦局を左右する役割を担い続けた楽進の生涯は、まさに「軍神キラー」「名将キラー」と呼ぶにふさわしい。
歴史の陰に埋もれがちだが、その名と功績は、もっと広く語り継がれるべきである。
参考 :
陳寿『三國志』張樂于張徐傳、臧覇・文聘伝
裴松之注『三國志集解』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部