毛利元就とのつながりがあった安芸国の国人天野氏が築城した山城の歴史【東広島史】
東広島にまつわる歴史を探り、現代へとつなぎたい。郷土史のスペシャリストがみなさんを、歴史の1ページへ案内いたします。
今回のテーマ 「山城」 執筆:天野 浩一郎
はじめに
中世の志芳荘(しわのしょう)(現在の〝志和〟は中世には〝志芳〟と表記されていました。ここでは「志芳」を使用します)には三系統の天野(あまの)氏(志芳東(しわひがし)天野氏・志芳堀天野氏・志芳西(しわにし)天野氏)の他に、〝志芳衆〟呼ばれる石井氏、阿野氏、熊谷氏などの武士団がいて小規模な山城を構えていました。今回は志芳天野氏の山城跡について紹介します。
志芳東天野氏(以下、東天野氏)
◆米山(こめやま)城跡(東広島市志和町志和東)
県道46号の近くの比高約20㍍の小丘全体に築かれた城跡です。二つの郭と周辺の小郭からなり、主郭は東西37㍍、南北27㍍の長円形で、南側の通路から上がってきた所に桝形虎口(ますがたこぐち)があったと推測できます。
西から北にかけて小川があり東側にも水路があるので、城全体が堀で囲まれていた可能性があります。
築城時期は分かっていませんが、早い時期から東天野氏の居城だったと推定されます。鏡山城を落とされた大内義興は重臣陶興房(すえおきふさ)を総大将に反撃に出て、1525(大永5)年米山城を包囲します。天野興定(おきさだ)は毛利元就の仲介で大内氏に降伏し、米山城は大内氏に接収されました。3年後に返還されましたが、これを機に東天野氏は毛利元就と深いつながりをもつようになりました。
米山城は戦国末期まで東天野氏の本城として使用され、1570(元亀元)年には毛利元就の七男〝元政(もとまさ)〟が養子として入城しています。
◆生城山(おおぎやま)城跡(東広島市志和町志和東)
戦国時代末期、天野元政は米山城から志和盆地の中央部に位置する生城山の山頂に本拠を移したと考えられます。
生城山城は天野興定の築城と伝えられますが、1575(天正3)年に伊勢参りを行い、日記「中務大輔(なかつかさだゆう)家久公御上京日記」を著した薩摩(さつま)の島津家久(しまづいえひさ)は、その日記の中で今坂峠(いまさかとうげ)で後ろを振り返り保利(ほり)(堀)の城(金明山城(きんめいざんじょう))を確認していますが、手前にあるはずの生城山城を確認していません。ですから、1575年当時には生城山城は築城されていなかったと考えられます。
生城山の山麓には刈屋(かりや)城・円明寺(えんみょうじ)城・古(こ)城など多くの城跡があり、それらの一つが興定の生城山城であった可能性が考えられます。
生城山城は標高485㍍(比高約260㍍)の生城山の山頂部に東西約400㍍、南北約150㍍に郭が広がる大規模なもので全山が要塞化されています。最高所の主郭(1郭)を中心に九つの郭で構成され、現在の光源寺(こうげんじ)辺りに砦(とりで)を設け入口を固めています。城跡の西側には武家屋敷が並んでいたようです。
また、1郭の西下の巨石には柱穴と思われる二つの穴があり、櫓(やぐら)などの施設が建てられていたと思われます。
志芳堀天野氏(以下、堀天野氏)
◆金明山城(東広島市志和町志和堀)
志和盆地の北端、標高735㍍の金明山から南に延びる一支峰に築かれた堀天野氏の本城です。城跡は標高718㍍・比高約430㍍の高所にあり、主郭を中心に6方向に伸びる尾根上にそれぞれ郭を配置する大規模なものです。
主郭は40㍍×25㍍の規模があり、西南端に桝形(ますがた)虎口を設けています。南に延びる尾根の先端の郭にのみ1・5㍍程度の石垣で固められており、大手道(登城道)があったようです。
堀天野氏は、東天野氏と同様に大内氏と結び付いていましたが、地理的条件から三篠川流域の国人らを通して毛利氏とも近い関係を持っていました。
戦国期の天野隆重(たかしげ)は、有力国衆でありながら毛利元就の重臣として活動します。彼は籠城(ろうじょう)の名手として知られ、豊前苅田松山(ぶぜんかんだまつやま)城、出雲月山富田城(いづもがっさんとだじょう)などで大友義鎮(おおともよししげ)、尼子勝久(あまごかつひさ)の大軍を撃退し城を守っています。後に熊野城(島根県松江市八雲町)の城主となり〝出雲の人〟になりました。
隆重の子元明(もとあき)も備中松山城(岡山県高梁市)の城督(じょうとく)に任じられ家族も一緒に志芳堀を離れ、金明山城は城代として土肥氏が居住したと伝えられています。
金明山の南の山麓に100㍍四方の〝殿様屋敷跡〟と呼ばれる居館跡が残っています。三つの段に分かれ、石垣・石塁・土塁が用いられています。最上段の郭には大きな石が散乱し、庭園があった可能性があります。
◆財埼(さいざき)城跡(東広島市志和町志和堀)
1970(昭和45)年に志和堀小学校の改築により削平され、原形をとどめていません。隆重が築城したとされ、財埼城を西館、米山城を東館と呼んでいたと伝えられています。
志芳西天野氏(以下、西天野氏)
生城山から西南に伸びる低い尾根の先端部に〝岡城(おかじょう)跡〟(志和町志和西)があります。発掘調査により大規模な望楼跡(ぼうろうあと)や掘立柱建物跡、桝形状遺構(ますがたじょういこう)などが検出され、南北朝時代~16世紀半ばの長期間使われていた城であることが明らかになりました。定かではありませんが、西天野氏が関係する城跡と推測されます。
西天野氏に関する史料は多くありませんが、鎌倉末期から戦国末期にかけて「1314年安芸政行(あきまさゆき)は東寺と荘園支配をめぐって争う」「1365年天野遠藤(とうふじ)は大宮神社に大般若波羅蜜多経600巻を奉納」「1557年 〝毛利元就の傘連判状〟に西天野隆誠(たかまさ)が署名」「1575年毛利氏の国吉城攻めの時、隆誠の手下が手柄を挙げる」などがあります。その後の西天野氏の所在は不明です。
【参考1】
志芳天野氏は、伊豆の国天野庄(現・静岡県伊豆の国市)の御家人(ごけにん)で鎌倉時代初期に源頼朝の重臣として活躍した天野遠景(とおかげ)の末裔(まつえい)です。1300年代初め頃に志芳荘に地頭として入り、その後東天野氏・堀天野氏・西天野氏の3系統が存在したと言われています。
【参考2】
天野元政は毛利元就の七男(母は継室乃美大方(のみのおおかた))で東天野元定(もとさだ)の娘婿として11歳で米山城に入りました。元政は毛利氏の一族として毛利氏の中国制覇のため数々の戦いに出陣し、関が原の戦いでは毛利軍の最後尾で追ってくる敵を防ぎながら撤退する殿(しんがり)の大役を果たしています。
毛利氏の改易に伴い周防国三丘(現・周南市)に移りますが、後に元政の子元倶(もととも)が右田村(現・防府市)へ13000石で移封され、これ以降〝右田毛利(みぎたもうり)氏〟と呼ばれるようになり一門家老を務めています。
【参考3】
戦国末の志芳天野氏の所領は、東天野氏は約15500石(志芳荘内で約4000石)・堀天野氏は約7100石(志芳荘内で約1300石)・西天野氏は不明です。東・堀天野氏の所領は、大半が山陰地方など志芳荘以外の領地を毛利氏より与えられたものでした。
プレスネット編集部