「軍艦マンション」の建築家・渡邊洋治が設計した「斜めの家」。奇想天外な形に隠された5つの愛~愛の名住宅図鑑25「斜めの家」(1976年)
上越市出身の渡邊洋治が妹夫婦のために設計
この連載でこれまで取り上げてきた住宅に比べると、「斜めの家」はそれほど有名ではないと思う。筆者も、2年ほど前にその存在を知った。だが、ひとたびその写真を見れば、あなたも「これは一体どうなっているの?」と目が釘付けになるだろう。
東京・大久保の通称「軍艦マンション」(当初名は第3スカイビル、1970年)で知られる渡邊洋治(1923~1983年)が設計したと知れば、「なるほど、それなら…」と納得がいく。
場所は新潟県上越市。同市出身の渡邊が妹夫婦のために設計し、1976年に完成した。もうすぐ竣工50年となる。完成時、渡邊は53歳。「狂気の建築家」あるいは「異端の建築家」と注目されていたが、1983年に60歳で早逝する。この住宅は渡邊の作品リストで確認できる最後の実作だ。
渡邊は、この住宅の設計主旨を文章で残しておらず、なぜこのような形をしているのか、詳細は不明である。
斜めに傾いた外観はいかにも生活がしにくそうで、建築家の“実験”にしか見えない。しかし、実際に訪れてみると、住まい手の生活が実によく考えられた“愛”の住宅なのである。
戦争から復員し、早稲田大学で吉阪隆正に師事
この家の魅力を知る前提として、渡邊のプロフィルをざっと紹介しておく。
渡邊は1923年、新潟県直江津町(現上越市)の大工を家業とする家に生まれた。戦時下に新潟県立高田商工学校工芸科を卒業後、日本ステンレスに勤務するが、1944年に徴兵される。戦地では陸軍船舶兵だった。終戦後は、いったん日本ステンレスに復職した後、1947年、久米建築事務所に移籍。1955年、早稲田大学理工学部建築学科の吉阪隆正研究室の助手を経て、1958年に渡邊建築事務所を開設した。
早稲田大学で師と仰いだ吉阪隆正(1917~1980年)は、本連載の「VILLA COUCOU」の回で紹介したように、戦後にパリのル・コルビュジエのアトリエで修業した建築家だ。吉阪がパリにいたのは1950年から1952年までなので、渡邊は帰国して3年後の吉阪に、熱くコルビュジエ流を学んだわけだ。
「斜め」は床の傾斜ではなくスロープ
現地に行ってみて驚いたことの1つが、この家が「木造」であることだ。師の吉阪隆正の建築はほとんどが鉄筋コンクリート造なので、斜めの家のマッシブさもコンクリートによるものだと思い込んでいた。
上部が張り出したこの形を、コンクリートでも鉄骨でもなく、コストの安い木造で実現しようと考えたことが、1つ目の愛である。大工の家に育ったゆえの、木造への想いや自信があったのだろう。
2つ目の愛は、斜めに見えるラインが床そのものではなく、スキップ状の床をつなぐ「スロープ」であること。道路側(北東側)の片持ち部は、折り返したスロープの上半分を外側に突き出させたものだ。見る者はこれが床の傾斜だと騙されてしまう。
傾斜角は8分の1勾配(8m行って1m上がる)。このスロープのほかに階段はない。南側にある1階の玄関から、スロープに沿って洋室、台所、茶ノ間と徐々に高くなっていき、そこでスロープが折り返して2階の寝室・和室へと上る。空間の面白さに加え、当然、身体への負担が少ない。完成時に建て主家族に足が悪い人はいなかったようだが、これなら老後の上り下りも安心だ。
3つ目の愛は、庭側(南西側)の開放感。建具のデザインは相当にクセがあるものの、庭とのゆったりとしたつながり方は、伝統的な木造家屋を思わせる。
ひと目で「これはル・コルビュジエ!」
4つ目の愛は「雪景色」だ。上越市は日本有数の豪雪地。夏は庭側を開け放して心地よく暮らせるが、冬はそうはいかない。天候によっては雨戸を閉めっぱなしで過ごす日も続く。それを考えると、前述のスロープが単なるバリアフリーのためだけではないことが想像できる。これがどういうことかは、少し深い話となる。
建築好きがこの空間を見れば、ひと目で「これはル・コルビュジエの影響だ!」と思うだろう。折り返すスロープもそうだし、大小の四角形をばらまいたような小窓もそうだ。
渡邊はこの家を設計していた頃、師の吉阪らとインドでコルビュジエの建築群を実際に見ており、その1つ、「チャンディーガルの行政庁舎」(1958年)にはこれによく似たスロープがある。
筆者も「コルビュジエ風!」とは思ったが、インドにそっくりなスロープがあることは知らなかった。そのことを教えてくれたのは、上越市の建築家、中野一敏氏だ。この家の保存活用の中心になっている人である。
雪国でなぜコルビュジエ風?
中野氏も上越市出身。渡邊がインドのコルビュジエ空間を「雪国」の上越で模したのには理由がある、と言う。それも地元で育った中野氏ならではの着眼点だ。
中野氏いわく、「渡邊はこの家をつくる際、『潜水艦をつくるぞ』と周囲に語ったという。夏は周囲の水田の稲に家が潜行していく姿を、冬は積もった雪に家が沈んでいく姿を潜水艦に例えたのかもしれない」。
なるほど。そう言われると、なぜ道路側が「スロープ+小窓」なのかも納得がいく。雪に埋もれた外の様子を、さまざまな高さで小窓からのぞき見ることができるようにしたのだ。
建て主夫妻に娘がいたと聞くと、納得感はさらに増す。このスロープが子どものお気に入りだったことは想像に難くない。
これと似た発想は居室にもあって、2階の雨戸のいくつかには、針を刺したような小さな穴がたくさん空いている。これは「ピンホール・カメラ」だ。晴れた日には、雨戸の穴を通って入ってくる光が、外の景色を障子戸に映す。なんという遊び心。
「札幌の家」(上遠野徹自邸、1968年)の回で、この住宅の開放性の高さを雪国の住宅の到達点と書いたが、「閉じる」ことを前提とした「斜めの家」も1つの解といえるだろう。
外壁は打ち放しではなく、銅板張り
筆者が「これも愛」と思ったことを最後にもう1つ。外壁の仕上げだ。現地に行くまで、コンクリート打ち放しが黒ずんでいるのだと思っていた。だが、実際は銅板張りだった。
これが実にいい味に古びているのである。できた当初はピカピカの赤茶色で違和感があったかもしれないが、今は銅板のさびれ感のおかげで、この形でありながら風景になじんでいる。
銅板張りは、雪に対する強さとともに、“経年美化”を狙ったと思われる。この住宅の写真が小さく掲載された建築専門誌の特集には、「斜めの家」の名ではなく、「田中邸(銅の家)」という名前で載っている。渡邊にとっては、木造・銅板張りであることに、北国での汎用性をアピールする大きな意味があったのだろう。
ちなみに、渡邊は代表作の「第3スカイビル(軍艦マンション)」について、あの外観は「自然」を手掛かりにしたと、雑誌などに繰り返し書いていた。「自然の恩恵と猛威を考え、そのうちに生存する種々の動植物からヒントを得た造形である」と。この家を見ると、それも後付けの理由ではなかったのだと思えてくる。
2025年春から民泊をスタート
この家は建て主の親族が現在も所有しているが、今は民泊で一般の人が利用にできるようになっている。オーナーは東京在住で、2013年、空き家になっていたこの家を保存活用したいと、上越の知人に声をかけ、有志により見学会などが行われるようになった。
地元有志による「ナナメの会」は、渡邊の生誕100周年となる2023年に、継続的な保存と活用を目指してクラウドファンディングを実施。資金を集めて設備などを修繕し、試行期間を経て2025年春から民泊の営業を開始した。
筆者はクラウドファンディングの段階で、その存在を知った。
一連の取り組みの中心になっているのが前述の中野一敏氏だ。中野氏は「自分も写真ではこの住宅の本当のすごさがわからなかった。ぜひ泊まって体験してほしい」と話す。宿泊予約は、Booking.com、Airbnbにて受付中だ。
公式ホームページはこちら https://sites.google.com/view/nanamenoie
営利目的ではなく、この住宅を維持保全していくための活動だ。上越市に隣接する糸魚川市には、渡邊の独立後の処女作である「善導寺」(1961年)や、建築家・村野藤吾の最晩年の傑作「谷村美術館」(1983年)もあるので。建築好きのグループでワイワイ泊まるのがお勧めだ。
■概要データ
斜めの家(田中邸)
所在地:新潟県上越市
設計:渡邊洋治
施工:岩島工務店
階数:地上2階
構造:木造
延べ面積:108.81m2
竣工:1976年(昭和51年)
■参考文献
建築家・渡邊洋治生誕100周年記念!「斜めの家」を泊まって学べる名住宅にしよう!(クラウドファンディング)
「斜めの家」を理解せずに上越の文化を語るなかれ(中野一敏著、『直江の津』52号)
『日経アーキテクチュア』2024年8月8日号「有名集合住宅その後」
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