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「東京」で暮らすのをやめて岩手へ。移住して、両親を亡くした喪失感から離れることができた|あまのさくや

りっすん

誰かの「やめた」ことに焦点を当てるシリーズ企画「わたしがやめたこと」。今回は絵はんこ作家、エッセイストなどとして活動しているあまのさくやさんにご寄稿いただきました。

あまのさんは、5年前に母を亡くした時から「家族の思い出が多い東京にいることの寂しさ」を感じていたそう。その後、仕事をきっかけに訪れた岩手県・紫波町に移住したことで、寂しさとの向き合い方に変化があったといいます。

***

私は育った東京で、長らく暮らしていた。実家があり、友だちがいて、好きなお店もたくさんある東京で暮らすことが、私にとっての普通だった。

しかし40代を目前にして「この先の人生、ずっと東京で暮らし続けるのだろうか?」と疑問を持つようになった。東京での未来にあまり希望を持てなくなってしまったのは、母を亡くしてからだった。

2017年の夏、母のがんが発覚した。その頃のわが家は、前年に若年性認知症の診断が下りた父の面倒に追われており、そこでさらに母の病気が見つかるというのは、母自身にとっても家族にとっても思いもよらないものだった。

がんが見つかった頃にはもうずいぶんと進行していた。母がもうすぐ死ぬ(かもしれない)。それは大きな絶望として家族に降りかかった。同時に、待ったなしに進行する父の認知症。

そしてがん発覚から1年半がたった頃、母は逝ってしまった。

母がいない東京で暮らし続けることが恐ろしくなった

私の人生には、いつも母がいた。それが当たり前だと思っていたので、母がいない人生を歩み出すのはとても恐ろしいことだった。気晴らしに洋服でも買おうかと好きなお店を巡っても「このカットソーは母に似合いそうだな」「このお店、母も好きだったな」などと考え始めてしまう。家にいても街へ出ても、東京に母との思い出が一つもない場所などなかった。

深い悲しみと孤独の中、仕事も手につかなかったけれど、目の前にいる父の世話はしなければならなかった。父は徘徊をするわけではないし、食事や階段の昇り降りなども自分でできた。ただ、お腹が空いたから自分で料理をしようとか、部屋が寒いから暖房をつけようとか、生活の中で必要な調節を自分ではできなかった。

そんな父を家に一人で置いておくわけにはいかず、兄と弟と3人で交代しながら在宅介護をすることになった。半年間はどうにか対応できたが、そのうち在宅介護に限界を感じ、老人ホームへの入所を決めた。父が自分の意思でトイレで用を足せるうちに。数時間の暑さが命取りとなる猛暑が来る前に。そして父が入所できたのは、コロナ禍が訪れる前の最後の夏だった。

父が老人ホームに入所した後は、いわゆる介護ロスのような、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。肩の荷が下りたのと同時に、それまで「父の世話をしなくちゃ」という大義名分の後ろに隠れていた「私の人生」がむき出しになった。

あれ、私の人生って、どうなるんだっけ? 結婚はしておらず、母を亡くし、父もそばにいない。40代を迎え、その先もずっと独身だとしたら、やがて待っているのは孤独死なのでは? 生々しく想像したら恐ろしくなり、マッチングアプリを始めたりもした。そろそろ人生の主軸を自分に戻さなくては。

親が残してくれた東京の実家があれば住むところには困らない。でも、かつて家族5人で暮らしていた家に私1人で暮らすことを想像したら、恵まれているはずの環境なのに、とても寂しい選択に思えた。

そんなことを考えていたらちょうどコロナ禍がやってきて、フリーランスとして引き受けていた大きなイベントの仕事が中止になった。今が自分の居場所を見つめ直すタイミングかもしれないと思った。

3年間、東京を離れてみよう。実家問題はそれから考えよう

あるとき、かつての同僚から仕事の依頼があり、岩手県・紫波町(しわちょう)を訪れることになった。夫の仕事上、転勤の多かった彼女だが、たどり着いたこの町をとても気に入ってしまい、転勤族なのに移住し、家まで購入したという。

紫波町は、盛岡駅から電車か車で20分ほどという利便性ながら、多くの人は名前を聞いたことがない町だと思う。人口は約3万3千人(2024年3月時点)。聞けば紫波町は、公民連携の「オガールプロジェクト(※1)」で全国自治体・視察件数ランキングでも毎回上位に入るほど、まちづくりの先進地だった。

(※1)紫波町で実施されている、都市と農村の暮らしを「愉しみ」、環境や景観に配慮したまちづくりを表現する場にすること理念にしたまちづくりプロジェクト

参考:オガールプロジェクト(岩手県紫波町)は都市と農村の新しい結びつきを創造します。|オガール


中心地にある駅の前には役場や図書館、コンビニや産直スーパー、アウトドアグッズ店、ホテル、クリニックなどが集合している。今となってはなんとも失礼な感想だと思うが「こんな“田舎”なら住めそうだ」というのが第一印象だった。

ふと「地域おこし協力隊(※2)という制度で、3年間、紫波町で暮らして働いてみるのはどう?」と、彼女が言った。「これから私の人生、どうしよう?」なんて話したわけでもないのに。彼女の言葉から「おいでよ、きっと楽しいよ」という感情が伝わってきて、大した根拠もないのに「ま、それもいいかもな」と思えてしまったのだ。

(※2)都市地域から、人口減少や高齢化等が進む地域に住民票を異動し、地域ブランドや地場産品の開発・販売・PR等の地域おこし支援、農林水産業への従事、住民支援などの「地域協力活動」を行いながら、その地域への定住・定着を図る取り組み

参考:総務省「地域おこし協力隊~移住・地域活性化の仕事へのチャレンジを支援します!~」


東北に地縁も血縁もないけれど、直感で「住めるかも」と思えた。彼女の誘いに乗って、3年間、いったん東京を離れて暮らしてみよう。そして実家をどうするかを考えていこう。私たち兄弟にとっても、ちょうどいい猶予期間のように思えた。

父の介護の状況も、移住を考えるきっかけになった。コロナ禍で父が入所していた老人ホームは家族の面会が制限され、会いたい時に会えなくなってしまった。その事実は、私から東京に住むべき絶対的理由を奪った。

移住する前「私、岩手に引っ越そうと思う」と申し出たとき、父は明らかに動揺し「遠いよ」と言った。寂しさを明らかにする父の姿に、さすがに胸は痛んだ。

だけど私は、父のために自分の人生の大きな選択をあきらめてしまったら、きっと父を恨んでしまうと思った。親不孝な娘だと思うけれど、父に報告したときにはもう、心に決めてしまっていたのだ。

父のそばで暮らさない分、できる限りのことはしようと決めた。遠距離介護はきっと成り立つ。根拠はないが確信はあった。月に1回は東京に行く機会を作り、施設での面会を予約して、許される限りの頻度で会いに行った。

遠距離恋愛のような効果だろうか。たまにしか会えないと思うと、父のことが以前よりもいっそう愛おしく思えた。結果的に、東京で暮らす兄弟よりも私の方が父に会いに行く頻度は高かった。でも父の緊急時には、兄弟が早く駆けつける。そんなバランスで、遠距離介護はどうにか成立していた。

岩手に来て「目の前にあるものを楽しむ」大切さを知った

「紫波町に住む」という選択を後押ししてくれた心強い存在の一つが「紫波町図書館」だった。

この図書館に初めて足を踏み入れた時、何か他の図書館とは違う不思議な感覚があった。天井が広くて、明るい。そして棚には数々の本が、表紙が見えるように置いてある。

吸い寄せられるように数冊手に取り、近くにあった席に座り込んでページをめくり始めた。すると、隣の席の人がコーヒーを片手に読書しているのに気がついた。館内にはうっすらBGMがかかっていて、静寂ではない。さながら喫茶店のような心地よさがある。この近所に住めたらいいなと思った。

東京にいた頃は、中野・高円寺あたりで長らく暮らしていた。ミュージシャンやお笑い芸人が夢を抱いて上京してくるような街に中高生の頃から親しみ、好きなミュージシャンのライブも映画も、片道数百円の交通費をかければ観に行くことができた。

街には書店やCDショップ、映画館、ライブハウスなど、情報や文化を吸収できる場がいくらでもあった。街に出ればそれらを享受できるのが当たり前の生活だった。

岩手に来て、これまでの私はとても恵まれていたのだと分かった。今は好きな人のライブに行くために、チケット代の何倍もかかる旅費や交通費を計算に入れなければいけなくなった。予算を考えると、行ける回数は限られる。だから東京に行ける機会があれば、そのタイミングで行われている展覧会やライブの情報をチェックして、できる限り見られるように予定を組むようになった。

東京で漫然と暮らしていたら見逃していたかもしれないものを、わざわざ予定を調整して見に行く。そうして見られた数少ないものを、以前よりも噛(か)み締めるようになった。

そうするうち、行けないものをうらやむよりも「近くで行われている面白そうなイベントにちゃんと足を運ぼう」と思えるようになった。目の前のものを面白がっているだけでも、実は十分忙しい。そう考えるようになって、日々が充実するようになってきた。

紫波町図書館も、そんなふうに感じさせてくれた場所の一つだ。巨大な図書館ではないけれど、いいなと思える本と出合える機会があって、それをじっくりと読みたくなる空間が作られている。丁寧に噛み締めるように本と向き合う時間を作ることが、今、私の人生を豊かにしてくれていると思う。

「寂しさ」から距離を取る暮らし方

移住から丸3年がたった2024年は、たくさんの転機が訪れた年だった。まず年の初頭に、父が逝った。日を追うごとに病気が進行し、もう長くはないと覚悟していたけれど、その日は思っていた以上に早く訪れた。

父が亡くなったことで相続についての決断にも迫られ、私たちは「実家を手放す」ことにした。私は東京に戻らずに、岩手にいる。兄弟は自分で選んだ家に暮らす。ようやく達した結論だった。

ここ数年、東京に行くのは父と会う予定とセットだった。だから東京駅に着くとその足で、父のいた施設へ向かおうとしてしまう。もう、父はそこにいないのに。東京にいるだけで寂しい現実が目につく。

そんなときに私を支えてくれたのが、岩手の存在だった。父の忌引休暇でさまざまな手続きに追われる中で、東京にいながら岩手の人たちと連絡を取っていた。「帰ったら週末に鍋を食べようね」とか平和な予定を立てながら「ああ、早く岩手に帰りたい」と強く思っていた。いつの間にか、今の私が落ち着く場所は岩手になっていたのだ。

母の死から数年がたち、数年の介護を経て父を見送った。ある程度その過程に納得しているし、もう突然泣き出すようなことはない。自分の慰め方も感情の収め方も分かっている。それでも父と母がこの世にいないという事実は乗り越えようのない喪失感で、いつだって消えてはくれない。

だからこそ、真っ向から向き合わない方がいい。岩手での生活には、父や母との思い出がない。私にとっては目の前の景色を変えることが、喪失感から目を逸らす一番有効な手段だったのだと思う。

東京の家を手放す決意をし、岩手での生活が本格的に新しいシーズンに突入した。新シーズンの私に何が起こったかというと……。実は2024年10月に、移住のきっかけとなった紫波町図書館の館長に就任した。そしてその翌月に、岩手出身の人と結婚した。小説のプロットならば、編集者のダメ出しを食らいそうなくらい盛りだくさんなシーズン2だ。

まずは3年。東京から離れて、まあやってみるかくらいの気持ちだった。もしも父と母が元気だったら、私は今、岩手にいることはなかっただろう。

喪失感を感じながら執着して過ごすよりも、風景を変えて今見える景色を慈しむこと。新しい思い出を積み重ねていく日々の方が面白いと、今の生活が教えてくれている。東京で暮らすのをやめた。私の岩手での生活は、今が圧倒的に面白い。

編集:はてな編集部

著者:あまのさくや

チェコ好きの作家、紫波町図書館の館長。『32歳。いきなり介護がやってきた。』(佼成出版社)、『チェコに学ぶ「作る」の魔力』(かもがわ出版)より発売中。「本と商店街」(紫波町・日詰商店街)主宰のひとり。

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