関ヶ原の戦いで「裏切者」の烙印を押された、小早川秀秋の実像とは
関ヶ原の戦いにおいて東軍へ寝返った小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、後世において「裏切者」の代名詞として語られることが多い。
しかし、その強烈なイメージが一人歩きし、秀秋の実像や性格に目が向けられることは少なかったように思われる。
実際の秀秋はどのような人物だったのだろうか。
今回は、その人物像に焦点を当て、改めて小早川秀秋の本質を探っていくことにしよう。
豊臣秀吉からの英才教育とその反動
秀秋は、豊臣秀吉の正室である北政所(ねね)の実兄・木下家定の五男とされる。
秀吉には実子がいなかったため、秀秋は幼い頃から北政所(ねね)のもとで大切に育てられた。北政所の愛情は深く、秀吉自身も秀秋をわが子同然に思っていたと伝えられる。
秀吉が北政所に対して、秀秋を褒めて育てるように求めたという逸話も残されており、秀秋は豊臣家の後継者候補として期待されていた。
一方で、秀吉の秀秋に対する教育方針は厳しく、将来立派な大名として成長してほしいという願いから、一種の英才教育が施されたと考えられている。
その結果、秀秋は幼少期から学問に励んだが、その一方で重圧もあったのか、わずか8歳で酒に手を出したという逸話もある。
実際に秀秋は21歳の若さで亡くなっており、死因は酒色に起因する内臓疾患とされている。
曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)の著した『医学天正記』にも、慶長6年(1601年)7月、秀秋が酒疸による重い黄疸症状を患い、治療を受けたことが記されている。
関ヶ原の戦いで裏切った秀秋
秀秋が歴史の表舞台で一躍注目を浴びたのは、やはり関ヶ原の戦いにおける「裏切り」だろう。
秀秋は、少なくとも慶長5年(1600年)8月末ごろまでは西軍の中核的な立場にあったと考えられる。
当時の公家の日記『時慶記』にも、そのような状況がうかがえる記述が残されている。
秀秋と東軍の接触が伝えられているのは、8月28日付の黒田長政と浅野幸長の連署状である。
この書状では、秀秋に対して東軍に寝返ることを強く要請し、「家康公が到着する前に早く決断するように」「我ら二人は北政所様へ引き続きお尽くししなければなりませんので、このように申し上げているのです」と促したとされる。
北政所は当時、豊臣家中で中立的な立場にあったと近年の研究で考えられている。つまり、長政と幸長が北政所の名を持ち出したのは、北政所の意向によるものではなく、秀秋に対する心理的圧迫の一種であった可能性が高い。
北政所の近くに長政と幸長がいたことを考慮すれば、秀秋の返答次第では北政所の処遇にも影響が及ぶと暗に示し、脅しとも取れる形で速やかな決断を迫ったと考えられる。
これにより、北政所に恩義を感じていた秀秋は、その気持ちを逆手に取られる形で決断を急がされたのではないだろうか。
秀秋と家臣の関係
関ヶ原の戦い後、秀秋は家康からその戦功を高く評価され、宇喜多秀家の旧領である備前国と美作国の二ヵ国を加増され、岡山城主に任じられた。
これにより秀秋の所領は55万石に達し、一時的にはその評価は高かったものの、関ヶ原での裏切りという汚名がつきまとった。
岡山城主となった秀秋は、名君として評価されることを目指したとされるが、家臣団との関係に問題が生じている。
中心的な重臣たちが、次々と家中を去ってしまったのだ。
後世の軍記物である『備前軍記』には、秀秋の「乱行」が重臣たちの離反の原因として記されている。ここで言う「乱行」とは飲酒癖のことであり、秀秋の飲酒は岡山城主となってからも酷く、健康にも悪影響を及ぼしたと伝えられる。
一方で、秀秋と重臣の離反については別の見方も存在する。
秀秋は幼少期に亀山城主となった際、補佐役の山口宗永(やまぐち むねなが)に領国経営を任せていたが、後に宗永との関係が不和となり、宗永は秀秋のもとを離れたとされる。秀秋は自らの手で領国を統治したいという強い意志を持っていたが、政治経験の未熟さから重臣たちとの軋轢を生んだとも考えられる。
関ヶ原での裏切りを主導したとされる家臣たちも岡山藩政から離れており、秀秋は裏切りの汚名を返上しようと重臣団を再編し、自らの手で統治を行おうとした。
しかし、その努力は実を結ぶことなく、秀秋は22歳(数え年で21歳)という若さで亡くなった。
秀秋の死因については、後世「大谷吉継の霊に怯えた」や「狂気による死」といった逸話が伝えられるが、これはあくまで後世の創作である。
史実としては、前述したように過度な飲酒による健康悪化、特に肝臓疾患が原因とされている。秀秋は裏切り者としての汚名に苦しみながらも、名君となることを目指していたが、その志半ばで短い生涯を閉じたのである。
おわりに
小早川秀秋は関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、後世に「裏切者」という強いイメージを残すこととなった。
若い頃から英才教育を受ける一方で、反動もあってか飲酒に溺れ、肝臓を悪くして若くして生涯を閉じた。その短い生涯ゆえに「裏切り者」のイメージを挽回する機会もなかった。
しかし、秀秋は幼少期から学問に励み、良い君主を目指していたことは確かであろう。
周囲からの過剰な期待と、若さゆえの未熟さが絡み合い、補佐役に経営を任せる一方、自らの力で領国を治めようとする葛藤を抱えていたことがうかがえる。
秀秋が岡山城主として統治を行う時間がもっとあれば、「裏切者」のイメージだけが独り歩きすることはなかったかもしれない。
参考:
『シリーズ「実像に迫る」小早川秀秋 戎光祥出版株式会社』2017年2月10日発行
『小早川隆景・秀秋 ミネルヴァ書房』2019年3月10日発行
文 / 草の実堂編集部