戦後80年!二度と見たくない史上最高の映画「火垂るの墓」が反戦映画ではない理由
世界190以上の国や地域で配信された「火垂るの墓」
人々は、その映画をこんな風に呼ぶ。―― “二度と見たくない、史上最高の映画” と。
かの高畑勲監督の映画『火垂るの墓』である。昨年9月からNetflixが、日本を除く世界190以上の国や地域で同作品を独占配信したところ―― 初週に「週間グローバルTOP10(映画・非英語部門)」の第7位にランクイン。たちまちSNSには、世界中の視聴者から寄せられた同作品の感想が並んだ。戦争の悲惨さを語る者、家族の絆について語る者、中には感想を動画配信してる途中から涙があふれ、言葉にならぬ者もいた。そして彼らは一様に、冒頭に記した “言葉” で締めたのである―― “もう、二度と見たくない。でも……これは史上最高の映画です” 。
そう、同映画は見終わったら最後、激しい虚無感に襲われ、二度と見たくないと思う。だが、同時にその高いクオリティに深く感動し―― ゆえに、ある程度時間が経つと、また見たくなる。そして見終えた瞬間、再び激しい虚無感に襲われ、また二度と見たくないと誓う。
映画『火垂るの墓』は、日本テレビの『金曜ロードショー』に初登場した1989年から、直近では高畑監督が亡くなり、追悼番組として流れた2018年まで、実に13回も同局で放映されている。そして戦後80年の今年―― まさに今日、8月15日に、実に7年ぶりに帰ってくる。これだけインターバルが開けば、“二度と見たくない” 前言を翻し、そろそろ見たくなった方々も多いのではないだろうか。ちなみに、終戦の日に “金ロー” 枠で『火垂るの墓』が放映されるのは、今年が初めてである。
そこで今回、改めて同映画の見どころや裏話なども交えつつ、高畑監督がこの “二度と見たくない、史上最高の映画” で何を伝えたかったのか―― その “視点” に迫りたいと思う。
同時上映は「となりのトトロ」
映画『火垂るの墓』が劇場公開されたのは、今から37年前の1988年4月16日――。配給は東宝。同時上映はご存知、宮崎駿監督の『となりのトトロ』である。今にして思えば、なんと贅沢な2本立てだろう。例えるなら、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが裏表で対峙したビートルズの両A面シングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー / ペニー・レイン」(1967年)と言ったところか。
同映画の成り立ちは、ちょっと面白い。まず、現・スタジオジブリ代表取締役議長であり、映画プロデューサーの鈴木敏夫サンが、まだ雑誌『アニメージュ』(徳間書店)の副編集長時代、彼が映画『風の谷のナウシカ』(1984年)の制作に尽力した縁で、翌1985年、徳間書店の出資でスタジオジブリが設立される。
そして1986年、同スタジオ第1作の映画、宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』(製作:徳間書店)が公開。興行成績こそ今一つだったものの、“キネマ旬報ベスト・テン” の読者選出日本映画第2位にランクインしたり、ぴあテン映画部門第1位を獲得したりと、そのクオリティは世間から高く評価。鈴木敏夫Pは次回作の構想を練り、かねてより目を付けていた企画を自社―― 徳間書店の上層部に提出する。
それが、宮崎駿監督が以前から温めていた『となりのトトロ』だった。だが、どうにも山下辰巳副社長(当時)の反応が鈍い。理由を聴くと、それまで同社が製作に携わった『風の谷のナウシカ』も前作の『ラピュタ』も、万人ウケする冒険活劇ファンタジーだったのに対し、今作は “おばけ” の話。これじゃ客足は見込めない―― と。
原作は野坂昭如の自伝的小説
そこで鈴木P、一計を案じる。ジブリの二本柱である、もう一人の高畑勲監督も巻き込み、同スタジオの看板2人による2本立てにしようと。早速、高畑監督に打診すると、悪くない返事。企画を練るうち、戦時下の子どもたちの話はどうかとなった。そして、いくつか原作を探す中で鈴木Pが提案したのが、自身が名古屋から上京して大学に入学した年に直木賞を受賞し、当時感銘を受けた、野坂昭如サンの自伝的小説『火垂るの墓』だった。
ⓒ野坂昭如 / 新潮社
高畑サン、薦められるままに一読すると、いたく感銘を受けたらしく “面白いから、やろう” と快諾。そこで鈴木Pは、善は急げと再び、徳間書店の山下副社長のところへ行き、“この2本立てならどうでしょうか” と談判すると、返ってきた答えが “バカ野郎!おばけだけかと思ったら、そこに墓までくっつけるのかっ!” と一網打尽――(笑)。
まるで落語のような話だが、すべて実話である。だが、禍を転じて福と為す―― 困った鈴木Pがダメ元で『火垂るの墓』の版元である新潮社に打診すると、ちょうど同社はアニメ事業への進出を考えており、まさに渡りに船。快く出資に賛同してくれた。となると、相手がいる話になり、徳間書店も当初の企画『となりのトトロ』を認めざるを得なくなった。
かくして、徳間書店と新潮社という2つの出版社がタッグを組む、異例の2本立て上映が決まる。宮崎駿と高畑勲という稀代の天才2人の “競演” は、そんな流れで実現する。ジブリ作品で『火垂るの墓』のみ、著作権をジブリではなく、原作者の野坂昭如サンと新潮社が持つのは、そういうコトである。おかげで、日本では動画配信されないジブリ作品の中で、『火垂るの墓』のみ、今夏から日本でもNetflixの配信が始まった。
昭和20年9月21日夜、僕は死んだ
さて、『火垂るの墓』―― 原作小説は、さして長くない短編である。野坂昭如サンの実体験がもとになっており、亡くした妹への贖罪の気持ちで書かれたという。映画版は原作を踏襲しつつ、ところどころに高畑監督の脚色が施されている。“昭和20年9月21日夜、僕は死んだ” ―― 幽霊となった主人公・清太のモノローグから始まる物語の冒頭もそう。赤い色調に描かれた “彼” の視線の先には、現代の神戸・三宮駅。次の瞬間、時間が遡り、昭和20年の駅構内の風景に乗り替わる。柱にもたれて座る14歳の清太の目には、もはや生気はない。
その夜、亡くなった清太の唯一の所持品であるドロップ缶(サクマ式ドロップス)を拾った駅員が、駅前の草むらにソレを放り投げると、蓋が外れて中から白い骨のかけらがこぼれ落ちる。その瞬間、周囲の蛍が一斉に飛び立ち(*蛍のいない9月である)、4歳で餓死した妹・節子の幽霊が目覚める。“彼女” も赤い色調を帯びている。節子の視線の先には、今しがた亡くなったばかりの清太がいる。思わず駆け寄ろうとする節子の肩を、やさしく止める手。振り返ると、兄・清太の幽霊。微笑む節子――。
そうして、幼い兄妹の回想の旅が始まる。無人の駅から赤い色調の電車に乗り込むと、車内に人影はない。窓の外を眺めると、夜空に爆撃機の大編隊と、投下される焼夷弾の雨―― 画面がひと際明るくなると、少しばかり時代が遡り、リアルな描写になる。昭和20年6月5日、早朝―― そう、神戸大空襲の朝である。
ⓒ野坂昭如 / 新潮社
わずか2ヶ月半を描いた物語
この物語は、その日から節子が亡くなる同年8月22日までの、わずか2ヶ月半を描いたものである。空襲の中、清太はひと足先に病身の母を防空壕へ避難させ、少し遅れて自らは、手に人形を抱える防災頭巾の節子を背中におぶって、焼夷弾の雨の中を駆け回った―― 。そして、方々の家々から火の手が上がる中、辛くも兄妹は逃げ切る。しかし、避難先の学校で再会した母は全身を包帯で覆われ、変わり果てた姿に。間もなく母は息を引き取り、兄妹は親戚の西宮の叔母の世話になる。
当初、叔母との関係は比較的良好だったが、次第に兄妹は叔母から疎んじられるようになる。家には叔母の娘と勤労奉仕に励む下宿生がいたが、叔母は2人の茶碗には雑炊の具を盛るが、兄妹には汁ばかりを入れた。また、昼間何もせず、部屋にいる清太に小言を言い、かと思えば兄妹の母の着物をコメに変えるように提案。泣いて嫌がる節子を気にも留めなかった。
ある日、兄妹は海へ出かける。このシークエンスは息苦しい描写が続く中にあって、一服の清涼剤となる。清太は汗疹ができた節子を海に入れる。6月の海はまだ冷たいが、節子は笑顔を見せ、久しぶりにはしゃぐ。ここで、1年前に母に連れられ、3人で海へ出かけたシーンが回想される。節子はモンペ姿ではなく、白いセーラーに身を包み、兄妹は海の家でやさしい母が見守る中、よく冷えたカルピスを飲み、素麺を食べる。この描写から、兄妹が裕福な家の子だったことを改めて思い出す。そう、2人の父親は、海軍の士官なのだ。
胸の奥がグッと掴まれる思いになる後半のストーリー
それにしても、わずか1年前の描写なのに、戦局の落差に驚かされる。そう、今日、僕らがイメージする戦時中の様子は、本土空襲が本格化した昭和20年のもの。昭和19年以前は、少なくとも日本国内は平穏な時代だった。それだけに、これから起きる映画の後半のストーリーを思うと、胸の奥がグッと掴まれる思いになる。考えたら、4歳の節子は生まれてからずっと、戦時下の中を生きている。
その後―― 兄妹に対する叔母の物言いはますますきつくなり、とうとう、食事を別にするように告げられる。ある日、清太が銀行に行くと、母親が7,000円も貯金していたことを知る。現代の貨幣価値に換算すると、1,000万円近い大金になる。これだけあれば、兄妹2人でも自立して生きていける――だが、それが2人の悲劇の幕開けの合図だった。
兄妹が叔母の度重なる仕打ちに耐え切れず、家を出るのは物語が始まって、間もなく50分を迎えるころである。ここからラストまで40分―― 彼らは池のほとりの横穴(防空壕)を住処として、2人だけの小さな世界に閉じこもる。外界との情報は遮断され、隣近所との付き合いも絶たれ、町のコミュニティからも外れる。むろん、配給ももらえない。そして―― 戦局は急速に悪化し、モノが不足してお金が利用価値を失い、物々交換でしか物資が流通しない時代に突入する。
それでも、横穴で暮らし始めた当初は、まだ食料の蓄えもあり、兄妹は久しぶりの “自由” を謳歌する。食べたい時に食事をして、池のほとりで蛙と戯れ、夜は蚊帳の中で蛍の明かりに囲まれ、おしゃべりをした。わずか1年前まで、やさしい母と共に、何不自由なく暮らしていた節子が、今や横穴の暮らしに順応し、モンペ姿で寝入っている。
ⓒ野坂昭如 / 新潮社
終戦から1週間後に節子は息を引き取る
だが、2人の “残り時間” は刻刻と迫っていた。とうとう食料が尽き、節子の体が異変を帯び始める。 “ウチな、おなかおかしいねん。もうずっとビチビチやねん” ―― 間もなく、節子の顔から表情が消え、体はやせ細り、肌は荒れ、受け答えも消え入るような声に。清太は節子のために、夜中に農家の畑に盗みに入り、また空襲の度に空き家になった家々に侵入しては、食料や着物を持ち帰った。もはや理性を失っていたが、妹の命には代えられなかった。
終戦から1週間後の昭和20年8月22日、節子は息を引き取る。その日、清太は母の貯金を下ろしに出かけた銀行で、終戦を知った。外界と遮断された2人は、本当に何も知らなかった。節子が死んだ翌日、池のほとりの洋館に、スカートを履いた若い娘たちが疎開先から帰ってくる。 “久しぶりやわ。蓄音機!” ―― 洋館から、やわらかな音楽が聴こえる。英語で歌われる「埴生の宿」(Home! Sweet Home!)だ。改めて、平和な時代が訪れたことを実感する。テラスから池を眺める娘たち。その向こう岸には、あの横穴が見える。
無人となった横穴には、かつて兄妹が暮らした面影が残る。七輪、たらい、バケツ、布団、鍋に箸――。節子が最後に口にした西瓜は地面に転がり、無数のアリが群がる。手製のブランコは片方の縄が千切れ、2人が雨を凌いだ番傘はあの日と同じくやぶれたまま転がる。ちなみに、歌舞伎や文楽で番傘は “心中もの” の象徴として用いられる。
なおも、やわらかな音楽が流れる中、在りし日の節子の笑い声が聞こえる。清太が出かけている間、一人遊びをする節子の姿が映し出される。トンボや蝶を追い、泥団子を作り、池の水面に映った自分とジャンケンをする――。亡くなる前、節子が買い出しに出かける清太にあれほど “行かんといて” と懇願したのは、彼女なりの最後の我がままだったのだろう。顔には出さないが、一人遊びをしながらも、節子はずっと寂しかったのだ。
ラスト―― 山の上のベンチに座る清太と節子。赤い色調を帯びており、一目で幽霊とわかる。2人が見下ろす眼下には、現代の神戸の街の明かりが広がる。そう、あの日からずっと、兄妹の魂はこの街をさまよっている。
戦争に勝者も敗者もない
高畑勲監督は “この映画は反戦映画ではない” と言う。以下、映画のパンフレットから引用する。
「もしいま、突然戦争が始まり、日本が戦火に見舞われたら、両親を失った子供たちはどう生きるのだろうか。『火垂るの墓』の清太少年は、私には、まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない」
「清太のとったこのような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子供たちとどこか似てないだろうか」
「我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」
わたくしゴトだが、僕の母親は戦時中に父を病気で亡くし、昭和19年―― 小学2年のときに、ひとり福岡の家族の元を離れ、神戸にいる親戚の養子になっている。そして、翌20年に神戸大空襲に遭遇し、そのまま終戦を迎えた。節子より、ほんの少しおねえさんだが、8~9歳の幼い少女であるのは変わりない。この映画を見る度、僕は幼少期の母を想像し、とても他人事じゃない心情になる。
戦争に勝者も敗者もない。あるのは―― 日常を壊された、敗者のみである。