在日コリアンの避難所となった最初期の焼肉横丁と、“焼き肉”として定着した朝鮮料理。浅草『金燈園』<後編>【街の昭和を食べ歩く】
文筆家・ノンフィクション作家のフリート横田が、ある店のある味にフォーカスし、そのメニューが生まれた背景や街の歴史もとらえる「街の昭和を食べ歩く」。第2回はかつての「国際マーケット」の一角にあり、闇市由来ともいわれることがある浅草・焼肉横丁の『金燈園(きんとうえん)』で、1964年の創業から注ぎ足されてきた【焼き肉のタレ】。後編では、今回伺った話とそれ以前までに取材した内容に基づき、焼肉横丁の成立史にフォーカスします。
不思議な魅力を持つ「焼肉横丁」のルーツ
ホルモンを焼き食らうことに歴史的背景があるとはどういうことか。
まずこの肉。戦前から牛の内臓肉は食べられてはいたものの、広く一般化したのは戦後といっていい。終戦後も続いた厳しい食糧統制下でも、内臓は統制の外にあったか、管理されてはいても正肉(しょうにく)よりずっと扱いは低かった。これを安く仕入れ、おいしく食べる技術をもっていたのが在日コリアンたちだった。そして肉をタレに漬け込んで、さらにつけダレに浸して、味の二重奏で食べる方式も彼らが発明したものなのだ。食べにくい部位をおいしく食べる技術である。
とはいっても、横丁誕生すぐから焼き肉店が並んでいたわけでもなかった。
浅草の狭いこの路地の不思議な魅力にひかれた私は、以前その成立史を可能な限り調べ、自分なりに書いたことがある。戦後第一世代の住人たちや横丁仕掛け人の親族への聞き取りを重ね、各種権利関係書類などの資料にあたった。そのことが、日本各地に点在する、戦後に成立した在日コリアンたちの横丁を理解するためのひとつの参考になると思ったからだった。
まずわかったのは、焼き肉屋さん以前に、在日コリアンたち自体も一番最初はここに集まってはいなかったこと。そして「マーケット」の名が昭和期以来残って伝わっていたからか「闇市」由来とも書かれることがあるが、それも厳密には違ったこと。
「朝鮮料理」の店が増えていった最初期の横丁
戦前、大正期にはこのすぐ近くに「凌雲閣」という名の、今でいうスカイツリーのような、レンガ造りの塔が立っていた。浅草のランドマークだった。そのたもとには、絵葉書を売る店などが並んでいたが、実際は売り子の女性たちが春を売った。通りから見て売るものが判然としないから、「あいまい屋」などとも言われていた。このあたりの地主はおもに元士族や、浅草らしく興行会社などであったが、いずれもこの地に住んでいたわけではなかった。つまり、土地に根を下ろした人々の住宅地ではなく、また六区の歓楽街からも少し離れ、メインストリートではない一角であり、戦前は「裏町」の属性を宿していた。「あいまい」が入り込む「余白」があったのだ。
やがて「凌雲閣」は関東大震災で倒壊し、それから二十余年のち、「あいまい」な商売の一角も、戦時の建物疎開(空襲の延焼防止のため建物を間引きしていく処置)でまっさらにされ、ふたたび「空白」の気配を宿すに至った。
戦争が終わると、空白の上に、焼け出された戦災者、復員兵たちが小屋掛けして仮住まいをしはじめたと考えられる。いろいろな人が集うなか、そこを取りまとめる人が出てきて、仮小屋は木造長屋に整えられ、地主と権利関係を調整して、建物の貸し出しがはじまった。このときに入ってきたのが、在日コリアンの人々だった。戦災者と同じくらい、彼らも焼け出された上、どこにも寄る辺のない人々だったのだ。やがて、長屋はほぼ彼らが借り受けることになった。なぜなら、差別的境遇にあった彼らは当時賃貸物件を借りにくく、ここが借りられると分かるや、一挙に逃げ込んできたのである。
一角は、「国際マーケット」と呼ばれるようになった。この「マーケット」の名称から、闇市と連想されるが、前述したように、地主に了解の上で作られた一角なので、不法占拠の闇市とは言えない。
在日コリアンたちのアジール(避難所)となった最初期の横丁は、物販の店(雑貨屋やチマチョゴリの店など)も混じりながらも、おおよそ飲み屋小路となっていったが、やがて、「朝鮮料理」と呼ばれた在日コリアンたちの郷土料理店が増えていった。(ここへ至るまでにはもちろん、順風満帆な歴史ばかりではなかった。もっと詳しく知りたい方は、拙著『横丁の戦後史』〈中央公論新社〉を読んでみていただきたい)。
かつては『金燈園』も24時間営業だった
それでも、日本での就業先も多くない時代、やっと手に入れた自分の城を守る店主たちは、まったくの休みなしで働いた。
『金燈園』の店主・西原正浩さんは、
「うちの店も24時間営業でした。おばあちゃん、昔はこの建物の上に住んでいたんですよ」
と当時を振り返る。
職住一体どころか、全てを働くことに捧げていた第一世代が横丁内には暮らしていた。私も大正生まれのオモニに取材したことがある。オモニのお孫さんは「昔はいつ寝てるのかと思ってました」と言っていたが、お客がいないときに小上がりに横になる程度で、昭和30年代からバブル期にかけて、ほとんどまともに休息をとらず、客さえいれば何時間でも仕事をし続けていた。この女性は故国の戦乱から逃れてきた人でもあった。戦(いくさ)と違って、働いていて殺されることはない。一生懸命やれば平和に暮らしていけたのである。
やがて、この国が経済発展していくのと歩調を合わせるように、郷土色のあった朝鮮料理は、「焼き肉」として、皆がイメージできるメニューや食べ方が整えられ洗練されていき、この国になくてはならない料理として定着した。
往時は数十軒を数えた横丁の焼き肉店は、その後数が減ってしまったとはいえ、いまだに十軒弱が元気に営業している。そのたたずまいは、昭和のころとほとんど同じだ。
私は、あの時代の力強さと、気取らなさを同時に感じられるような焼き肉屋さんに引かれる。「ここは間違いない」と感じられるお店には、前編で言及したロースター、甘いタレ以外に、もうひとつある。それは、「暮らしと密着した店」であること。
ある日、この横丁で目にした光景は、「ああ間違いない」と一瞬で感じさせてくれた。夕暮れ時、ガラガラっと一軒の引き戸を開けると、奥の空いたテーブル席で、店主の息子さんらしき小学生が、タレの瓶の脇で、一生懸命、宿題をやっていた。
金燈園(きんとうえん)
住所:東京都台東区浅草2-13-1/営業時間:17:00~21:30(土・日は10:00~、祝は11:30~)/定休日:火・水/アクセス:つくばエクスプレス浅草駅から徒歩2分
取材・文=フリート横田 撮影=フリート横田、さんたつ編集部
フリート横田
文筆家、路地徘徊家
戦後~高度成長期の古老の昔話を求めて街を徘徊。昭和や盛り場にまつわるエッセイやコラムを雑誌やウェブメディアで連載。近著は『横丁の戦後史』(中央公論新社)。現在、新刊を執筆中。