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松田聖子デビューから45年、伝説のプロデューサー若松宗雄が語る誕生秘話〈わが昭和歌謡はドーナツ盤〉特別企画

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松田聖子デビューから45年、伝説のプロデューサー若松宗雄が語る誕生秘話〈わが昭和歌謡はドーナツ盤〉特別企画

シリーズ企画「わが昭和歌謡はドーナツ盤」では、これまで120曲以上の昭和歌謡の数々をご紹介してきたが、まだ松田聖子の曲は登場していない。あまりにもヒット曲が多く、なかなか1曲にしぼりきれないというところもある。平成、令和と活躍を続けている松田聖子は1980年のデビュー。松田聖子も昭和歌謡史に名を刻む歌手である。2025年にはデビュー45周年を迎える。そこで、今回は、1本のカセットテープから、歌手・松田聖子を発掘した元CBS・ソニーの音楽プロデューサーで、2022年に著書『松田聖子の誕生』を上梓した若松宗雄さんに、松田聖子のデビューエピソードを語っていただいた。

▲1981年、松田聖子がデビューして2年目。松田聖子のCBS・ソニーへの貢献を感謝しての、営業本部主催により青山のレストランで食事会が催された。松田聖子と若松宗雄音楽プロデューサー。

◆突き抜けていた歌声から伝わるメッセージ性の強さ

  1978年5月、当時CBS・ソニーのプロデューサーであった若松宗雄さんのデスクには、ミスセブンティーン・コンテストのオーディションのカセットテープが山積みにされていた。ミスセブンティーン・コンテストは、CBS・ソニーと、集英社の雑誌「セブンティーン」が共同主催するコンテストで、全国からの応募総数は5万人以上だった。各地区大会を経て決勝大会が東京で開催されていた。若松さんは、200曲近い曲数にも関わらず、ひたすら各地区大会のテープを1本1本聴き続けた。その中に九州大会で優勝したものの、なぜか本選を辞退した福岡県久留米市の高校2年生で16歳になったばかりの蒲池法子(かまち のりこ)の歌声があった。後の松田聖子である。

 少女が歌った桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を聴いたとき、若松さんは激しい衝撃を受けた。

「突き抜けていたという感じですね。歌唱力だけではなく、言葉の強さとか、声質、歌のテイストといったもろもろを含めて、歌を聴いた人がどんなふうに感じて、どういう印象を持って、どのくらいの関心をもてるかという、聴く人の心を動かす彼女の歌のメッセージ性が突き抜けていたということです」

 こんな才能を埋もれさせるわけにはいかないと思ったが、なぜか周囲の反応は薄かった。しかも少女の父親が芸能界入りを頑なに反対しているということだった。ここから松田聖子のデビューにこぎつけるまで、若松さんにとって辛抱の日々が始まる。

 ここで、若松さんの経歴を簡単に紹介しておくと、CBS・ソニーの人材募集の新聞広告〝CBS・ソニーを築く人を求めます〟というコピーに出合ったのは1968年だった。だが、初年度採用試験には落ちた。新しい会社だから、先輩もいない一緒のスタートラインでがんばれると、それまで勤めていた観光会社をやめ、いずみたくが代表を務め、佐良直美、今陽子、いしだあゆみらが所属する「オールスタッフ」という音楽プロダクションに転職し、CBS・ソニーの次の人材募集のときを待ち、69年11月に入社する。

 営業・販促を経て76年1月に音楽プロデューサーとして楽曲制作を行う企画制作2部に異動となる。歌謡曲・ポップスの2部で最初に担当したのはキャンディーズだった。ヒット曲「哀愁のシンフォニー」のタイトルは、若松さんのアイデアが採用されたもので、作詞を手がけたなかにし礼も「いいね!」と快諾したという。キャンディーズには「アン・ドゥ・トロア」まで関わり、78年の年明けに発足したばかりの企画制作6部に責任者として異動となる。

 6部では渥美二郎の「夢追い酒」がダブルミリオン以上のセールスを記録し、部の責任者として売上を達成するが、若松さん直接のプロデュースではない。直々にプロデュースを手がけたのは、78年10月の水谷豊主演のドラマ「熱中時代」の主題歌「ぼくの先生はフィーバー」でヒット作となったが、これもドラマの高視聴率あっての結果であり、作詞・橋本淳、作曲・平尾昌晃という作家の功績だったと若松さんは振り返る。松田聖子や、父親と日々連絡をとっていた時期である。

私でなければ松田聖子をデビューさせることはできなかった

 松田聖子のレコード・デビューは80年4月1日で、少女の声に出会ってから約2年の月日、“TAKE IT EASY(気楽にいこう)”の言葉を胸に、若松さんは、ひたすら自身の直感にある種の確信をもって突き進み、目の前の高い壁を乗り越えていく。何が、そこまで若松さんを動かしたのだろうか。

「一つはソニーの制作セクションの責任者で、私の一存で物事を進めることができたということ。それと、松田聖子の声を初めて聴いて、福岡営業所で本人に初めて会ったときの印象で、彼女は誰がどう言おうと絶対に売れるなという確信を得たこと。その確信があったので、周りから否定されても、彼女の良さがわからないんだなというだけで、なぜわからないの、というふうには思いませんでした。まあ、できればわかってもらいたいなというのはありましたが、心がくじけることはありませんでしたね。同時に、プロデューサーになって、なかなか結果が出せていないなという私自身がプロデューサーとしての土壇場を感じていたので、やり残しのない、思い残しのないよう自分自身に結果を出したいという思いが強かったと思います。だから、聖子を見る目も、周りの言葉に影響されないくらい敏感で鋭かったのだと思います」

 そして、当時を振り返り「私でなければ松田聖子をデビューさせることはできなかった。なぜなら、私だけが彼女の可能性を信じ、見抜いていたから」と言う。

 さらに、「あのタイミングでの私と聖子だったからこそ、〝なんとしてもデビューさせたい〟〝なんとしてもデビューしたい〟という互いの想いが呼び合った、まさに必然の出会いだったと思う」と。

 福岡時代に松田聖子のボイストレーニングを若松さんから委ねられた平尾昌晃は、「プロになったら絶対成功するという強い意志を松田聖子本人からいつも感じていた」と言っている。

「平尾さんからは聖子の声を聴いて、彼女はすごいね、並じゃないねと、言っていただきました」と、その資質を見抜く人もいた。プロフェッショナルのお墨付きは心強かったことだろう。

 父親とも直接会って、歌手になりたいという松田聖子の揺るがぬ思い、そして若松さん自身の思いを誠意をもって伝えることで説得に努め、ついには父親からも信頼を得るにいたり承諾をとりつけた。79年の夏にはプロダクションもサンミュージックへの所属が決まり、松田聖子が上京する。そして若松さんの確信通り、〝潮目〟が動き出すのだ。

 サンミュージックとしては、レコード・デビューは早くとも80年の秋以降と考えていたが、若松さんは80年4月1日と、デビュー日を宣言し実現させる。デビューの前年から、ラジオやドラマのレギュラーを務め、80年初めからはNHK「レッツゴーヤング」のレギュラーも決まっていく。「聖子にはチャンスを引き寄せる自身の明るさやタレント性があった」と若松さんは言い、松田聖子は自分の夢に意識を集中させていく。「大切なのは、聖子はほかの誰にも似ていなかったということである。山口百恵がそうであったように」とも。 

 

▲1980年4月1日にリリースされた記念すべきデビュー・シングル「裸足の季節」。作詞を三浦徳子、作曲を小田裕一郎、編曲を信田かずおが手がけた。7月3日放送のTBS系「ザ・ベストテン」では「今週のスポットライト」コーナーで紹介されている。資生堂エクボ洗顔フォームのCMソングにも起用され、オリコンシングルチャート最高位12位、売上も30万枚以上のセールスというヒットだった。

作家陣のセレクトをはじめ楽曲制作のすべてを一人で手がける

 70年代のアイドルのほとんどが筒美京平から楽曲を提供されていた時代、松田聖子のデビュー曲も筒美京平に依頼するがスケジュールが折り合わず、実現しなかった。「京平さんに頼んだときは、私の精神状態がやや守りに入っていたのだと思います。京平さんに頼めば少なからずヒットするのではないかなと。その思惑通りにはいかなかったというのは、一つの分岐点ですね。京平さんと上手くいっていたら、その後の聖子があそこまでの存在になっていたかどうかはわからないですね。作風が全然違っていましたから」

 そこで、若松さんの思考回路が新たに働き出す。松田聖子の作家陣はもっと冒険心を持って新しい才能を開拓していくべきだと。若松さんがタイトルをつけたデビュー曲「裸足の季節」は、「アメリカン・フィーリング」一曲から感じ取った若松さんのイメージで、作曲を小田裕一郎、作詞を別の新人歌手のプロジェクトに参加していたのを断ってまで、聖子の声の魅力に惚れ込んだ三浦徳子に決まった。

 2月のレコーディングのとき、ガラスブースの向こうでマイクの脇の聖子の頬に涙が伝わっていた。若松さんいわく「瑠璃色の地球」の一節ではないが、まさに泣き顔が微笑みに変わる瞬間だったと。何度かのテイクの中で、少し拙い歌い方のものを若松さんは選んだ。歌い込んでバランスを考えた歌唱より、荒削りでも、風が吹き抜けるようにどこかさりげない歌い方のほうが人の心にスッと入っていくという信条からだ。若松さんがプロデュースしている間は、早めに曲を聖子にわたすのではなく、あえて、その場で覚えてもらうことを心がけ、それはデビュー曲から貫かれていたのだ。

 2枚目のシングル「青い珊瑚礁」のタイトルも若松さんによるものだ。そして作曲も小田裕一郎。「あーーわたしーのこいはーー」の冒頭のフレーズの聖子の強烈なヴォーカルで一瞬にして大きなインパクトを世の中に放ったのだ。作詞は三浦徳子、編曲は大村雅朗だった。TBS系「ザ・ベストテン」でも1位まで上り詰めた。

 その後、初のオリコンチャート1位となる「風は秋色」を皮切りに、「渚のバルコニー」「チェリーブラッサム」と、いずれも若松さんがつけたタイトル曲で、24曲連続オリコン1位という記録が樹立されるのである。

 そして、財津和夫、松本隆、大滝詠一、松任谷由実、細野晴臣と次々に人脈の輪が広がっていき、才能豊かな作家陣の感性が、松田聖子の作品として結実していくのである。

「単純なことで、音楽に優れた人が音楽を追求しても、プロフェッショナルとして売れるとは限らない。音楽をよく知っている人はやはり音楽が愛おしいから、作品を作るときに音楽的な方向性を主に作品をつくるわけです。でも、音楽的な方向で作品を作れば音楽的な質感においてはすごくレベルが高いけれども、娯楽性においては非常に大事なものが欠けている。娯楽性がないと歌は売れない。音楽的というのは、ある程度理論で説明できますが、娯楽性というのは、言葉では明確に説明できない。曖昧な言葉になってしまう。その明確に説明できないところが、売れるか売れないかの分岐点です。聖子はどちらかと言えば音楽的ではなく、アイドル的。アイドル的な素地だけど、音楽的な部分と交じり合うことで、音楽的でも、アイドル的でもない一つの独自の路線が創造できると思ったわけです。

 私は何もしていないんです。こんなテイストであとは自由に作ってくださいとお願いするだけ。自由に作ればその作家の個性が出る。でも、聖子に合わせてこんなふう、あんなふうと考えれば考えるほど、その人の持ち味は薄くなってくるんです。こうだ、ああだと注文をつけると、その人の発想が狭められていく。だから方向性だけ伝えればいい」

 松田聖子を意識しすぎた作品作りだと、今の松田聖子の魅力は表現できても、まだ眠っているポテンシャルとしての新たな松田聖子の魅力は引き出されない、というわけだ。

 若松さんはプロデュースだけでなく作品制作を一人でやっていく。松田聖子の楽曲制作にあたって、若松さんが何よりも心がけたのは合議制にしないということだった。会議などを重ねていくと、最終的に誰も責任を取らず、何の面白味もない安全策第一の企画になってしまうのは、よくあることだ。

「基本的にはモノ作りは一人ですよね。自分の感性を貫かないとモノ作りは明確にならない。聖子の作品は100%私の独断でした。作家をどうするか、アレンジャーをどうするか、レコーディングをどうするか、仕上げをどうするか、ジャケット写真をどうするか」

 アルバムのクオリティの高さも聖子人気の要因の一つである。アルバムの流れを意識した曲構成という考えの若松さんは1stアルバム『SQUALL』から、作家のキャスティング、歌詞や曲の推敲、音の仕上げ、曲順、ジャケット写真のセレクト、添えられた帯のコピーなど、すべてを手がけている。そして、常に若松さんを信頼してクリエイションを託したところが、松田聖子の感性のすごさとも言えるだろう。

 シングル盤、アルバムのタイトルもすべて若松さんがつけた。

「やはり聖子の特性、個性を基本的には意識しながら、私のイメージの扉を全開にして私の感性でつけていく。私一人で担当していたから生みの苦しみというものはなかったですね。誰かと一緒にプロデュースやっていたら、ぶつかって、モノ作りではなくて人との関係の苦しみというのがあったかもしれません」

▲1stアルバム『SQUALL』は1980年8月1日にリリースされ、「裸足の季節」や大ヒットとなった「青い珊瑚礁」も収録されており、1stアルバムながらオリコンLPチャート2位を獲得する大ヒットとなった。ジャケットの色調は松田聖子のイメージであるパステルピンク。全曲、小田裕一郎作曲、三浦徳子作詞で、編曲には、信田かずお、大村雅朗、松井忠重が参加している。そのほかの収録曲は、本田美奈子がオーディション番組「スター誕生!」の決勝大会で歌唱したことでも知られる「ブルーエンジェル」をはじめ、「~南太平洋~サンバの香り」「SQUALL」「トロピカル・ヒーロー」「ロックンロール・デイドリーム」「クールギャング」「九月の夕暮れ」「潮騒」の全10曲。

あの声質、声の強さ、清楚な雰囲気、それをすべて持ち合わせる松田聖子以上の人にはまだ会っていない

 松田聖子とはデビュー前からを含めて7年くらい時間を共有してきた若松さんは、その時代、時代における松田聖子の年齢やポジショニングを考えないと、どんなに作詞、作曲が良くてもヒットはしない、と言う。松田聖子のデビュー日を1980年4月1日に決めたことにも意味があったのかもしれない。

「当時、私の運勢はあまり良くなかったんですよ。でも芸事というか、芸能の世界って意外と逆なことが起こるんですよ。今はだめだと思うときにヒットするなんてことがあれば、みんなが絶対いいタイミングだよって言っていたのにヒットしないってことも。それは、芸能は、世の中の規則からはみ出さないと娯楽にはならないわけですよね。規則の範囲内だと最大限がんばったとしても基本的に枠の中だから驚きも生まれない。娯楽の原点は枠の外なんです」

 若松さんが考える音楽プロデューサーの仕事にとって大切なものは何なのだろうか。

「歌手の特性を見抜くことですね。歌の上手い、下手もさることながら、その歌い手が人としてどういう人で、作品を歌ったときに表現力の深さが出せるかを見極める。歌が上手くて、しかも表現力の奥行がある人は非常に少ないですね。プロデューサーである私には方向性が見えているわけですよ。だからひたすらそこに向かって仕上げていくということですね。見えているというのは自分の感覚であり、主観によるものですが」

 歌手が歌うのを聴いたとき、人は何によってその曲をいいと感じるのか。それは歌の上手さではなく、声の強さだと若松さんは言う。そういう意味では「青い珊瑚礁」の冒頭のフレーズは、松田聖子の声の強さを知る若松さんのプロデューサーとしての目利きがあったからこそ成立したものと言えよう。

「松田聖子は、やはり独特の歌の世界を持っていましたね。とにかく突き抜けて他の誰よりも売れる確率が高いと思いましたね。あの声質と声の強さと清楚な感じ、それを持ち合わせる松田聖子以上の人はいまだにいない」という言葉からは、二人の出会いは、奇跡とも言える出来事だったのではないかと思える。

 そして、「松田聖子が社会現象的な存在にまでなったのは、縁や運の強さもありますが、私だけを信じ通してくれたことも大きいと思っています」と続けた言葉からは、やはり必然と言えるめぐりあわせだったに違いないと思える。

参考文献:若松宗雄著『松田聖子の誕生』(新潮新書)

写真提供:若松宗雄氏
取材・文:二見屋良樹

▲1998年、CBS・ソニーを退職した若松宗雄さんは、エスプロレコーズを設立し、現在も代表取締役を務める。松田聖子の声を聴き、「すごい声を見つけてしまった」と感じ、松田聖子をデビューさせた若松さんは、現在、20歳の演歌歌手・石原まさしのプロデュースを手がけている。全国カラオケ大会で聴いた中学生だった石原の歌心に驚愕したと言う。その歌唱力に加えて、スター性、聴く者を喜ばせる、楽しませる術をもっており、間違いなくスターになる、と若松さんの直感が働いた。まだ、その魅力に誰も気づいていないようだ。

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