旧野﨑浜灯明台 ~ 野﨑家塩業資料館と併せて立ち寄りたい!江戸時代から児島の町を見守る全国的にも珍しい木造の灯明台
JR児島駅から徒歩10分。
瀬戸大橋をくぐる周遊船や、瀬戸内国際芸術祭2025秋会期の会場となる香川県丸亀市・本島への定期船が発着する児島観光港に、木造の灯明台(とうみょうだい)があることをご存じですか。
それは「旧野﨑浜灯明台」です。
江戸時代から児島の町を見守り続けてきた旧野﨑浜灯明台の歴史や建築の特徴について取材しました。
野﨑家とは
清和源氏(せいわげんじ)を祖として、かつては多田姓・昆陽野姓を名乗っていた野﨑家は、16世紀後半に児島郡味野村に居住するようになったと伝えられています。
旧野﨑家住宅を築いた野﨑武左衛門(のざき ぶざえもん)は、足袋の製造販売をしていましたが、38歳のときに一念発起して味野村・赤﨑村の沖合に塩田を築造します。両村の名をとって野﨑姓を名乗るようになりました。
その後、所有する塩田の面積は約161ヘクタールにまで広がり、大塩田地主へと成長しました。さらに、岡山藩の命によって、福田新田約700ヘクタールの干拓事業も成功させます。
1890年には、武左衛門の孫にあたる武吉郎(ぶきちろう)が貴族院議員に選出されるなど、倉敷を代表する名家として名を連ねました。
野﨑家塩業資料館とは
「野﨑家の塩」といえば、現在も広く知られており、食塩だけでなく化成品(化学工場で化学変化を応用して作られる工業製品)など、塩を使ったさまざまな製品が今も作られ続けています。
野﨑家の塩を製造するのは、ナイカイ塩業株式会社。
1829年の創業から一貫して、瀬戸内海に臨む児島半島で製塩業を継続しています。
同じ地で塩業を続けているナイカイ塩業は、現存するなかでも最も歴史のある塩会社です。
現在も児島市民交流センター近くに大きなお屋敷と蔵が並ぶ「旧野﨑家住宅」は、2011年に岡山県の博物館として初めて公益財団法人に認定されたミュージアムです。
数多くの貴重な収蔵品が保管・展示されているほか、野﨑家の家業である塩業の歴史も、実物を交えて展示・解説しています。
旧野﨑浜灯明台とは
旧野﨑浜灯明台は、児島味野にある木造の灯明台です。
建築は文久3年(1863年)とされており、160年以上前に建てられたと伝えられています。旧野﨑家住宅を建てた野﨑武左衛門が、灯明台の北側にある塩釜神社の御神灯(ごしんとう)をおもな目的として建立しました。
神だけでなく民をも照らす灯台
旧野﨑浜灯明台が建立されたあたりは、当時塩業が盛んだった野﨑家の塩田の南端です。
塩を積み出す船着き場としても利用されていたことから、浜を出入りする船や近くを航行する船にとっては灯台の役割も果たし、「神と民を照らす存在」として重宝されてきました。
明治31年(1898年)には、本瓦の屋根の葺替(ふきかえ)などを伴う半解体改修をおこない、ほぼ現在の姿になりました。
その後、昭和49年(1974年)10月には、倉敷市重要文化財の指定を受け、昭和50年(1975年)8月に保存修理工事をおこない、今もなお児島の港を照らしています。
全国的にも数少ない日本式建築の灯明台遺構
旧野﨑浜灯明台が倉敷市重要文化財に指定された理由のひとつに、建築の珍しさがあります。
まず、海の目の前にある灯台ながら木造建築の高燈籠(こうとうろう)である点。
高さは9.69mです。
灯台といえば白い円柱形で石でできた西洋式のものが想起されますが、西洋文化が日本に入ってくる以前の江戸時代は、木造の灯明台が主流でした。
現存する木造の灯明台は、大阪の住吉神社の献灯をかねた高燈籠、香川県金比良町内にある高燈籠など、全国的にも数少ない貴重なものです。
また、屋根が本瓦葺(ほんかわらぶき)である点も、特徴です。
一枚一枚ていねいに敷き詰められた瓦が、より一層の重厚感を醸し出しています。
屋根の下には、部屋のような空間がありますが、灯台であるため暗くなると明かりが灯ります。その明かりを灯す部屋が設けられているのも、この日本的な建築の灯明台ならではの特徴です。
通常、扉のなかは開放していません。
今回は、取材のため特別に開錠していただき、撮影させていただきました。
現在も、夜になると旧野﨑浜灯明台が児島観光港をやさしく照らしています。
歴史ある旧野﨑浜灯明台について、旧野﨑家住宅学芸員の辻則之(つじ のりゆき)さんに話を聞きました。
旧野﨑家住宅学芸員へのインタビュー
旧野﨑家住宅で学芸員を務める辻則之(つじ のりゆき)さんに、旧野﨑浜灯明台が当時どのように使われていたのか、これから児島の町でどのような存在として残し続けたいか、話を聞きました。
塩釜神社の御神灯として建立
──旧野﨑浜灯明台が作られた経緯を教えてください
辻(敬称略)──
野﨑家の家業は塩業です。
塩に関係する場所では塩の神様を祀った塩釜神社を作っていました。
野﨑家も、現在の児島観光港の近くに塩釜神社を建立して、塩釜神社を照らす御神灯として旧野﨑浜灯明台が作られました。
これからも、塩釜神社とともに児島の地を見守り続けていく存在です。
塩釜神社の管理は、旧野﨑家住宅が登記上の本社となっているナイカイ塩業株式会社がおこなっていて、灯明台の管理は、旧野﨑家住宅(公益財団法人 竜王会館)がおこなっています。
──塩釜神社は、ナイカイ塩業にとってどのような存在ですか
辻──
塩の神様なので、大切にお祀りしています。
一般のかたには公開していませんが、年に一度明神祭というお祭りをしています。
現在は11月2日におこなわれていて、神主さんに祈祷してもらい、社員が塩釜神社をお参りしているんです。
神社の社殿のそばには、備中松山藩の陽明学者・山田方谷(やまだ ほうこく)が記したとされる野﨑武左衛門と長男の常太郎の碑も建てられており、野﨑家の歴史を語るうえで大切な場所のひとつだと言えるでしょう。
全国的にも数少ない木造建築の灯明台
──旧野﨑浜灯明台は、建築に特徴があると聞きました
辻──
木造建築の灯明台であることは、特徴のひとつです。
石でできた灯台はよくありますが、木造なのは珍しいですね。また、明かりを灯す部屋があることも特徴的なところです。
このような点が評価されて倉敷市の重要文化財になりました。
旧野﨑浜灯明台を含む野﨑家の遺構をたどって、児島の町を回遊してほしい
──旧野﨑家住宅内にある資料館にも、旧野﨑浜灯明台のレプリカがありますね
辻──
実は、資料館内にあるレプリカは本物と少し形が違うんですよ。
このほかにも、資料館では実際に塩づくりで使用されていた道具とレプリカを駆使して、塩業の歴史や塩の作りかたの展示をしています。
旧野﨑家住宅を見学して、興味をもったかたはぜひ旧野﨑浜灯明台にも足を運んでください。徒歩20分程度なので、児島駅周辺の散策にもぴったりです。
野﨑武左衛門にちなんだ「武左衛門通り」を歩くと、野﨑武左衛門翁旌徳碑(のざきぶざえもんおうしょうとくひ)といった野﨑家ゆかりのオベリスク(個人の碑としては、最大規模)も見られますし、そのままジーンズストリートを散策するのもおすすめです。
──読者へメッセージをお願いします
辻──
児島の人たちにとっては、旧野﨑浜灯明台のある風景が当たり前かもしれませんが、全国的に見ても数少ない貴重な文化財です。その存在を、一人でも多くのかたに知っていただければと思います。
野﨑家といえば旧野﨑家住宅が有名ですが、児島の町を歩くとオベリスクや旧野﨑浜灯明台、塩釜神社といった関連文化財がたくさんあります。
ぜひ、野﨑家塩業資料館で塩づくりの歴史を学んだ後、その足で旧野﨑浜灯明台まで散策してみてください。
おわりに
旧野﨑浜灯明台は、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財の一つです。
野﨑家といえば塩のイメージがあったので、北前船でも塩を多く運んでいたのかと思いきや、辻さんによると児島では石炭が塩より多く取引されていたそうです。塩づくりに石炭がどう使われているのかは、野﨑家塩業資料館で確認できます。
ぜひ、野﨑家塩業資料館で塩づくりの歴史を学びその足で旧野﨑浜灯明台まで散策してみてください。