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倉敷屏風祭 〜 明治時代に消滅した歴史ある風習を復活。倉敷の歴史・文化を残すために町に再びにぎわいを

倉敷とことこ

倉敷屏風祭 〜 明治時代に消滅した歴史ある風習を復活。倉敷の歴史・文化を残すために町に再びにぎわいを

倉敷屏風祭(びょうぶまつり)は、倉敷の町の総鎮守・阿智神社の秋季例大祭の日におこなわれる行事です。

毎年10月に開催され、町家を一般の人に開放し、室内に屏風が飾られます。

もともと江戸時代の倉敷でおこなわれていた風習でしたが、明治時代に消滅しました。2000年代に入り、地元の有志によって復活。

以降、倉敷美観地区における秋の風物詩の一つとして定着しています。

倉敷屏風祭について、復活に向けて尽力し倉敷屏風祭実行委員長を務めていた、倉敷商工会議所 相談役の岡荘一郎(おか そういちろう)さんにインタビューをしました。

現代に復活した、倉敷ならではの秋祭の風習

2024年の開催時のようす(写真提供:倉敷商工会議所)

倉敷屏風祭は江戸時代に始まった風習で、かつては春と秋の例大祭の日におこなわれていました。明治時代後期に一度消滅しましたが、2002年に地元の人の尽力によって復活。

以降、阿智神社の秋季例大祭や素隠居(すいんきょ)などとともに、倉敷の秋祭の風物詩として親しまれています。

もともとは本町・東町でおこなわれていましたが、倉敷美観地区全体に拡大しました。

また2017年には、文化庁の日本遺産一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」の構成文化財の一つになりました。

2025年の屏風祭では、美観地区内36軒(38か所)で屏風が展示されます。

江戸時代に生まれた屏風祭は倉敷の祭の風物詩

倉敷商工会議所の岡荘一郎 相談役

岡荘一郎さんに、屏風祭の歴史について話を聞きました。

──屏風祭の歴史は古い?

岡(敬称略)──

屏風祭は、江戸時代の倉敷の町(現在の美観地区周辺)において、阿智神社の春・秋季の例大祭のときにおこなわれていた風習が起源です。

1991年に倉敷素隠居保存会が発行した冊子『すいんきょ』では、屏風を飾る風習についての説明があります。

同書によると倉敷の町では、阿智神社の春祭・秋祭に合わせ、分限者(富豪)が自宅の表の一室に、家宝である自慢の金屏風を飾ったといいます。

そして格子戸を外し、赤い毛氈(もうせん:フェルト状の和風の敷物)を敷き、壺に花を生けて飾り、紅白の幕を張って、道行く人に屏風を見せました。

屏風を飾ったのは、戎町(現在のえびす通り商店街あたり)・本町・東町などが主体だったようです。

通行人が足を止めて飾られた屏風に見入る光景は、倉敷の祭の風物詩として知られていたとのこと。

なお旧大原家住宅の格子を見てみると、外れるようになっていた形跡があり、屏風祭をおこなっていた痕跡も確認できました。

倉敷素隠居保存会『すいんきょ』

──屏風を飾る風習はいつごろから始まった?

岡──

屏風を飾る風習がいつごろから始まったかは不明です。

冊子『すいんきょ』によれば、江戸時代後期の文化・文政のころ(1800年代前半)には、すでに倉敷の祭の風物詩として定着していたそうです。

祭の時期に屏風を飾る風習は、あくまでも町人が自主的におこなったもので、阿智神社が関与していたものではありませんでした。

──なぜ屏風を飾ったのか。

岡──

屏風を飾った理由も明確にはわかりません。
ただ、江戸時代に京都の祇園地区のお茶屋さんで、屏風を飾る風習があったと聞いています。

1年に1度、お世話になったお客さんに感謝の意を示すため、部屋に自慢の屏風を飾り、お客さんを招いて厚くもてなしたそうです。

また、かつて倉敷にあった「大嶋屋」の主人は大変な屏風好きとして知られ、京都まで屏風を買い付けに行っていたとの記録が残っています。

そこで私は、次のように推測しています。

京都から屏風が持ち込まれるとともに、屏風を飾る風習も伝わり、祭のときに通行人に屏風を飾って見せるという倉敷独自の風習に変化したのではないでしょうか。

ちなみに、当時の日本画家にとって、屏風はキャンバスのようなものでした。屏風は絵画作品・芸術作品としての意味合いもあったのです。

さらに、当時の分限者にとって屏風はステータスシンボルの一つでした。今でも富裕層が絵画をコレクションしていますよね。それと同じようなものです。

2019年の倉敷物語館での展示風景(写真撮影:吉野なこ)

──その後、屏風を飾る風習は廃れたと聞いたが、いつごろなくなったのか。

岡──

屏風を飾る風習が消えたのは、明治時代後半ごろだと考えられます

2000年代のはじめ、美観地区で育った当時90代の人に「幼いころ、祭のときに屏風を飾っている家へ行って、飴玉をもらったことを覚えている」と聞きました。

やはり明治時代後半ごろまでは、あったのではないでしょうか。

私の推測では、生活環境や文化の変化に加え、戦争の勃発などのさまざまな要因で風習が消えたのではないかと思います。

なお町としての屏風祭は明治時代後半ごろに途絶えましたが、個人としては唯一、東町の「はしまや(楠戸家)」が祭のときに屏風を飾る風習を現代まで続けていました。

倉敷美観地区に失われた活気を取り戻し、歴史・文化を残す

屏風を飾る風習は明治時代後期に途絶えましたが、現代に復活しました。

実は、岡荘一郎さんは屏風祭復活に尽力した人物です。
復活の経緯について、岡さんに話を聞きました。

──屏風を飾る風習はいつごろ復活したのか。

岡──

復活の遠因は、2001年に大原謙一郎(おおはら けんいちろう)さんが倉敷商工会議所の会頭に就任したことです。

かつて瀬戸大橋が開通した昭和末期〜平成初期(1980年代後半)のころは、倉敷美観地区は観光客が押し寄せ、大変なにぎわいでした。年間で約520〜540万人ほどの来訪者がいたそうです。

その後、バブル崩壊など社会状況の影響もあり、2001年当時は美観地区を訪れる人は瀬戸大橋開通時期の半分ほどで、年間約260万人になっていたのです。

大原さんは、歴史ある倉敷美観地区に再び活気を取り戻したいと思っていました。倉敷は工業・商業・農業など産業が多く盛んなので、観光業がなくても町は衰退しないでしょう。

しかし倉敷美観地区は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)になっている、歴史や文化が残る町です。

大原さんは人の往来やにぎわいがなくなると、このような歴史遺産や文化も姿を消していくと危機感を覚えていました。ただし、お金をつぎ込んで集客施設をつくれば良いという時代ではありません。

ですから大原さんは、ハード面ではなくソフト面、つまり町ににぎわいを呼ぶような取組に力を入れる必要があると考えていました。

そこで商工会議所のメンバーのなかから、数人を大原さんがピックアップし、倉敷美観地区を盛り上げるにはどうするかというミーティングを毎月定期的に開催するようになったのです。その一人が私でした。

2024年に語らい座 大原本邸で展示された児島虎次郎『洞庭湖(どうていこ)』(写真提供:倉敷商工会議所)

──ほかのメンバーも美観地区の衰退に危機感があった?

岡──

私ども地元の人間は、当時は美観地区のなかまで行くことはあまりありませんでした。車での移動がほとんどですから、近くまで行っても、通り過ぎていたのです。

だから大原さんに言われるまで、美観地区の現状を気にしていませんでした。
実際に行ってみると、本町通りや東町通りでは、一部を除いて営業している店自体が少なかったのです。

町家ですから、通り側は店舗で奥側は住居。店舗は閉めていて、ほかの人に貸出もしていない状態です。

奥の住居に人は住んでいても、高齢化が進んでいました。現状を知った私たちは、倉敷美観地区に対する危機感がわかってきたのです。

2024年に倉敷物語館で展示した松林桂月『幽山孤村図』(写真提供:倉敷商工会議所)

──屏風祭を復活させるアイデアは、どのように生まれた?

岡──

話し合いをしていくなかで出た、メンバーの一言がきっかけでした。

「勝山(現 真庭市)の町並み保存地区では、ひな祭りに各町家がひな人形を飾る『ひな巡り』というイベントをしている」というコメントです。

「とても活気があるので、倉敷でもやってみたらどうか」という提案でした。

それに対して、私はとっさに「勝山のひな巡りはすばらしいが、倉敷がやると二番煎じになるので、やらないほうが良いのでは」と意見を言いました。

すると「では、二番煎じではないものは、どのようなものがあるの」と言い換えされたのです。正直なところ、深く考えずに反射的に言っただけだったので、言い換えされてとてもあせりました。

あせった次の瞬間、頭のなかにパッと思い浮かんだのが、ある本に書いてあった、江戸時代の屏風を飾る風習でした。

そして、私は「江戸時代、阿智神社の祭のときに町家では、屏風を飾って通行人に見せていた風習があったらしい」と話したのです。

しかし、屏風祭という風習について誰も知らなかったのです。
あとで探してみると、屏風祭について記述された本が、倉敷素隠居保存会の『すいんきょ』で、たしかに屏風祭の記載がありました。

すると大原さんをはじめ、メンバーはみんな「やってみよう!」となったのです。そして、大原さんは私を屏風祭を再現する担当者に指名しました。

ただ、思いつきで言ったようなものですから、屏風祭を復活できるかどうか自信がなかったのが正直なところです。

2024年に語らい座 大原本邸で展示した児島虎次郎『虎丘剣池(こきゅうけんち)』(写真提供:倉敷商工会議所)

──そもそも屏風は今も残っていた?

岡──

屏風は残っていると想定していました。
屏風は、非常に大きなもの。蔵から出して処分しようにも、そもそも蔵から持ち出すこと自体が一苦労だからです。

美観地区に実家がある知人にお願いし、蔵に屏風があるか調べてもらったところ、立派な屏風が残されていました。

お母さんが「嫁に来て50年以上経つけど、屏風なんて一度も見たことがないから、うちにはないで」と言っていたのに、実際は屏風があったのです。

それで、ほかの家も同じように今も屏風はあると考えました。

2024年に料理旅館鶴形で展示した冨田渓仙『富岳遠望図』(写真提供:倉敷商工会議所)

──屏風祭の復活に向けて、どのように準備を進めていった?

岡──

屏風祭は、美観地区にお住まいのかたのご協力がないと実現できません。

一軒一軒足を運んで、事情を説明して協力の要請をしましたが、ほとんど理解は得られませんでした。先ほど話したとおり、高齢化が進んでいたからです。

「静かに暮らしたいので、人が増えないほうが良い」「人が増えると治安が悪くなる」「年なので負担になることはできない」「観光業がもうけるための協力はしたくない」などの理由で、軒並み断られました。

そこで町内会長のかたたちに集まってもらい、私は屏風祭に対する思いを伝えました。

「商業振興を目的として屏風祭を開催するのではなく、重伝建になっている倉敷の町を歴史や文化を後世に残すために開催したい。屏風祭を通じて、倉敷の町のすばらしさを多くの人に知ってもらいたいのです」

すると、町内会のかたたちは「そこまでの思いがあるなら、好きにしてください」という感じで、渋々賛成してくれたのです。

こうして町を挙げて準備を進め、2002年の阿智神社の秋季例大祭に屏風祭の復活が実現しました。

町内会のかたがたは当初かなり消極的な賛成でしたが、実際に屏風祭の準備が始まると、町内会の人たちが一番積極的でしたね。

これはうれしかったです。地元の人が自主的に楽しむことが、本来の形ですから。

2019年に語らい座 大原本邸で展示した棟方志功『御群鯉図(おんぐんりず)』(写真撮影:吉野なこ)

──復活した屏風祭の手応えは?

岡──

復活した2002年の来訪者数は、約5.5万人。想定を超える人出で驚きました。また、屏風を飾って協力してくれた家は33軒です。

町の人たちも、開催前は人通りが増えると騒々しかったり、治安が悪くなったりする心配をしていましたが、実際やってみるととても楽しかったという感想を持っていましたね。

同級生がやってきて、久々に会えたという喜びの声もありました。
アンケートを取っていたのですが、開始当初は地元周辺の来訪者が多かったですね。広島方面からの来訪も多かったです。

また現在の屏風祭も、過去のものと同様に阿智神社は直接関与していません。

開催後に阿智神社のかたから「秋のお祭りが地域全体で盛り上がって、活気があって楽しい。神社と町とで相乗効果があって、非常に盛り上がったと思う」とお褒めの言葉をいただきました。

2019年に阿智神社で展示した倉敷芸術科学大学の2019屏風プロジェクトの作品群(写真撮影:吉野なこ)

──その後の状況は?

岡──

2002年以降、コロナ禍での2年間の休止を除いて、ずっと阿智神社の秋季例大祭の時期に屏風祭を開催しています。

町の人たちは、その後は積極的に屏風祭に参加し、毎年の楽しみになったそうです。毎年、どのような趣向をこらすか考えることが楽しいようですね。

2024年の開催では、土・日曜日の2日間の開催で、来訪者は合計で約5万人。なお、土曜日は雨でした。屏風を飾ったのは、35軒です。

訪れてみないとわからないのが屏風祭の楽しみ

2002年に復活して23年が経過した倉敷屏風祭。毎年の開催で工夫している点やこだわりはあるのでしょうか。また今後の展望などについても聞きました。

──屏風祭で工夫している点やこだわっている点は?

岡──

屏風祭では、毎年「第○回」と付していません。屏風祭は現代に始めたものではなく、昔あって一度途絶えた風習を復活させたというスタンスだからです。

いつから始まったのかわからないものですから、○回と数えられませんよね。

あと、ほかにこだわっている点が、決まりをあまりつくらないこと。決まりは、屏風を飾って来場者に見せることくらいですね。

どのような屏風を飾るかは自由ですし、屏風は自宅で保有しているものでなくても構いません。借りてきたものでもOK。昔からある古い屏風でなくても良くて、新たに買ったものでも問題ありません。

また、どのような屏風をどのように飾るのかについて、事前に知らされないのもポイントです。

ですから、実際に開催されて、現地で初めて屏風がわかります。訪れてみないとわからないのが、屏風祭の楽しみかたの一つです。

2024年の語らい座 大原本邸での展示風景(写真提供:倉敷商工会議所)

──2002年に屏風祭が復活して23年が経過したが、変化はあるか。

岡──

少子高齢化は問題ですね。
2002年の時点でも高齢化は顕著でしたが、それでも楽しんで参加を続けてくれるかたが多かったです。

しかし、近年は年に勝てず、体力面の問題から参加を辞退されるかたもおられます。新しく参加する若い世代もおりますが、このままではいずれ衰退していく懸念がありました。

そこで、開催エリアを従来のメイン会場だった本町通り・東町通りから、倉敷美観地区全体まで拡大してみたのです。

自主的に参加していただいて、最終的に30軒以上の展示を維持できました。

また私が屏風祭に奔走したことが知られて、私のところに、いろいろなかたが不要になった屏風を持ってくるようになりました。今、倉庫にたくさんしまってあります。

店舗を賃貸で利用している人のなかには、屏風祭に参加したい、場所を提供したいけど、飾る屏風がないかたもいます。

そこで、私が保管している屏風を貸し出すことで、参加しやすくできれば良いですね。

もともと屏風祭は、自然発生的に生まれたものと考えています。時代に合わせて柔軟に対応していくことも必要だと考えています。

2024年に加計美術館で展示した倉敷芸術科学大学 原田よもぎ『はじまりの木』(写真提供:倉敷商工会議所)

──地元の団体などとの連携は。

岡──

地元のソフトウェア企業や岡山大学、倉敷青陵高等学校などと連携し、2025年より二次元コードを読み込んでおこなう外国語での音声ナビゲーションを始めました。

近年は海外からの訪問者が急増したためです。

ほかに、倉敷芸術科学大学と連携しています。また、倉敷出身の日本画家・森山知己(もりやま ともき)さんも屏風祭に協力をしてくれています。

森山さんは、日本画・屏風の表装技術を後世に継承する必要性を感じているとのこと。
現代において屏風に関する技術を知る人が少なく、このままでは屏風づくり自体が消滅するという危機感を覚えているそうです。

そこで学生たちが作品を描き、屏風をつくって、屏風祭でそれを飾ります。

また卒業した学生が画家になり、描いた屏風を屏風祭に飾ったこともあります。

屏風祭を通じて、屏風文化、表装技術を伝えていきたいですね。

地元の尽力で復活した歴史ある倉敷ならではの風習・屏風祭

2024年はしまや展示 森山知己『若竹』、高橋光悦の生花『薄(すすき)』 (写真提供:倉敷商工会議所)

倉敷の風物詩だった屏風祭。約100年のあいだ途絶えていましたが、岡さんたち地元の人の尽力で復活し、20年以上が経過しました。

2025年の屏風祭の開催は、10月18日(土)・19日(日)の2日間。

当日は屏風祭以外にも、阿智神社の秋季例大祭をはじめ、御神幸行列や素隠居、千歳楽など、行事が目白押しで、倉敷の町が祭の雰囲気一色になります。

倉敷美観地区を訪れて、歴史ある文化や風習に触れてみてはいかがでしょうか。

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