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神田学会・久保金司さんに聞く神田の魅力とは。「神田は400年の歴史の物語が聞けるんです」

さんたつ

【散歩の達人】神田という街_2

街にゆかりの深い人に聞く、神田の魅力とは。お話を伺ったのは、NPO法人神田学会の久保金司(きんじ)さん。昭和10年(1935)、内神田生まれ。父と同じ宮大工の道を歩み、1957年に建設会社「久保工務店(現・久保工)」を設立。1987年に勉強会「神田学会」(のちにNPO法人化)を立ち上げ、現在、副理事長を務める。(TOP写真の)壁には、神田祭の絵が。

戦前の神田の思い出

祖父は木挽(こび)き職人、父は宮大工、3代神田っ子の久保金司さん。

「神田橋あたりは材木屋だらけでした。江戸の街を造るために職人が集まった神田はまさに職人町。多町には青果市場があって、そこで働く人もみな職人みたいで。長屋の多い住宅地でもありましたね」

戦前、年上のガキ大将にくっついて遊んだ幼少期は、そこら中に路地があり、めんこにベーゴマ。雉子(きじ)橋ではクチボソをすくい、神田橋や鎌倉橋では泳いで警官に怒られ、野っ原だった大手町ではトンボを捕った。軍艦山と呼ばれた現・御茶ノ水ソラシティがある辺りも絶好の遊び場だったという。

「出版社も多い街でしょ、紙を折ったりする製本の内職を親たちはみんなしてました。暮らしの風景があったんですよね」

そんな地元で久保さんは建設会社を設立。神田周辺だけで木造建築から鉄筋コンクリートまで約500棟を手掛ける一方で、力を入れてきたのが地域活動だ。一つはタウン誌の発行で、1970年代に神田西口商店街の清掃活動で訪れた喫茶店で全国のタウン誌を知り、地方の人が情報発信で街の文化を守ろうとする姿勢に感銘を受け制作を始めた。

久保さんが1977年から始めたタウン誌『内神田通信』と、その2年後に改名した『神田っ子』(現・『KANDAルネッサンス』)。
タウン誌で調査した神田川と日本橋川の記録写真。

「街は記録しないといけないですよね。記録してると街の魅力が分かります。散々遊んだのに改めて神田の広さも知りました。それに神田は代々暮らす人がいるから物語もいっぱい。400年の歴史の物語が聞けるんです」

もう一つは「神田学会」の開催。80年代以降、オフィス人口が増え、急激に変化する神田をどうすれば調和のとれた住みよい街に形成できるか、地域の人たちと一緒に勉強することを目的に、有識者による講演は170回を超えるとか。

神田にフクロウ増加中!? 「知恵という魂を街に宿したい」

久保さんは水墨画が趣味。写真は神田神社のご神木「カミナリイチョウ」。

では今、神田について思うことは?

「にぎわいを求めるなら他にも街はありますが、神田は格調の高い街。明治維新以来、優秀な武家たちが教育者になり、大学が生まれ、神田は教育の街となりました。それに本屋は知恵の泉でしょ。だから今、“知恵の街”運動を起こしています。再開発に関わるディベロッパーには、知恵というコンセプトで街づくりをしてくださいとお願いしているんです」

その先駆けとして始めているのが、知恵の神様であるフクロウを中心とした彫刻作品の屋外展示だ。神田界隈(かいわい)のビルに呼びかけ、現在約20体が置かれているという。そういえば歩くとちらほらと見かける気がする!

内神田にあるフクロウの彫刻。

「アートのある街は楽しく散歩ができるし、ビルのオーナーさんも『うちにはフクロウがいるよ』とか『恵比寿さんがいるよ』なんて自慢し合って、コミュニティーが広がる。これからさらに増やして、知恵と出合える街にしていきます。そうすると人の心も変わるでしょ。そこで街に魂が入る。知恵という魂を街に宿したいんですよ」

卒寿を迎えた神田っ子の構想に、胸が膨らまずにはいられない。

取材・文=下里康子 撮影=逢坂 聡
『散歩の達人』2025年5月号より

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