「なぜ生きるのか?」小学1年生の問い。子どもが体験する哲学的思考の行末とは?《哲学者・苫野一徳の哲学入門1》
「なんで生きてるんだろう」「なぜ自分は生まれてきたのか」——。
誰しも一度は立ち止まるこの究極の問いに、小学1年生の頃から悩み続けてきた人物がいる。哲学者・苫野一徳氏だ。現在、熊本大学教育学部で教鞭を執る苫野氏は、哲学者として執筆・講演・教育改革の現場で活躍。新刊『伝授! 哲学の極意』(共著:竹田青嗣/河出新書)を上梓したばかりの苫野氏だが、「そもそもなぜ哲学者を志したのか」と問われると、こう振り返る。
誰もこの苦しみを分かってくれない
「小学生のころから、“なんで自分は生きてるんだろう”と考えてばかりで。周りの友だちには『また始まったよ』と面倒がられ、ずっと孤独を感じていました」と、笑顔で苫野氏は語る。
そんな少年期に感じた“世界との距離感”は、思春期以降さらに深まっていく。過敏性腸症候群に悩まされ、バスや電車はおろか、美容院や家の電話すら恐怖の対象になった。
「1日20〜30回もトイレに駆け込んでいたから、移動できなかった。汗だくでうずくまっていたとき、なんで自分だけがこんな目に、という問いが頭を離れなかった」
今となってはちょっとした笑い話にも思えるが、当時は「自分のことは誰にも分かってもらえない」「いや、分かられてたまるか」とさえ感じたと言う。さらに苫野氏は「僕は便所飯のパイオニア」でもあると言う。まだ便所飯という言葉さえなかった中学生の頃から一人、トイレで弁当を食べていたという。
その頃から8年間にわたる躁うつ病などの精神的な不調とも向き合うことになる。
歴代の異常な哲学者たちとの出会いで心が軽くなる
それでも苫野氏が“哲学”に希望を見出せたのは、自らの苦しみに言語と理論で向き合おうとした哲学者たちの存在に出会ったからだった。
「哲学の本を読み漁って気づいたんです。古代から現代に至るまで、自分と同じように苦悩し、答えを模索してきた人たちがいたんだって。自分だけが異常なんじゃないと知ったことで、人生が少しずつ生きやすくなっていきました」
20代には躁状態の中で“人類愛”のビジョンを体験する。「すべての人類が、過去も未来も現在も、愛し合って繋がっている」。そんな鮮烈な世界観が心を支える一方で、その後、竹田青嗣の著作と出会い、苫野氏は自らの思想が“幻想”だったことに気づかされる。
「完全に論破されてしまいました。ある意味、人生で一番苦しかった。でも、それでも“哲学の力”を感じたんです。自分を壊してしまうほどの威力があるなら、それは再び自分を立て直す思考の原理にもなり得ると」
哲学は、“人生を立て直すための道具”にもなる。苫野氏の問いは、今もなお続いている。
文/長谷川恵子