ホロコースト記念館 〜 負の歴史から子どもたちに平和への願いを伝える場所
「戦争が何になるのだろう。なぜ人間は、おたがい仲よく暮らせないのだろう」
1944年5月3日。オランダのアムステルダムにある隠れ家のなかで、当時14歳のアンネは日記にそう書き残しています。
広島県福山市御幸町には、口コミで広がり、日本全国から子どもたちが訪れるホロコースト記念館があります。なぜ日本でホロコーストを扱うのか、何を伝えるものなのか。この記事では施設にこめられた想いを紹介しています。
ホロコースト記念館には、過去の悲劇から未来につながる平和への願いがあふれていました。
ホロコースト記念館2階は通常、撮影禁止です。今回は特別に撮影許可をいただいています。
ホロコーストとは
ホロコーストとは、1933年から1945年にドイツのナチス党によっておこなわれたユダヤ人に対する大量虐殺を指します。ホロコーストによってユダヤ人600万人の命が失われ、そのうち150万人は15歳以下の子どもだったと言われています。
ユダヤ人は、2000年以上前から人種や宗教、生活習慣の違いなどを理由に、差別や迫害を受けてきました。
1933年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政権を握ると、世界的な不況や第一次世界大戦敗戦によるドイツ国内の不満を押しつけるような形で、より強い迫害が始まります。
1935年にはニュルンベルク法によりユダヤ人の市民権を制約。就業や文化活動、買い物などの行動を1,000以上にも及ぶルールで厳しく制限しました。
さらに、ユダヤ人であることを示すため、常に胸元に黄色いダビデの星を付けるよう命令します。この星は長年ユダヤ人のシンボルとして使われていました。ナチスにより、民族の誇りが差別のしるしとして扱われるようになったのです。
第二次世界大戦が始まると、ナチスはユダヤ人をゲットーと呼ばれる強制居住区へ住まわせると決めました。好きに使える労働力として、強制収容所へ連行するようにもなりました。
1942年、ナチス党は「ユダヤ人がすべて問題の原因である」との考えのもと、ユダヤ人を絶滅させることを決定。ユダヤ人たちは生きていることを許されず、銃殺されたり、殺すためだけの施設である絶滅収容所へ送られたりするようになりました。
ひとつの民族に対する残虐な迫害が、国を挙げておこなわれたのです。
諸外国は、ナチスの迫害から逃げてきたユダヤ人たちの入国を拒否したり、入国の条件に莫大な金銭を要求したりして無関心を装っていました。その結果、ホロコーストの被害が拡大したとも言われています。
ただユダヤ人として生まれただけで、罪もない命が無惨に奪われた。ホロコーストは、差別や偏見の持つ愚かさや、無関心でいることの罪深さを現代に伝えています。
ホロコースト記念館
広島県福山市御幸町ののどかな風景のなかに、ガラス張りの建物が立っています。日本初のホロコースト教育施設であるホロコースト記念館です。
建物をぐるっと囲む塀には丸い穴が空いています。この穴はあわせて150個あり、ホロコーストで犠牲となった150万人の子どもたちを表しています。
設計は、福山市出身の建築家であるUIDの前田圭介(まえだ けいすけ)さんによってなされました。
重いテーマの施設のため、少しでも明るく見えるように前面がガラス張りになっています。北向きにもかかわらず、内部にはやわらかな光が差しこむのが特徴です。
入ってすぐのライブラリーには、世界中の言語で書かれたホロコーストに関する書籍が収められています。ビデオの視聴もできるため、よりホロコーストへの理解を深められるでしょう。
2階の廊下は、壁面にエルサレム石を装飾しています。エルサレム石は、ユダヤ教の神聖な祈りの場である「嘆きの壁」にも使われている特別な石です。
エルサレム石とともに、600万人の犠牲者を表す6本枝の燭台を取りつけました。
どうすれば思いが伝わるのか、展示をどのように見せたら良いのか。記念館と前田さんは話し合いを重ね、今の形ができあがりました。
悲しみの記憶
ホロコースト記念館には、ユダヤ人の苦しみや悲しみの記憶が展示されています。目を引くレンガの壁は、多くのユダヤ人たちが住むことを強制されたゲットーの壁を再現しています。
壁の一部に埋めこまれているのは、実際にゲットーの壁に使用されていたレンガです。行動の自由が許されず、食料も限られた壁のなかで暮らしていかなければならないのが、どのような気持ちなのか。
実際にレンガに触れ、思いをはせられます。
展示室のなかには、強制収容所の入り口を模したオブジェも飾られています。門の上には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」というユダヤ人たちをだますための嘘の言葉が並んでいました。
ゲットーに住んでいた人たちや、隠れ住んでいたユダヤ人たちが家畜列車に詰めこまれ、この門をくぐって収容所に送られたのです。
収容所につくと、人々は長い列に並ばされ、病人や老人、子どもなど労働力にならない人と、働ける人に分けられました。働けない人たちは服を脱がされ、髪を剃られ、すぐにガス室へ送られます。
働ける人たちは髪の毛を剃られ、収容服を着せられたあと、名前代わりの番号を腕に入れられます。そのあとは強制労働、弱って働けなくなるとすぐにガス室へ送られていきました。
収容服は白と青のストライプに、黄色いダビデの星が縫いつけられていました。働けなくなり、ガス室に送られる人から脱がされ、何度も新しい収容者に渡りました。
この収容服は、何人ものユダヤ人の死を見てきたものです。冬はマイナス30度にもなる極寒のなか、ユダヤ人たちは薄い収容服1枚で過酷な労働を強いられました。
与えられるのは、1日300kcalほどのわずかな食事のみ。多くの罪もないユダヤ人たちが、収容所のなかで命を落としました。
アンネ・フランクとホロコースト
ドイツ系ユダヤ人の少女、アンネ・フランクは、迫害から身を隠し、日々の記録を綴(つづ)っていました。今も世界中で読み継がれている『アンネの日記』です。
ホロコースト記念館では、アンネが2年1か月もの間、隠れ家で寝起きに使っていた小部屋が忠実に再現されています。
アンネは迫害の始まったドイツからオランダに亡命。オランダがドイツの占領下に入ると、家族やユダヤ人の同胞とともに隠れ家に身を潜めました。
ドイツ軍に見つかると、その場で殺されてしまうか、強制収容所に連行されてしまいます。アンネたちはナチスに見つかり、連行されるまで1歩も外に出ることを許されませんでした。
唯一、屋根裏の窓から見えるマロニエの木(セイヨウトチノキ)だけが、季節の移り変わりを感じられるものでした。記念館の一角には、アンネの見ていたマロニエの木の子どもが植えられています。
ホロコースト記念館には、隠れ家を管理しているアンネ・フランクハウスから提供された日記のレプリカが展示されています。アンネは連行されたあと、強制収容所でチフスを発症し、亡くなりました。しかし、日記のなかのアンネは最後まで希望を捨てず、明るい未来を信じていました。
アンネの日記には、思春期の少女らしい家族との軋轢(あつれき)や、初々しい恋心などが描かれています。日記を読み、その人柄を思い描くことで、アンネや殺されていったユダヤ人たちが特別ではなく、どこにでもいる普通の人たちだったことがわかるでしょう。
ホロコーストで犠牲となったのは、ユダヤ人に生まれた、ただそれだけの人たちだったのです。
ユダヤ人を救った人々
すべての人がユダヤ人の迫害に手を貸していたわけではありません。発覚すれば自分も殺されてしまうにもかかわらず、アンネたちのように隠れ住むユダヤ人をかくまっていた人。かくまっていることを知りつつも見てみぬふりをしてくれた人、ドイツ勢力圏からの脱出に手を貸してくれた人など、「諸国民の中の正義の人」が多くいました。
ホロコースト記念館では、そのような正義の人のひとり、杉原千畝(すぎはら ちうね)の展示室も設けられています。
外交官としてリトアニアに赴任した千畝は、ユダヤ人の現状とビザを求める人々を目の当たりにします。ビザの発給には厳しい条件があり、多くのユダヤ人はそれを満たしていませんでした。
千畝は「条件を満たした者にのみ通過ビザを発給するように」との国の指示には従わず、人としてビザを発給することに決めました。ユダヤ人を助けることで、千畝や千畝の家族の身も危険になります。それでも、千畝は一人ひとりの話を聞いてビザを発給。多くのユダヤ人の脱出を助け、命を救いました。
ホロコースト記念館に展示してあるビザリストのコピーには、ビザを受け取ったユダヤ人たちの名前が記されています。記念館を訪れた外国人が、リストに先祖の名前を見つけることもあるそうです。
子どもたちに向けて
ホロコースト記念館は、ホロコーストという恐ろしくいたましい歴史を、子どもたちに伝えることを目的とした施設です。
初代館長である大塚信(おおつか まこと)さんは語ります。
「未来を担う子どもたちに、幅広い視野を持って世界を見てほしいです。今起こっていることだけではなく、過去に何が起きたかを知り、未来を見つめてほしい。この記念館を通して日本の子どもたちに、ただ知ってほしい。それだけです」
記念館には子どもたちの写真が多く展示されています。ホロコーストで犠牲になった150万人の子どもたち。彼らに思いをはせてほしいのです。
修学旅行など、団体での見学にも対応できるように館内の通路は広めに設計。また、見学に来た子どもたちが理解しやすいよう、極力文字数をおさえた展示になっています。
記念館1階には、子どもたちが自由に平和について学べるこども部屋を用意しました。子どもたちはアンネの書いた童話を読んだり、紙芝居を見たりして、やさしくホロコーストの歴史に触れられます。
こども部屋の近くには、小さなバラ園が整えられています。植えられているのは「アンネの形見のバラ」というピンクがかったオレンジ色のバラです。春と秋の開花シーズンには、近くの保育園から子どもたちがバラを観賞しに来るそうです。
ホロコーストや戦争の悲惨さがまだわからなくても、子どもたちの知る機会が増えるよう工夫しています。
ホロコースト記念館のこだわりなどについて、館長の吉田さんに話を聞きました。
ホロコースト記念館館長 吉田明生さんにインタビュー
ホロコースト記念館にこめられた思いを、館長の吉田明生(よしだ あきお)さんに聞きました。
開館のきっかけはひとつの出会い
──ホロコースト記念館を御幸町に開いたきっかけを教えてください。
吉田(敬称略)──
ホロコースト記念館は、1971年に初代館長の大塚がアンネの父、オットー・フランクさんに会ったことに由来します。オットー・フランクさんはアンネの隠れ家メンバーの唯一の生存者です。
大塚は、所属していた合唱団の親善旅行でイスラエルを訪問し、同じく旅行中だったフランクさんと偶然出会いました。
「わたしの娘の書いた日記を読んだことがありますか?わたしはアンネの父、オットー・フランクです」
フランクさんはそう声をかけてきてくれたそうです。それをきっかけに、フランクさんと合唱団のメンバーは何度も手紙での交流を重ねました。1972年には「アンネの形見のバラ」を送っていただきました。
フランクさんは1980年に91歳で亡くなりますが、出会えたことと、その後9年間の交流は奇跡だったと思います。
フランクさんにはバラのほかにもご家族の写真を送ってくださいました。送っていただいた写真をもとに、大塚が牧師を勤めていた御幸町の教会で「アンネ・フランク展」をおこなったところ、4日間で2,400名の来場者があったのです。
そのことが契機となり、戦後50年の節目に当たる1995年、教会内に日本初となるホロコーストの教育施設、ホロコースト記念館が開設されることになりました。
2007年には教会の近くに新館を建て、変わらず御幸町で活動しています。
──大塚理事長はキリスト教の牧師だったのですね。宗教の違うユダヤ人のかたがたに関する展示をすることに抵抗はなかったのでしょうか?
吉田──
フランクさんは、「平和をつくりだすために、何かをする人になってください」という言葉を残しています。
出会いのきっかけや開館場所こそキリスト教が関係していましたが、大塚はアンネ・フランクをはじめとするホロコーストの悲劇を、子どもたちをはじめ多くの人に知ってもらいたいと願いました。
犠牲となった600万人、うち150万人の子どもたち。言葉にしてしまえばただの数字になってしまう。その600万、150万の一人ひとりに名前や夢、人生があったのだと知ってほしい。学ぶきっかけのひとつになれば良い。
ホロコースト記念館は平和教育施設です。記念館ではキリスト教のことは語らず、ただ、ホロコーストという出来事と平和の大切さを伝えるようにしています。
とにかく考えてもらう
──ホロコーストの悲劇を子どもたちに伝える上で、大切にしていることはありますか?
吉田──
子どもたちには、とにかく考えてもらうことを大切にしています。
たとえば、このワルシャワ・ゲットー(ポーランド)に隠れていた女性と男の子がナチスに連行される写真を見てもらいます。銃を後ろから突きつけられた男の子の顔から「このとき、この子はどういう気持ちだっただろう」と想像してもらう。
写真を見て、「かわいそうだな」で終わるのではなく、一歩踏みこんで考えてもらうようにしています。想像してもらうことで近くに感じてもらえる、自分に関わりのあることだと認識してもらえる。こういう子どもたちがいたのだと、覚えておいてもらえると思っています。
ほかにもアンネの部屋を見せ、ここで思春期のアンネが50代の知人男性と一緒に部屋を使っていたことを伝える。すると子どもたちはよく、「ええー、いやだー」と言います。それでも、隠れ家のアンネには、嫌だと言うことも許されない。これは本で学んだだけでは伝わりにくい。この小さな空間に入ってみて初めて、アンネの苦しみをより近くに感じてもらえます。
──子どもたちに一番見てほしい展示は何ですか?
吉田──
記念室に収められた小さなくつです。このくつが、ホロコースト記念館の中心的な遺品となっています。これはポーランドのマイダネク収容所に残されていました。15cmの小さなくつを見て、「この子は何歳だっただろう」「どんな子だっただろう」と想像してもらう。
くつの下にあるのはアウシュビッツ博物館から送られた木筒です。なかにはアウシュビッツ収容所で銃殺が頻繁におこなわれ、数万人のユダヤ人が命を落とした「恐れの壁」の土と遺骨が収められています。
くつの上のステンドグラスは、子どもたちの魂が天に昇っていくイメージで作成されたものです。記念室では、改めてホロコーストのこと、犠牲になった子どもたちのことを考えてもらっています。
こんなものではないという意見
──ホロコースト記念館を運営する上で、とくに気をつけていることを教えてください。
吉田──
記念館の展示は開館以来、一貫して「怖すぎない」展示を心がけています。ホロコーストの写真のなかには遺体や人体実験の跡など、とてもいたましいものもあります。見ていただけるとわかるのですが、記念館にはそのようないたましい写真は展示していません。子どもたちの感情が、「怖い」だけで終わってしまうことを防ぐためです。
この記念館は、子どもたちが初めてホロコーストに触れるための施設です。子どもたちが「ホロコーストについてもっと知りたい」と思ったとき、あるいは大人になったときに、本当のホロコーストを自分で調べてほしいと思っています。
──来館者からの反応はどうですか?
吉田──
ホロコースト記念館に来る人のなかには、ほかの人からすすめられて訪問する人がよくあります。学校の先生も「ぜひ子どもたちにも伝えたい」と生徒さんを連れてきてくれる。あるいは、子どものころに見学に来た人が、大人になって再び訪れてくれる。それが答えになっていると思います。
また、ホロコースト生還者からは、「ホロコーストはこんな生やさしいものではなかった」と言われることもありました。ですが同時に、「子どもたちが初めてホロコーストの悲劇を知るためには素晴らしい施設だ」との声もいただいています。
ホロコーストをただ怖いもので終わらせず、伝えていく。それは、今後も守り続けていきたいと思います。
未来を担う子どもたちに知ってほしい
──子どもたちに期待することはなんでしょうか?
吉田──
ホロコーストの根幹にあったのは差別や偏見です。子どもたちも人間である以上、好き嫌いであるとか、いじめであるとかが起こってきます。そういうものがエスカレートしていったら、どういうことが起こるのか。ホロコーストという負の歴史から学んでほしい。
こんな悲しいことを二度と起こさないために、自分には何ができるだろうか、考えるきっかけにしてもらえたらいいですね。
そして、フランクさんの言う通り「平和をつくりだすために何かをする人になってほしい」、そう思います。
──ホロコースト記念館の今後の目標を教えてください。
吉田──
ホロコーストで亡くなった子どもたちと同じ数、つまり150万人に記念館を訪れて、ホロコーストについて知ってもらうことです。現在の来館者数は20万4千人ほどなので、まだまだ先は長いと思います。
しかし、記念館を通してホロコーストを知った子どもたちが、
「この悲劇を伝えるためにはどうすれば良いか」
「自分には何ができるのか」
考え、行動を始めているのです。
先は長いですが、必ず実現できると信じています。
負の歴史を知り、平和をつくりだす
2階展示室の前には、ユダヤ人にとって神聖な言葉であるヘブライ語で「忘れないで」と書かれています。
ホロコースト記念館は、悲劇をくり返さないため、今後も悲しみの記憶の継承を続けていきます。
記念館の合い言葉は「平和をつくりだそう、小さな手で」。合い言葉をもとに子どもたちは差別や偏見のもたらす悲しみを知り、平和への思いをつないでいってくれることでしょう。