「猫」を神聖なるモチーフとし、試行錯誤で油性テンペラ技法を極めた画家・川井徳寛
東京青山の骨董通りの小さなギャラリーに、ロシア、ベラルーシ、イタリアなどからの観光客が押し寄せたという画家・川井徳寛さんの個展「川井徳寛─猫礼賛祭壇画─」(2025年11月開催)。ギャラリーGYOKUEI(玉英)のオーナーの玉屋喜崇さんも、川井さんご自身も予想もしていない出来事だった。本展の作品は、初期ルネサンスの宗教画を彷彿させるが、絵画の主役が「猫」である。鑑賞者を不思議な世界に誘う川井さんがたどり着いた独自の油性テンペラ技法の開発や作品への思いなどをお聞きした。
かわい とくひろ 1971年東京生まれ、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程絵画専攻修了。これまでの個展として、アートフェア東京2008(~2023年)、NETWORK PROJECT JAPAN / INTERALIA Gallery(ソウル、韓国)、「異体共生~Parabiosis~」/ SOKA ART CENTER(台湾)、個展「川井徳寛的ヒーロー」/ GYOKUEI、Affordable Art Fair Hong Kong 2014 / a gallery(香港)、「ペコちゃん展」/ 平塚市美術館、Art Central Hong Kong (香港、~2019年)、THE HOUSE OF THE RISING LIGHT / Dorothy Circus Gallery(ローマ)、「美男におわす」/ 埼玉県立美術館、島根県立石見美術館、個展「−形而上表現としての天使−」/ GYOKUEI、「Rose イメージの系譜」/ ふくやま美術館 を開催している。
左の絵は、『猫に愛』80.5×80.5cm(額込サイズ)油性テンペラ、金箔/木材
画家・川井徳寛のはじまり
幼少の頃から絵を描くことが好きだった私は、授業中も先生の話に耳を貸さず、落書きをしているような子どもで、ノートをとっているといつの間にか絵を描いていました。日曜の朝は、テレビでアニメ番組を観たい気持ちを抑え、プロテスタントの信者の両親に連れられ、教会に通いました。とはいっても洗礼を強制するような両親ではありませんでした。
高校に進学したときは、すでに美術大学で学びたいと思うようになり、入学時点で高度なスキルが必要とされる美大試験の為、予備校に通い基礎になるデッサンなどを学びました。教科書にあったヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻像》の絵をみた時、「板に油絵」とあったのがとても印象的でした。板に油絵で描いたものが、なぜこのように透明感が出せるのか、どういう手順で描くのだろうと様々な疑問がわいてきて、そうした技法を学びたいと東京藝術大学の美術部絵画科の油絵を専攻しました。藝大は懇切丁寧に教えるのではなく、学生に干渉せず自主性に任せる教育方針で、想像以上に画家を育てるところでした。短期間で技法を学ぶ講座があり、専門外の版画やリトグラフ、日本画などを学ぶなかで「テンペラ」も履修しました。
ところが大学入学後、それまで私を導いてくれた父が亡くなり、その悲しみからなかなか立ち直れなかった私は、同級生がコンセプチュアル・アートへと進んでいくのに、何を描いたらいいのか定まらず、取り残されたような居心地の悪さも加わり、あまり大学に行かなくなってしまったのです。その頃は映画ばかり観ていた時間が多かったのです。
4年生の時、同じアトリエの友人が、朝から晩まで絵筆を握り、夢中で描き続けている姿に感化されました。絵の仕事に就けたらと考えていましたが、就活もしてみました。画家になろうと決意をしたのは、20代の後半でした。しかし画家を目指すものは、大学生のうちに画廊で個展を開くのが普通ですが、私は大学時代そういう活動をせず、30歳を過ぎて、銀座の「ぎゃらりぃ萌」で初めての個展を開きました。完売ではありませんでしたが、8割方作品が売れたことで自信がついたのも事実です。これが画家としての出発点になりました。
デッサン「寝姿と黄金螺旋」
独自の油性テンペラ技法でなぜ「猫」を描くのか
「テンペラ」というのは、卵黄に水や酢を加え、そこに顔料を練り合わせることによって絵具にします。16世紀以降、油絵具が広く使われるようになるまで、「テンペラ」は主流の技法でした。サロンド・ボッティチェッリの《ヴィーナスの誕生》や《春》は、その傑作と言われています。ボッティチェッリの絵を見て、そこに卵が使われていると知る人は少ないかもしれません。卵黄のレシチンという脂質が乳化剤の働きをします。卵の水分は時間が経つと蒸発してしまいますが、卵の油分が空気と結びついて固まります。テンペラの絵具を薄く均等に塗り重ねることにより、やわらかな光沢が出て、ボッティチェッリの作品は時を経てもいまだに美しい輝きを放っています。
川井さんの作品は多種多様の筆から生まれる
幼少の頃は家にあった図鑑から、昆虫や宇宙、神話に興味を持ち、とくにギリシャ神話やゼウスに惹かれました。創作初期の作品は幼少期に魅了された図鑑やヒーローがテーマになりました。2010年代の作品は、ヒーローと悪者が登場するような善悪の対立や共存をモチーフにして、自分の好きな世界を構図や様式にとらわれない自由な発想で、物語性のある作品を多数制作しました。
そして、5年前くらいから作品に必要な「構図」を極めようと本格的に研究を始めてから、作品も話題になり、著名な美術家の先生にも作品を購入していただけました。
実家では、私の誕生前から猫を飼っていて、物心つく前から猫は家族であり、友人という存在でした。飼っていた猫との別れを経験したのは中学生のときで、その時の喪失感は深く、ペットロスを乗り越えるのも大変でした。その後保護猫を飼うことになり、2匹の猫と通算すると18年間寝食を共にしました。猫はまさに私の精神の安定と癒しの存在です。
自分の描きたい絵に到達するため、卵黄に水や酢を加える割合、さらに油彩や水彩素材を組み合わせ分析、実験を繰り返し、独自の油性テンペラ技法に辿り着いたのです。そして今回は、描く対象を「猫」にしました。「猫」は単なる愛玩動物としてではなく、初期ルネサンス絵画をモチーフに重ね合わせたのが、「猫礼賛祭壇画」シリーズです。
外国人の目に留まった「猫礼賛祭壇画」
今回、海外のしかもロシアやベラルーシなどの観光客が、インスタをみて画廊を訪れるという予想だにしないことが起きました。彼らは、ロシア正教のイコンや宗教画を教会で目にする機会も多く、そこに「猫」が描かれていることに興味をもったのでしょう。猫を抱く聖女から、平和の祈りを感じたのかもしれません。これまでも、明確に平和をコンセプトにした《人類の友》というタイトルの作品を描きました。それは、数学者で、教員だった父の影響で、構造や論理を読み解くことが自然と身に付きましたが、あわせて父は戦争体験をしたこともあり、平和を愛して、戦いを憎む精神を教えられました。両親と行った教会での体験も私の中の一部になっていると思います。
左:『おはじきで遊ぶ』29.8×15.9cm(額込サイズ)油性テンペラ、金箔/木材、右:『結合した疑問符』14.5×27.6cm(額込サイズ) 油性テンペラ、金箔/木材
額縁は絵画の「窓」となり、絵の価値を高める重要な存在である。 以前からやりたいと思っていた額縁づくりを3年前から始め、本展の作品の額縁は、全て川井さんが自ら制作したものである。
『睡眠礼賛』83.0×54.0cm 油性テンペラ、金箔/木材
猫は1日約16時間程睡眠をとると言われており、「ねこ」の語源は寝る子という説もあるほど、睡眠を象徴する動物である。眠る猫を複数描き、それぞれに光輪を付け神聖な印象を与えることで、睡眠という生物にとって大切な行為を、ユーモラスな印象は残したまま、崇高で讃えるべきものとして表現した。光輪に刻まれている花は、花言葉「眠り」の意味を持つ白いポピー。猫と人間は、お互いの体温で暖をとるため、また精神的に癒されるなどの理由で、しばしば一緒に睡眠をとる。猫と人間のお互いに利益のある関係性、相利共生も表現しつつ、ベッドを占拠されている様子からお互いの関係性のバランスも表している。
目指す画家を挙げるとすれば、初期ルネサンス期のイタリアの画家、フラ・アランジェリコや、「西洋絵画の父」と呼ばれたジョット・ディ・ボンドーネです。これからも、テンペラ技法を探求し、物語性のある作品を描き続けていきたいと思います。(談)
川井徳寛さんの出品予定
ART FAIR TOKYO 20
2026年3月13日[金]ー3月15日[日]/東京国際フォーラム ホールE/ロビーギャラリー ブース番号【S031】https://artfairtokyo.com
GYOKUEI H.P. https://www.gyokuei.tokyo/ でも情報を発信している。