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【古代中国】愛人と陰謀に溺れた皇后 ~国を破滅させた悪女が生んだ300年の戦乱

草の実堂

画像 : 賈南風イメージ 草の実堂作成(AI)

皇后の暴走前夜

時は3世紀後半、中国は長きにわたる戦乱の時代を終えようとしていた。

魏・蜀・呉の三国が覇を競い合う中、魏では司馬氏が実権を握った。

司馬懿(しばい)、その子の司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)らが魏の皇帝を操り、最終的には司馬昭の子・司馬炎(しばえん)が王朝そのものを乗っ取った。

265年、司馬炎は魏の皇帝から禅譲を受けて西晋を建国し、初代皇帝となったのである。

画像 : 晋の領土(280年頃)草の実堂作成(twha)

西晋は統一王朝としての体制を整えると、280年には最後に残った呉を滅ぼし、三国時代に終止符を打った。

漢帝国以来、久しぶりに訪れた「統一の時代」に、人々は安定を期待した。
だが、それは単なる幻想に過ぎなかった。

武帝・司馬炎は皇帝に即位するや否や、戦乱の世を生き抜いた英明な君主から、贅沢と享楽に溺れる堕落した支配者へと変貌したのである。

彼は宮殿に数千人もの美姫を集め、夜ごとに宴を開き、女色に耽った。
朝政は次第に疎かになり、政治は宦官や外戚に牛耳られるようになる。

さらに、皇太子の選定を巡って深刻な問題が浮上する。

武帝の後継者に選ばれたのは、次男の司馬衷(しばちゅう)であった。

画像 : 西晋第2代皇帝・司馬衷(しばちゅう 恵帝)public domain

司馬衷(しばちゅう)は、後世の歴史家から「歴代皇帝の中でも匹敵する者がいない愚か者。馬鹿者すぎて国を潰した」と評されるほど暗愚な人物だったのだ。

多くの臣下が「皇太子を替えるべきだ」と進言したが、武帝は頑なにこれを拒否し、290年、病に倒れてそのまま崩御する。

こうして司馬衷が、第2代皇帝(恵帝)として即位した。

その皇后となったのが、歴史に悪名を刻む今回の主人公・賈南風(かなんぷう)である。

賈南風の出自

賈南風は265年に生まれた。
彼女の父・賈充(かじゅう)は武帝・司馬炎の側近であり、西晋の成立に貢献した有力な官僚だった。

もともと皇太子・司馬衷の妃には名門の娘が選ばれるはずだった。

しかし、賈南風の母・郭槐(かくかい)は、武帝の皇后・楊艶(ようえん)に賄賂を贈り、側近たちにも根回しをして強く働きかけた。

その結果、賈南風が太子妃に選ばれ、15歳で司馬衷に嫁ぐこととなった。

画像 : 賈南風 public domain

賈南風には他にも問題があった。彼女は、当時の美的基準からすれば容姿に恵まれていなかったのだ。

『晋書』にも「短小で色黒」と記されているほどである。

その一方で彼女は聡明であり、権力への執着と知略において並ぶ者がいなかった。
夫の司馬衷が暗愚であることを察すると、賈南風は彼を支配し、宮廷の実権を握ることを決意する。

290年、武帝の死とともに司馬衷が皇帝に即位すると、賈南風は皇后となった。

しかし、実際に政治を担うのは彼女ではなく、武帝が遺した外戚の楊駿(ようしゅん)であった。

画像 : 楊駿(ようしゅん)public domain

楊駿(ようしゅん)は武帝の遺詔によって、摂政として政権を担った。

しかし、彼の政治手腕は乏しく、厳格すぎたことや、自らの一族を重用して他の有力貴族を遠ざけたことで、宮廷内外の不満は増大していった。
賈南風も、独裁色を強める楊駿を疎ましく思うようになった。

そうした中で、楊駿は賈南風を警戒し、彼女の動きを制限しようとしたが、これが裏目に出る。

賈南風は楊駿を排除するために、宮廷内の宦官や一部の王族と密かに連携し、巧妙な策略を練った。

そして291年、クーデターを決行したのである。

血塗られた宮廷クーデター

賈南風は密かにクーデターの準備を進めた。

宦官の董猛(とうもう)や孟観(もうかん)、李肇(りちょう)といった側近たちが計画の中心となった。
さらに、恵帝の異母弟である楚王・司馬瑋(しばい)を抱き込み、軍事的な支援を確保した。

司馬瑋は若く血気盛んな王族であり、楊駿の専横を快く思っていなかった。
賈南風は、そんな彼に「楊駿が皇帝を廃そうとしている」と吹き込み、楊駿討伐の口実を作り上げたのである。

同年3月、クーデターは電光石火の速さで実行に移された。

賈南風の命令を受けた宦官たちは、宮殿の門を封鎖し、恵帝の名で「楊駿が謀反を企てている」という詔を偽造した。
この偽の詔は、瞬く間に宮廷内に広まり、楊駿は追い詰められた。

画像 : 追い詰められた楊駿イメージ 草の実堂作成(AI)

楊駿の最期は惨たるものだった。捕えられた彼は、賈南風の命令によって即座に処刑された。

さらに、賈南風は徹底的な粛清を行い、楊駿の一族をことごとく殺害した。
楊駿の娘であり、恵帝の母である楊皇太后すらも、宮廷から追放された後に毒殺されている。

こうして、西晋の摂政であった楊駿の一族は、わずか一夜にして完全に滅ぼされたのである。

しかしこれは、彼女の暴走の「始まり」に過ぎなかった。

皇太子を陥れた狂気の陰謀

賈南風は自らの権力を絶対のものとし、自分を脅かすすべての存在を排除しようとした。

その最たる犠牲者が、夫・恵帝の嫡男であり、皇太子に立てられていた司馬遹(しばいつ)である。

賈南風にとって、彼は決して容認できない存在だった。

司馬遹の母は賈南風ではなく、恵帝の側室であった謝玖(しゃきゅう)という女性だった。
さらに、司馬遹は幼い頃から聡明で、武帝・司馬炎が溺愛していた孫であり、皇太子にふさわしいと目されていた。

西晋の皇族や有力貴族の間でも、司馬遹を評価する声は多く、「宣帝(司馬懿)に似ておられる!」「恵帝が愚鈍である以上、早々に司馬遹へ帝位を譲るべきだ」という意見すらあった。

画像 : 司馬遹(しばいつ)イメージ 草の実堂作成(AI)

こうした流れは、賈南風にとって耐え難いものだった。

もし、司馬遹が次期皇帝となれば、賈南風は「先帝の皇后」に過ぎない存在になり、権力の座から追われることになるからだ。

賈南風は策謀を巡らし、まず司馬遹を孤立させた。
彼の側近や護衛を遠ざけ、「暴虐な性格で、将来はきっと暴君になる」などの噂を広め、評判を貶めた。
さらに決定的な一手として、司馬遹を謀反人に仕立て上げる計画を練る。

299年12月、賈南風は宴席を設け、司馬遹に大量の酒を飲ませた。
そして、酩酊する彼に「恵帝と賈皇后を廃し、自ら帝位に就く」とする文書を無理やり書かせたのである。

これを証拠として突きつけられた恵帝は、真偽を確かめることなく、即座に司馬遹の廃位を決定してしまった。
こうして司馬遹は、皇太子の地位を剥奪されて庶人に落とされた。

さらに賈南風は「司馬遹が謀反を企てている」との偽の証言を流し、彼を許昌宮へ幽閉。

そして300年3月、ついに宦官・孫慮(そんりょ)に命じ、毒を盛って司馬遹を殺害させた。

西晋の未来を担うはずだった聡明な皇太子は、母ではない皇后の手によって無惨に命を奪われたのである。

皇后が築いた退廃の楽園

皇太子・司馬遹を排除したことで、彼女の権力は絶頂を迎えた。

すでに夫である恵帝は完全な傀儡と化しており、実質的に西晋を支配していたのは賈南風であった。
だが、彼女の統治はもはや政治とは呼べるものではなく、宮廷は退廃と堕落の巣窟へと変貌していった。

史書には、賈南風が宮廷に数多くの男を引き入れ、彼らを愛人として寵愛したと記されている。

画像 : 賈南風イメージ 草の実堂作成(AI)

その中には、太医令(宮廷医官)をはじめとする官吏たちも含まれており、彼女は欲望の赴くままに彼らと関係を持ったという。

彼女の享楽ぶりは、もはや隠しようのないものとなり、宮廷の人々は口をつぐみながらも、その退廃ぶりに呆れていた。

『晋書』は、ある事件を通じて彼女の行状を伝えている。

原文:
洛南有盜尉部小吏,端麗美容止,既給冢役,忽有非常衣服,眾咸疑其竊盜,尉嫌而辯之。賈后疏親欲求盜物,往聽對辭。

小吏云:『先行逢一老嫗,說家有疾病,師卜云宜得城南少年厭之,欲暫相煩,必有重報。於是隨去,上車下帷,內簏箱中,行可十餘里,過六七門限,開簏箱,忽見樓闕好屋。問此是何處,云是天上,即以香湯見浴,好衣美食將入。見一婦人,年可三十五六,短形青黑色,眉後有疵。見留數夕,共寢歡宴,臨出贈此眾物。』

意訳:
洛南に住む若い役人がいた。彼は美貌でありながら、ある日突然豪華な衣服を身にまとうようになったため、人々は彼が盗みを働いたのではないかと疑った。役人はこう釈明した。

「ある日、私は年老いた女性と出会い、彼女が『病を治すために城南の若者が必要だ』と言ったため、しばらく付き合うことにした。車に乗せられ、箱の中に入れられ、数里の距離を進むと、豪華な宮殿が現れた。そこでは香り高い湯で沐浴させられ、最高の料理でもてなされた。そこにいたのは35、6歳の女性で、背が低く、青黒い肌をしており、眉の後ろに傷があった。私は数日間その女性と共に過ごし、楽しんだ後、多くの贈り物を受けて解放された。」

『晉書』卷三十一列傳第一 后妃上 より引用

これを聞いた者たちは、その女性の特徴が賈南風と一致していることに気付き、笑いをこらえながら立ち去ったという。

この男はたまたま命を拾ったが、彼女の相手となった多くの者は、口封じのために殺されたとも伝えられる。

こうした退廃が日常化するにつれ、賈南風を取り巻く権力者たちの振る舞いも増長していった。
側近たちは贅沢の限りを尽くし、宮廷は政務よりも享楽に支配された。かつて西晋を支えた有能な官僚たちは、次々と失脚し、代わりに彼女に従順な者たちが高位に就いた。

こうした宮廷の腐敗は、当然ながら皇族たちの反感を買った。

彼女の破滅は、着々と近づいていたのである。

粛清された悪女

もはや、彼女を擁護する者はいなくなっていた。

そんな状況を敏感に察したのが趙王・司馬倫(しばりん)である。
司馬倫は、司馬懿の第9子(末子)であり、強大な兵権を握っていた。

司馬倫は賈南風への不満を抱いていたが、正義感ではなく、自らの帝位奪取の好機と捉えた。
そして側近の孫秀(そんしゅう)と共に、賈南風打倒の計画を練った。

300年4月、ついにクーデターが勃発する。

司馬倫は「司馬遹の仇を討つ」との名目で軍を動かし、洛陽宮に突入した。
賈南風の甥・賈謐(かひつ)を捕らえ、その場で処刑。賈南風の側近たちも次々と粛清され、彼女の支配は一瞬にして崩壊した。

賈南風も捕らえられ、庶人に落とされた。

助命を求めたが、もはや誰も彼女を擁護しなかった。数日後、彼女は金墉城に幽閉され、毒酒を強制的に飲まされて死亡した。
彼女の死を惜しむ者はなく、宮廷では祝賀の声すら上がったという。

こうして、暴虐を極めた皇后の生涯は幕を閉じた。

しかし、彼女が撒いた混乱の種は、西晋をさらなる混乱へと引きずり込んでいく。

画像 : 八王の乱 封国分布図 public domain

司馬倫は皇帝を僭位したものの、その専横ぶりに反発した皇族たちがすぐに挙兵し、301年には司馬冏(しばけい)らの連合軍に敗れて自害に追い込まれた。

こうして西晋は「八王の乱」という泥沼の内乱へと突き進んでいくことになる。

さらに、賈南風の死からわずか数年後、匈奴の劉淵(りゅうえん)が華北に覇を唱え、中国は本格的な戦乱の時代へと突入する。

この動乱は、隋が統一を成し遂げるまで、実に300年近く続くことになるのだった。

賈南風の最期は、まさに歴史の転換点そのものであったといえよう。

参考 : 『晉書』卷三十一列傳第一 后妃上 他
草の実堂編集部

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