戦後80年、都内の畑に爆撃機のタイヤがいまもひっそりと佇む
足立区舎人の畑の角には大きなタイヤが半分埋まっています。このタイヤはアメリカ軍の爆撃機B-29の主脚タイヤでした。
戦争遺構は住宅地と畑の一角で突然に現れる
2025年は戦後80年です。私が子供の頃はまだ身近に戦争体験者がいて当時の話をよく聞きましたが、もうかなり少なくなりました。都内の戦争遺構も、再開発や区画整理などで減ってきています。そのような状況ですが、まだ遺構が残っているところがあります。
足立区には「B-29のタイヤ」と称す戦跡があるのです。太平洋戦争中のアメリカ軍戦略爆撃機ボーイングB-29 スーパーフォートレスのタイヤです。銀色の流線型をした爆撃機は、日本人にとって各地を空襲して2つの原爆を投下した爆撃機として知られ、空襲を生き残った祖母もよく「B-29が大群でやってきて……」と語っていました。
このB-29のタイヤは近年注目を浴びてきたので、耳にした方もいるかと思います。今回は廃を愛でるというよりも、80年目の夏の戦争遺構に出会うため現地へ訪れました。
舎人ライナーの舎人駅を下車。道路に沿って西へ10分ほど歩きます。一帯は住宅地で、ところどころに畑が見えてきたころ、コンビニの角を左に曲がって丁字路を右へ。ビニールハウス沿いに歩くと四つ辻交差点に出ました。
「こんなところにあるのかな……」と半信半疑になりますが……。
見えてきたのは、畑や家々のある変哲のない交差点です。その一角の畑に黒くドーナツ状のものが、土に半分埋まった状態で佇んでいました。
「あ、あれ?」
拍子抜けするほど、当たり前のように畑の一部と同化しています。B-29のタイヤがありました。
直径約1.5mのタイヤは溝も残っていた
このタイヤは、見た目で約1.5mあるかないか。新幹線の線路幅(標準軌)くらいに感じ、トラクターのメインタイヤほどの大きさはありそうです。紹介する看板はなく、畑の柵の敷地内にあるために、道路側のみしか見学することはできず、反対側は判別できませんが、詳しい専門家や足立区などが調査し、たしかにB-29の主脚タイヤであると判明しています。
では、なぜここにB-29のタイヤが埋まっているのか。すでに報道された内容では、畑の持ち主の父親が、戦時中にB-29が墜落した際、物資不足のため燃料にできないかとタイヤを持ち帰ったそうで、けっきょく使い道がなかったため、畑への進入避けでこのタイヤを半分埋めたとのことです(毎日新聞、2025年5月28日報道より)。
もし畑の方がいらっしゃればお話を伺いたかったのですが、あいにくいらっしゃいませんでした。
タイヤは主翼のプロペラエンジンの下にある主脚で、B-29の巨体を支えるにはいささか細い気がしましたが、B-29は現代の旅客機と同じようにダブルタイヤでした。タイヤの断面は曲面で、接地面のトレッドパターンは菱形模様です。その模様からトラクターやトラックのタイヤに見えてきますが、B-29の古写真を見てみると、しっかりと菱形模様の主脚タイヤが写っていました。
肝心のゴムは硬化しきっているようで、ところどころひび割れています。それでもしっかりと原形を留め、側面のショルダー部はまだ摩耗しておらず、凸状の横線がくっきりと残っています。
畑のB-29タイヤを細見して考察する
タイヤの詳細は、既に多くの考察と発表がなされているので、私はそれをなぞるように観察することにしました。側面ショルダー部には、うっすらと刻印が読み取れます。旗のマークがあり、これはタイヤメーカーGOODYEAR(グッドイヤー)のロゴとなります。グッドイヤーは創業以来ウイングフット(羽と靴)のロゴを使用していますが、風ではためく旗のロゴも使用されていました。
続いて「16 PLY」「56」「SMOOTH CONTOUR」の表記です。PLYは、Ply Rating(プライレーティング)の略で、現代では「PR」と表記します。タイヤ強度を示す値で、値が大きいほど剛性や対荷重の性能が高く、カーカスという、タイヤの骨格を形成する層の数を表しています(現代はカーカス層数相当を表す数字へと変化)。16PLYはカーカスが16層ある表記となります。
「56」は明確に判明しなかったものの、おそらくタイヤの直径インチ数ではないでしょうか。56インチは約1.42mです。
「SMOOTH CONTOUR」は滑らかな形状と称し、このタイヤの性質を表すものかと思います。報道を見る限り、私有地の畑側にはGOODYEARのロゴやもっと細かい情報が刻印されていたのですが、自由に見られる道路側からの情報はこれくらいです。
タイヤのビート部はホイールと固定する重要な部分で、動物のヒゲ(私はクジラのヒゲを連想した)のように紐状のものが沢山垂れ下がっています。カーカスの一部が劣化し露出している様子です。
紐状のものはナイロンのようです。戦時中、アメリカはナイロンをふんだんに使用していました。カーカスの素材にナイロンを使用していたとのことで、それが露出しているのでしょう。
B-29はレシプロプロペラエンジンを4基搭載し、約33tの重量がありました。それを支える主脚タイヤは、16PLYという高い数値から、いかに対荷重性能が高かったかうかがえます。空気圧は主脚が75〜85psi(『B-29操縦マニュアル』光人舎刊)であり、イメージしやすい自動車に換算すると、517kPa〜586kPaとなります。
またビート部に赤い印がしっかりと残っています。タイヤとホイールとの合わせ面の印でしょうか。爆撃機の種類は異なりますが、イギリスで同じ印を見たことがあります。自動車ではタイヤとホイールバランスの関係で黄と赤のマル印があり、それと同じものかもしれません。
タイヤの機体は大空襲で墜落した
では、このタイヤのB-29はどうなったのでしょうか。足立区の発表や報道、各考察サイトでは、昭和20年(1945)5月26日に墜落した機体であり、墜落時に飛散したプロペラの一部が、『足立区立郷土博物館』に所蔵されています。
東京は5月25〜26日にかけて、都心から杉並区に至る広範囲で大空襲がありました。墜落したB-29はこの作戦に投入されたうちの1機で、第314航空団所属の機体番号44-69728、墜落地点は足立区入谷町の水田(現在の足立トラックターミナル付近)でした。
また足立区には、隣の川口市も含めて3機のB-29が墜落したので、タイヤはそのどれかの機体のものかもしれませんが、タイヤは大きくて運ぶのも難があり、畑に近く、同じ町内に墜落した当該機と考えるのが妥当でしょう。
「これが有名なタイヤか」
じっくりと観察していると、車を止めた男性が降りてきて、しばしタイヤを観察して去っていきました。やはり、タイヤの存在は知られているようです。かたや、地域の方々にとっては当たり前の光景なので、タイヤを気にすることはありません。
B-29のタイヤは、畑に半分埋まりながら80年間地域を見つめてきました。畑の前で長時間ウロウロするのもご迷惑になるかもしれず、観察を終えて合掌し、駅へと戻りました。
タイヤのある畑は私有地であり、周囲は閑静な住宅地です。周囲に配慮して観察することにしましょう。
取材・文・撮影=吉永陽一
吉永陽一
写真家・フォトグラファー
鉄道の空撮「空鉄(そらてつ)」を日々発表しているが、実は学生時代から廃墟や廃線跡などの「廃もの」を愛し、廃墟が最大級の人生の癒やしである。廃鉱の大判写真を寝床の傍らに飾り、廃墟で寝起きする疑似体験を20数年間行なっている。部屋に荷物が多すぎ、だんだんと部屋が廃墟になりつつあり、居心地が良い。