映画「ブルータリスト」に影響を与えた5つの建築
映画『ブルータリスト』(日本では2024年2月21日から公開)はビスタビジョン撮影と70ミリフィルムでの上映、ロードショー形式の途中休憩、3部門でオスカー候補に挙がった俳優陣の演技力など、業界のオールドスクールな伝統を余すことなく体現している。まさに映画という形をとった「偉大なるアメリカ小説」ともいえる作品だ。
ブレイディ・コーベットが監督したこの大作が描くのは移民の経験、文化的同化、権力の乱用、家族への愛、そして集合的トラウマの現れとしての建築だ。彼はその壮大で聡明(そうめい)なアイデアを、作品として見事に具現化した。
この物語は、ブルータリズム建築家であるラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)を中心に展開する。モデルになったのは、1930年代にヨーロッパからアメリカに移住した亡命者の一人で、ハンガリー系ドイツ人のモダニストとして知られるマルセル・ブロイヤー。トートがドイツのバウハウスでデザインを学んだ点はブロイヤーと共通しているが、ホロコーストの生存者であるという設定は異なる。
トートはペンシルベニアの名門貴族ハリソン・ヴァン・ビューレン(ガイ・ピアース)の支援を受けるが、その好意には危険が潜んでいることを知る。また、妻のエルジェーベト(フェリシティ・ジョーンズ)は厳しい役所の手続きに阻まれ、ヨーロッパからアメリカへ渡ることができずにいる。
コーベットと共同で脚本を執筆したモナ・ファストヴォルドは特筆に値するだろう。しかし、映画を完成させる上で大きく貢献した人物は、ほかにもいる。その一人が、「キャロル」や「ブロークバック・マウンテン」などの時代を感じさせる傑作で活躍した美術監督のジュディ・ベッカーだ。
彼女は金銭と地位が支配する世界を緻密に作り上げるとともに、建築的要素も的確に表現した。その一例が、ヴァン・ビューレンが亡き母のためにトートに建設を依頼した、壮大なブルータリズム様式の建物「The Institute」である。
プロダクションデザイン部門でオスカー候補に
タイムアウトでは2025年の「アカデミー賞」ノミネート作品の発表の翌朝、マサチューセッツ州ケープコッドの自宅にいたベッカーに話を聞いた。
「(ノミネート発表の様子は)私にしては早い朝の8時半に起きて、ベッドで観ました。昨日は、暖房が壊れ、一酸化炭素警報器も鳴り、全然ロマンチックじゃない夜でしたが……。でも、気持ち的にはお祝いムードですよ」
彼女にとってアカデミー賞プロダクションデザイン部門へのノミネートは、「アメリカン・ハッスル」に続いて今回で2回目。ある一つの世界観を構築する卓越した手腕が評価された結果である。
賛否はあるが、その出来栄えが建築界の巨匠たちの注目を集めているのは間違いない。例えば、ニューヨークの「ワン・ワールド・トレード・センター」やベルリンの「ユダヤ博物館」を手がけた建築家のダニエル・リベスキンドが、本作を称賛する記事を執筆している。
「ブルータリスト」のデザインに影響を及ぼしたもの
「ブルータリスト」は、装飾過多なアール・デコが退潮して厳格なモダニズムが台頭したアメリカにおける1950年代の美的変遷を描いている。そうした変化を極限まで推し進めたのがブルータリズムであり、その象徴がトートによる「The Institute」なのだ。そこには、彼が生き抜いたナチスの強制収容所の工業的な造形と、映画の鑑賞者が対峙(たいじ)するようなデザインが施されている。
ベッカーは「大量虐殺の造形」を再現したプロセスを教えてくれた。
「できるだけ影響を受け過ぎずに制作するのも好きなのですが、実際には多くの強制収容所の写真を見て、ブダペストのホロコースト記念施設も訪れました」
ただ、彼女は収容所そのものには足を運んでいないという。
「もともとはポーランドのクラクフでの撮影を予定していたので、それが実現すれば、訪れていたと思います。自分はユダヤ系の家系なので、収容所に関する表現をすることは精神的に大きな負担でした。デザインの過程で最もつらかった部分です」
ベッカーはさらに、ワシントンD.C.の地下鉄から日本の教会に至るまで、「ブルータリスト」の造形に影響を与えた意外な5つの建築について語ってくれた。それぞれの構造物がプロダクションデザインにどう影響したのか、見てみよう。
1. ブロイヤー・ビルディング/ニューヨーク
「マルセル・ブロイヤーが設計したかつて『ホイットニー美術館』として使われていた建物は、常に頭にありました。ブルータリズムにはさまざまな種類がありますが、これは非常にミニマルなもの。一般的にブルータリズムは、モダンで未来志向かつ戦後的な様式であるといえ、当然コンクリートを多く使う傾向にありました」
「もちろん、ロンドンにも美しいブルータリズム建築があります。私はウォーキングツアーに参加したり、かつては非常に醜いとされ、今でもそう見なされることがある住宅地を訪れたりしました。バービカンのように、今では住みたいと望まれる場所もありますよね」
2. ブロイヤー・ハウス/マサチューセッツ州ウェルフリート
「夫と車で走っていた時、素晴らしいモダンな家を見かけました。思わず車を止めて写真をたくさん撮ったのですが、それが『ブロイヤー・ハウス』だったのです。この建物のデザインは、作中のヴァン・ビューレンの図書館にも影響を与えました」
「トート夫妻のゲストハウスやニューヨークのアパートをデザインする際、私はブロイヤーの私生活から多くのインスピレーションを得たのです。彼自身の趣味はとてもシンプルだったため、ラースロー・トートもそれをもう少し小規模にしたような暮らしをしているのではないかと考えました」
3. 光の教会/日本
「安藤忠雄のような建築家からインスピレーションを受けました。彼は現代的ブルータリズムの建築家であり、ある意味では私が思い描いたラースロー・トートの姿にも重なります。とてもストイックで、コンクリートを多用し、窓がほとんどない点も共通しています」
「脚本を読んだ時、すぐにこの有名な『光の十字架』がある教会を調べました。というのも、ブレイディが物語の中で祭壇に映る十字架を描いていたからです。本当に美しい建築です」
4. ワシントンメトロ/ワシントンD.C.
「『The Institute』に入ると、非常に急な階段があります。そのデザインを考える際に、ワシントンD.C.の地下鉄を思い浮かべました。この地下鉄はブルータリズムの建築家であるハリー・ウィーズによって設計されたものです」
「地下鉄が走るのは、信じられないほどの深さと急勾配の先。最初の10回くらいは本当に怖いと感じるほどでした。『The Institute』に入ることも、同じように恐怖を感じる体験にしたいと思ったのです」
5. ブローバウォッチ・ビル/ニューヨーク
「『The Institute』は、産業ビルや火葬場からもインスピレーションを得ています。劇中でヴァン・ビューレンが要求したのはコミュニティーセンターですが、実際に建てられたのはホロコーストを想起させる工業的な建物です。
『The Institute』をデザインする際、私は1930年代の産業建築について書かれた本を幾度も参考にしました。クイーンズのJFK空港(ジョン・F・ケネディ国際空港)へ向かう途中にあるこのビルは『The Institute』とは見た目こそ異なりますが、同じ系統の建築様式を持っていると感じました」