子どもの姿に託された希望と現実──「戦後80年 戦争と子どもたち」(レポート)
戦時中から戦後にかけて、子どもは希望の象徴であると同時に「少国民(しょうこくみん)」としての存在として、多様に描かれてきました。この厳しい時代を生きるなかで、子どもを通して社会を見つめた美術家たちの眼差しには、当時の記憶と葛藤が深く刻まれています。
板橋区立美術館で開催中の「戦後80年(ねん) 戦争と子どもたち」展では、絵画や版画、絵本や紙芝居、さらに子ども自身による作品などを通して、戦中・戦後の子どもをめぐる美術表現が多角的に紹介されています。
板橋区立美術館「戦後80年 戦争と子どもたち」会場入口
展覧会は第1章「童心の表情」から始まります。大正時代の自由主義的な思想の流れを受け、日本では1920年代から30年代にかけて、純粋で無垢な子どもたちのイメージが広がり、画家たちも無邪気に遊ぶ姿やあどけない表情を捉えました。
しかし、日中戦争が開戦した1937年(昭和12年)以降は、子どもを題材としながらも、同時代の社会状況を反映させた作品が見られるように。また、戦時下では、国民の体力向上を目標とした政策とも関連し、健康的な子どもの身体を描いた作品も数多く制作されています。
第1章「童心の表情」
小杉放菴の《金太郎遊行》は、1944年(昭和19年)2月に開催された「戦艦献納帝国芸術院会員美術展」への出品作。作品の売上金を海軍省に献納することが目的の展覧会で、時局に合った画題でもありました。
小杉は孫をモデルに、油彩でありながら日本画のような質感で、純真かつ朗らかな「金太郎」を描き出しました。
小杉放菴《金太郎遊行》1944年(昭和19年) 戰艦献納帝国芸術院会員美術展 栃木県立美術館
第2章は「不安の表象」。美術家たちは、戦争による閉塞感や自身の不安な気持ちを、子どもたちの姿に投影し作品を制作しました。
子どもらしさの象徴であった玩具も、次第に戦闘機や軍艦など戦争を象徴するものへと変化していきました。
第2章「不安の表象」
松村綾子の《少女・金魚鉢》は、切り裂くように鋭い筆致と刺々しい画面全体が「痛い」という印象を与えます。少女の眼差しは閉じた内側に向かい、出口のない物語を入れ子状に示唆しています。
松村は早くに子を失うなど孤独の日々を過ごし、1983年に自宅アパートの失火で死去。この作品は、焼け跡から回収された代表作です。
松村綾子《少女・金魚鉢》1937年(昭和12年) 第24回二科展 星野画廊
石井正夫の《模型建艦》は、戦没画学生の作品を展示する無言館の所蔵作品。
無言館には作品の制作に関わる手記が伝わっており、石井は、大日本海洋美術展覧会の公募を知り、日本画の道具を買い揃えて、弟をモデルに本作を描いたといいます。
石井正夫《模型建艦》1943年(昭和18年) 第7回大日本海洋美術展覧会 戰没画学生慰靈美術館 無言館
展覧会の第3章は「理念の表象」です。「欲しがりません勝つまでは」という標語に象徴されるように、日本が本格的な総力戦体制に入ると、子どもたちの生活からも自由が奪われ、社会全体が戦争一色に染まっていきました。
戦地や銃後で働く子どもたちの姿を描いた作品は、当時の展覧会などで紹介され、戦意高揚を後押ししていきました。
第3章「理念の表象」
白谷登の《征途の別れ》では、赤十字の腕章をつけ、従軍看護師として戦地へ赴く母親を幼な子が見上げています。
白谷は、本作について「物心ついたばかりの愛児をただ一人残して勇躍病院船に乗り込んでゆく天使もあった」と回想しています。
白谷登《征途の別れ》1941年(昭和16年) 日本赤十字社
新海覚雄の《貯蓄報国》は、貯金に訪れる人々を描いた作品。太平洋戦争開戦以後、出征者が増えたため、女学生も労働力として借り出され、窓口に並ぶ人々も子ども連れや割烹着(かっぽうぎ)姿の女性が目立ちます。
日中戦争の開戦以降、国民の預貯金が軍事費の一部として使われるようになり、この作品が発表される前年には貯蓄目標が270億円に設定されました。
新海覚雄《貯蓄報国》1943年(昭和18年) 第2回大東亜戦争美術展 板橋区立美術館
第4章は「明日の表象」。美術界で戦争に直接関係のないモチーフに制限が加えられるなか、子どもを中心とした大正時代の自由主義的な思想の影響を多少なりとも受けた、1910年前後に生まれた画家たちは、戦争とは直接関係のない文脈で子どもたちを描きました。
第4章「明日の表象」
麻生三郎の《一子像》は、1944年(昭和19年)1月に生まれた長女を描いた作品です。麻生は戦後、戦争末期から終戦直後に「子どもを見ていると描かなければいけない」と感じたことを振り返っています。
戦争末期の閉塞した状況のなかで、我が子を描くことで明日の希望を見出そうとした画家の姿が浮かび上がります。
麻生三郎《一子像》1944年(昭和19年) 第3回新人画会展 板橋区立美術館
最後の第5章は「再建の表象」です。15年にも及んだ戦争が終結し、美術家たちは復員し、美術団体の再建や結成に尽力しました。この時期、美術家たちは焼け野原になった街やそこに生きる人々の姿を記録しています。
1948年(昭和23年)の時点で12万人以上いたとされる戦災孤児は、大きな社会問題となっていました。
第5章「再建の表象」
楢原健三による《街頭にて》は、終戦間もない1946年(昭和21年)に開催された第1回日本美術展覧会(日展)の出品作です。上野で見かけた、きょうだいと思しき2人の子どもたちが描かれています。
戦争によって怪我を負ったと思われるモンペ姿の妹と、うつろな目の兄。楢原は、戦争によって傷つけられた子どもたちから目を背けることなく、リアルな姿を描き出しています。
楢原健三《街頭にて》1946年(昭和21年) 第1回日本美術展覧会 個人蔵
「戦争と子どもたちと紙芝居」では、紙芝居の変遷を辿ります。「街頭紙芝居」は、戦前の1920年代後半から登場。日中戦争の開始と国家総動員法制定により、内務省から興行についての通達が出されるようになりました。
ここでは当時の社会の状況を色濃く映し出した紙芝居が紹介されています。
「戦争と子どもたちと紙芝居」
子どもたちが未来への希望であった一方で、時代の葛藤や不安を映す鏡でもあったことを、様々な作品が雄弁に語りかけてきます。
戦中・戦後の激動の時代を見つめた美術家たちの多角的な眼差しを深く知ることができる展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年11月7日 ]