「美の鬼」と称された歌聖・藤原定家が『小倉百人一首』に託した思いを探る
『小倉百人一首』が誕生した理由とは
「こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ」
『小倉百人一首』に収められている藤原定家の和歌だ。
『小倉百人一首』は、1235(嘉禎元)年に、元御家人で執権北条時政の娘婿にあたる宇都宮頼綱からの依頼で書き送ったものだ。
頼綱は、鎌倉の有力御家人として伊予国守護を務めたが、謀反を疑われ出家。実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号し、京都嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したといわれる。
頼綱の依頼とは、その庵の障子色紙に古来の歌人が詠んだ和歌を1首ずつ選び、定家自ら揮毫して欲しいとのことだった。
これに対し定家は、「自分は文字に自信がない」と言いつつも、天智天皇から順徳上皇に至るまでの100人の歌人の和歌を選んで、頼綱に対して書き送った。
時に定家73歳。この6年後に死去しているので、晩年の作と言ってもよい。
『小倉百人一首』は、後に古典・和歌の入門書として、また現在では歌集としてよりも、カルタとしての知名度が高くなった。
特に昨今は、人気漫画を映画化した広瀬すず主演の「ちはやふる」のヒットもあって、競技かるたが人気を博している。
しかし、『小倉百人一首』は、定家が選者として編纂した『新古今和歌集』のような制約がなく、歌道の宗匠として歌聖と崇められる定家が、1人の歌人に対し1首という厳しい目で選んだ和歌が納められていることに注目したい。
波乱の連続だった定家の前半生
藤原定家が誕生したのは1162(応保2)年、平清盛の平氏政権が確立した時代であった。
父は、歌人としても有名な藤原俊成(しゅんぜい)で、藤原北家御子左家(みこひだりけ)という中級貴族の家柄だった。
定家の官途としてのスタートは、仁安元(1166)年に従五位下に叙爵したことからも上々だったが、その後は父の出家、自身の大病もあり暫く停滞した。
そうしたストレスからか、この頃から神経質で感情に激することが多くなったといわれる。
しかし元来、定家の中には相手が誰であろうが自説を曲げない反骨精神が流れ、特に和歌においては美への執念が強く、それ故に後世に「美の鬼」と称された。
歌人としては、治承3(1179)年に、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の広庭で行われた会に歌合として初めて参加。寿永元(1182)年には俊成の命により『堀河院題百首』を作った。
これが、父母や諸歌人はもとより、右大臣・九条兼実からも賛辞を贈られ、官位も翌年には、正五位下に昇った。
しかし、ここで最初の事件が起こる。
文治元(1185)年11月末、朝廷で最も重要な祭事である新嘗祭(にいなめさい)の最中に、殿上にて大納言・源定房の長男、右近衛少将・源雅行の顔を脂燭(しそく)で殴打したのだ。
雅行が、日頃から定家を馬鹿にして周囲に吹聴ことに激怒したことが原因の狼藉だが、この事件で定家は、勅勘により除籍処分を受けることになってしまった。
この後、定家は摂政となった兼実を頼り、家司として出仕した。
これが幸いしその庇護のもと、文治5(1189)年の左近衛少将任官を皮切りに、正治2(1200)年の正四位下昇叙と順調に昇進した。
また、『二見浦百首』『皇后宮大夫百首』や、兼実の連歌の席に出席するなど歌人としても目覚ましい活躍をみせている。
しかし、建久7(1196)年11月24日、定家の庇護者・兼実が失脚の憂き目にあう。兼実は関白職を免ぜられ、その弟・慈円も天台座主を辞任。ここに、朝廷内における九条家の勢力は大きく減ぜられた。
この事件は「建久七年の政変」と呼ばれ、首謀者は村上源氏出身の内大臣・源通親とされる。
政変勃発の理由には様々な説があるが、いずれにせよ定家も兼実側とみられ、除籍処分を受けたと考えられる。
後鳥羽院との蜜月と決定的な破局
建久9(1198)年1月11日、後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位し院政を開始した。
そしてこの頃から、急速に和歌に傾倒していったといわれる。
正治2(1200)年、院初度御百首が企画された。だが源通親は、定家を意識的に参加者から外す。これに不満を抱いた俊成らが運動を行い、定家はようやく参加を許されることとなった。
翌年、定家は千五百番歌合に参加した。
この時、詠進した全て和歌が後鳥羽から好みにあったとの評価を受け、ここから定家と後鳥羽の和歌を通じての親密さが始まった。
後鳥羽は、よほど定家の歌風が気に入ったのか、勅撰和歌集編纂の撰者を命じる。そして元久元(1204)年、『新古今和歌集』が完成し、定家の和歌は41首が入集した。
官吏としても、建暦元(1211)年に従三位・侍従に叙任され、50歳にして初の公卿に列した。また、建保2(1214)年には参議に任ぜられて、議政官への任官を果した。
さらに、翌々年には正三位に昇叙されるなど、後鳥羽のもとで順調に出世を重ねていった。
また、後鳥羽の子・順徳天皇にも、その歌壇の重鎮として用いられた。
こうして、後鳥羽の院政下で、定家は歌道の宗匠としての地位を固めたのである。
だが、ここに落とし穴があった。承久2年(1220年)2月、内裏歌合の際に提出した和歌が、後鳥羽の逆鱗に触れて勅勘を受けたのだ。
道のべの 野原の柳 したもえぬ あはれ嘆きの けぶりくらべや
これが問題となった1首である。
この1首により「公式の和歌に関する行事には、一切出席してはならぬ」という、歌人定家にとって厳しい処分が下された。
和歌に詠まれた「柳」とは、かつて定家の屋敷の庭にあった枝垂柳を指すという。これを気に入った後鳥羽が、召し上げてしまった出来事があった。
後鳥羽には、「柳の数本がなんだ」という気持ちがあっただろう。しかし、定家の同日の日記には、後鳥羽に対しての激烈な批判と、憤懣やるかたない感情が記されている。
これを定家の自惚れとみるかどうかは、意見の分かれるところだ。定家は、歌人としても官人としても、後鳥羽の愛顧によって引き立てられた。そのことは、定家自身が重々理解していただろう。
ただ、この時点で2人の関係は、和歌という芸術世界を介して余人では伺い知れないものになっていたようだ。
実は『新古今和歌集』の編纂が始まると、作業が進むにつれて和歌に対しての好みや解釈の違いから、定家・後鳥羽双方が陰口を言い合うほどに関係が悪化していた。
ただ定家も後鳥羽も、それぞれの和歌の才能を非常に高く評価し合っていたので表面には出さなかった。しかし、ついに定家の方から、禁断の言を発してしまったのだ。
昔の些細な出来事を未だに恨みに思い続ける定家に対し、後鳥羽の感情も沸点に達した。この瞬間、後鳥羽と定家は決定的な破局を迎えたのである。
「承久の乱」による後鳥羽との永久の別れ
だが、運命は皮肉だった。本来なら歌人として終焉を迎えるはずだった定家に、まさかの展開が訪れるのである。
承久3(1221)年5月15日、後鳥羽は鎌倉幕府2代執権・北条義時追討の命令を下した。いわゆる承久の乱だ。
朝廷と幕府のバランスは、3代将軍・源実朝の存在で保たれていた。実朝は、武家の棟梁という立場とともに院の近臣でもあった。後鳥羽と実朝は、和歌だけでなく政治的にも深く良好な関係にあったのだ。ちなみに実朝は、定家を和歌の師として仰いでいる。
そんな実朝が、建保7(1219)年1月27日に公暁の手により暗殺された。
後鳥羽は、実朝の死が鎌倉幕府の勢力を削減する好機と見た。執権北条氏が中心となり、虎視眈々と西国への勢力拡大を狙う東国政権=鎌倉幕府に対し、治天の君としてくさびを打ち、自らのペースで統治しようとしたのである。
しかし、後鳥羽の目論見は外れた。義時の子・泰時に率いられた幕府の大軍は朝廷軍の10倍にも及び、その前にあえなく惨敗を喫した。
こうして、後鳥羽は隠岐に。後鳥羽の2人の皇子のうち乱に加担した順徳院は佐渡に。そして乱に反対し続けた順徳の兄・土御門院は、自ら望んで土佐に配流となった。
そしてこれが、定家と後鳥羽の永久の別れとなったのである。
政治的圧略に屈し、3上皇の作品を削除する
その後、定家が隠岐の後鳥羽と音信を交わした形跡は一切残っていない。
そして皮肉にも後鳥羽が都を去った後、定家の官位は上昇し、嘉禄3(1227)年には正二位に昇進。さらに、寛喜4(1232)年に、71歳で権中納言に任ぜられた。また歌人としても、院や朝廷の歌壇において大御所的存在となっていた。
この年、定家は後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受け、2年後には1498首の草稿本を清書し奏覧した。
この直後に後堀河が突如崩御すると、前関白・九条道家がこの事業を受け継ぐ。しかし、道家は鎌倉への遠慮から、承久の乱で処罰された歌人の和歌を100首余り切り捨て、文暦2(1235)年3月に『新勅撰和歌集』は完成した。
この100首余の中には、後鳥羽・順徳・土御門の3上皇の和歌が多く含まれていたという。
道家のこの処置に定家が反発した様子はない。たとえ政治の力に屈しようとも、心血を注いできた『新勅撰和歌集』の完成を選んだのである。
ただ、定家が熟考の上に熟考を重ね選考したのだから、3上皇の和歌はいずれも優れたものに違いなかった。和歌に携わる者として、あくまでも芸術的な視線で選んだ作品が葬り去られることに、定家の歌人としてのプライドはいかばかりであったかは想像に難くない。
小倉百人一首に後鳥羽への感傷を詠む
実信房蓮生こと宇都宮頼綱から、庵の障子色紙の依頼が来たのは、その僅か2ヶ月後だ。これが世に名高い『小倉百人一首』の原型であった。
その巻末の2首は、後鳥羽と順徳の御製だ。
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は(後鳥羽院)
百敷や ふるき軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり(順徳院)
この2首に関しては、当初から選ばれたものではく、後に入れ替えられたものだという説がある。
しかし、真実はどうだろう。
先の『新勅撰和歌集』においては、後鳥羽・順徳両院の和歌は、政治的圧力で削られることとなった。
だが、その削除は定家の意志ではなかった。そして後鳥羽・順徳は、定家にとって恩人そのものであった。
特に後鳥羽に対しては、勅勘を被った身として自分から行動を起こすことができない。だからこそ、『小倉百人一首』にその和歌を収録することで、自分の想いを伝えたかったのではないだろうか。
その想いは、冒頭に掲げた定家の『小倉百人一首』の1首に凝縮されている。
こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがれつつ
この中に読み込まれた「身を焦がす」ほど「待つ人」とは誰でもない、後鳥羽のことであろう。
誰がどんなに懇願しても、後鳥羽・順徳・土御門の帰京を頑として許さない鎌倉幕府の冷酷な仕打ち。もはや絶海の孤島で朽ち果てるしかない後鳥羽に対し、定家は胸の中に一杯に広がった感傷を詠んだ。
そして、鎌倉幕府に遠慮することなく両院の2首を入れたのは、相手が誰であろうと自説を曲げることを良しとしない、美の鬼・定家の反骨精神そのものであったのではないだろうか。
※参考文献
山崎圭子『後鳥羽院と定家』
京あゆみ研究会著 『京都歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊 2022.2
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部