Yahoo! JAPAN

タイ大洪水 復旧劇:立場や国境を越えた絆が、奇跡を生んだ――試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】

NHK出版デジタルマガジン

タイ大洪水 復旧劇:立場や国境を越えた絆が、奇跡を生んだ――試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】

 情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。『新プロジェクトX 挑戦者たち 5』より、第四章「緊急派遣5千人 日本メーカーの総力戦――タイ大洪水 国境を越えた復旧劇」の冒頭を特別公開。

緊急派遣5千人 日本メーカーの総力戦――タイ大洪水 国境を越えた復旧劇

100年に一度の大洪水

災害に見舞われた年

 2011(平成23)年は、世界各地で未曾有の自然災害が多発した異例の年だった。3月、日本では国内観測史上最大の巨大地震・東日本大震災が発生。1月から9月にかけては、アフリカ東部が過去60年間で最悪の干ばつに見舞われ、1400万人が被害を受けた。
 そして10月、「微笑みの国」ともいわれるタイは、100年に一度の大洪水に襲われた。死者813名、被災者は約230万人。そんな大災害において、特に大きな経済的被害を受けたのは、意外にも、日本だった。タイには、カメラメーカーのニコンをはじめ、自動車・家電・半導体など、数多くの日系企業が基幹工場を置いていた。それらが、洪水により一気に水没したのだ。
 このままでは、日本の物づくりの心臓部が完全に止まってしまう。そんな緊急事態に立ち上がったのは、現地工場のリーダーたち。そして、職場を「第2の家」のように大切にしてきた、タイ人従業員たちだった。
 これは、国境を越えて大洪水に立ち向かった者たちの、知られざる総力戦の物語である。

世界有数の工業団地

 そもそも、なぜタイに日系企業の工場が集まっているのか。話は1980年代に遡る。
 1985(昭和60)年、アメリカは、過度なドル高に悩まされていた。当時の先進5か国であるアメリカ・日本・イギリス・フランス・西ドイツの財務大臣、中央銀行総裁による会議を行い、ドル安を目指す国際協調路線、いわゆる「プラザ合意」を発表。
 その結果引き起こされたのは、急激な円高だった。それまで1ドル240円台だった相場は、1987年には120円台に突入。空前の海外旅行ブームが到来し、国際線の年間旅客数は初めて1000万人を突破した。
 その一方で、輸出に頼る製造業各社は、円高による国際的な価格競争力低下に苦しんだ。そこで活路を見いだしたのが、人件費の安い東南アジア、特にタイへの工場移転だった。中でも世界有数の工業団地へと発展を遂げたのが、タイ中部・アユタヤに位置する「ロジャナ工業団地」である。自動車から精密機器まで、実に150近い日系企業の工場が集結。あらゆる部品が2時間で揃うとまで謳われる、日本の物づくりの重要拠点となった。
 そんなロジャナ工業団地にひときわ巨大な工場を構えていたのが、カメラメーカーのニコン。ここで、主力商品であるカメラ全体の実に9割を生産していた。1万2000人もの従業員を抱える、まさに基幹工場である。社長は、生産技術畑出身の村石信之。タイ工場の技術力を聞きつけ、ぜひ率いてみたいと志願してやってきた。
「タイ人のエンジニアや現場のスタッフは、本当にいきいきと仕事をしているんですね。もうこれは、このままいったら日本は負けちゃうんじゃないかなって思うぐらい、結束力とか、一人ひとりの力を合わせて何かをやり遂げる力が非常に強い。活気に満ちた工場、活気に満ちたタイ人従業員という印象がすごく強くて、自分のモチベーションも彼らに引き上げられる思いがしました」
 そんな村石にとって、2011年は特に重要な年だった。なぜなら、それまでタイ工場では大量生産のしやすい入門クラスのカメラの製造を主に担ってきたのだが、この年、初めて中上級クラスの新製品立ち上げを任されたのだ。これは、タイ工場の高い技術力が本社に認められてのことだった。村石もタイ人従業員たちも大いに喜び、張り切って生産ラインの整備を進めていた。
「タイ人従業員は非常にモチベーションが上がっていて、いつもの調子で、みんなで力を合わせてやるんだと。気持ち的にピークに登っていったようなタイミングだったと思います。私もタイ人と同じように気持ちは高ぶりましたし、やっぱりもう、タイ人の嬉しそうな様子を見ていて、自分もそれ以上に嬉しいなという気持ちが増していきました」

「お父さん」と慕われた日本人

 一方、ニコンのそばに半導体工場を構えていた老舗電機メーカーの沖電気工業(OKI)。
 そこに、従業員から「お父さん」と呼ばれ慕われる名物男がいた。山田隆基である。
「私は、社長っていうのは『お父さん』だと思います。みんながお父さんって思うか、上司と思うかはあるんですよ。年齢差もあるし、いろいろあるだろう。だけど気持ち的に言うと、自分の子どもが困っているときに助けない親はいないでしょ。その感覚さえあれば、うまくいくと思うんですよ」
 約1000人の従業員を率いる山田が最も大事にしていたのが、タイ人たちと「家族」のように濃密な信頼関係を築くことだった。この会社に1期生として入社した古株社員のコンサック・キアッティタップティウは、山田の印象をこう語る。
「私は運が良かったと思います。山田さんは仕事ができて、賢く、感情をうまくコントロールできる人でした。怒ってカッとなったところは見たことがありません。会社では一緒に働き、退勤後は一緒に飲みに行きました。絆は、そういうところから生まれました」
 同じく古株・2期生入社のシリヌッチ・バンパトーも、口を揃える。
「日本人の中にも、山田さんのような人はなかなかいません。おそらく従業員全員が山田さんの名前を知っているし、良い印象を持っていると思います。私たちにとって『第2のお父さん』のような存在なんです。仕事をしている時も自分の『第2の家』で働いていて、その家にお父さんがいるような感じでした」
 そんな「第2の父」山田だが、実は望んでタイにやってきたわけではなかった。山田が初めてタイに赴任したのは1997(平成9)年。当時日本で生産管理に携わっていたが、あるとき工場生産の方針を巡り上司と衝突。その直後、47歳にして、タイ工場に工場長として赴くよう命じられた。
「正直、その異動辞令を受けた時は驚きましたね。内心の話を言うと、『あっ、左遷だな』と思いましたね。悶々としていました。そりゃもう、やっていられるかっていう」
 すっかりふてくされた山田。工場長でありながら、2か月、3か月と無気力な日々が続いた。だが、そんな山田に対しても、さすがは微笑みの国といったところか、若いタイ人従業員たちは毎日毎日満面の笑顔で挨拶してくる。その表情を見ているうちに、山田に少しずつ元気が戻ってきた。
「やはり、タイ人の笑顔ですよ。笑顔で『サワディカップ!』って言うわけですよ。その顔を見ているとね、バカだな俺、本当にちっちゃいなと。自分を恥ずかしく思いましたよ。そのうちに、俺は何をしているんだと、そういうような気持ちになりましたね」

企業にとっての「土台」づくり

 気を取り直して働き始めた山田が驚いたのは、この工場で働くタイ人たちの和気あいあいとした雰囲気だった。そんな職場をゼロから形作ってきたのが、時の社長・井上長治。ゴルフ焼けした黒い肌がトレードマークの、豪快な上司だった。
 1990(平成2)年、タイ工場の立ち上げを一任された井上は、従業員が居心地良く働き続けられるような会社を目指してきた。そのために、現地スタッフは全員新卒採用にこだわり、さらに勤続3年で管理職に抜擢するという徹底ぶり。そんな井上の会社づくりを間近で見て、山田は目から鱗が落ちる思いだった。
 「家を作る時に土台ってありますよね。だから、土台がしっかりしてなきゃダメなんですよね。逆に土台作りさえうまくいけば、そのあとはそう苦労しないじゃないかと。だからこそタイ人を育て上げて、そして託していくと。その井上さんの姿勢が、いわゆるみんなのチームワークというか、信頼感を醸成していたと思います」
 恩師・井上から様々なリーダー論を叩き込まれた山田は、初めてのタイ赴任から約10年後の2008(平成20)年、OKIタイランドの社長に就任した。山田はタイ人たちとの絆をさらに深めるべく、ことあるごとに懇親会を開き、立場の分け隔てなく交流。本当の親子のような信頼関係を築き上げていった。
 そして2011年10月1日、親会社が変わったことに伴い、社名が「ラピスセミコンダクタ・アユタヤ」に変更。心機一転、新たな門出を迎えた……その、矢先の出来事だった。

すべてが水の底に

 熱帯モンスーン気候に属するタイには「雨期」と「乾期」があり、5月から10月頃にかけての雨期には連日激しい雨が降る。特にロジャナ工業団地が位置するアユタヤには、タイ全土を南北に流れる大河川・チャオプラヤ川の狭窄部があることから、毎年のように洪水が発生していた。
 そのためアユタヤの住民たちは洪水に慣れきっており、住居を高床式にしたり、マイボートを所有したりと各種対策を講じていた。また、洪水には農地に肥沃な土壌を運んでくれる「恵み」の側面もあり、人々は長きにわたって共存してきた。
 しかし、2011年の雨期は、それまでとは全く次元の違うものだった。7月、極めて強力な台風8号がタイ北部に大雨をもたらしたことを皮切りに、8月も例年を遥かに超える豪雨が降り続け、さらに9月末から10月頭にかけて台風が3つ連続で上陸。その合計雨量は例年の4割増しに相当し、のちの解析によれば、約100年に一度の発生確率という異例の大雨だった。
 こうした事態に備え、チャオプラヤ川流域には琵琶湖(275億トン)のほぼ半分という途方もない貯水量(135億トン)を誇るプーミポン・ダムをはじめ、巨大なダムが複数建設されていたが、どれもたちまち満水に近づいていった。タイに赴任して8年になるニコンの村石にとっても、初めて直面する異常事態だった。
「雨量が多いなっていう印象は持っていたんですけども、それより心配したのが、大きなダムの貯水量が限界を超えつつあったことです。そこが決壊してしまう恐れがあるということで、もし放流するということになると、ちょっと話が違うなと。なので、そのダムの貯水量を気にしながら、オフィスの中や現場では重要なものをなるべく高いところに積むとか、そういう処置をして、洪水が来ないことを祈って過ごしていました」
 だが、その祈りは届かなかった。10月5日、ついにプーミポン・ダムは限界に達し、放水を開始。そして10月10日、濁流がロジャナ工業団地を飲み込んだ。約150社の日系企業は、たった1日ですべて水没した。
 自社カメラの9割の生産を担う基幹工場が沈んだニコンの村石。衝撃のあまり、言葉も出なかった。
「悲しみよりも、『こんな危機が身に迫っていたの?』という驚きが第一印象。もう啞然も啞然、今までの自分の認識の低さとか、情報量の少なさとかを思い知りました。頭が真っ白になって、本当にいろんなことが思い浮かぶんですけど、何から手をつけていいかわからない。どっからやったらいいのかもわからない。何もできない。いろんな後悔も頭をよぎりました。人生で経験したことのないような光景、そんな印象を持ちました」

「国を巻き込もう、バンコクに行こう」

 大手電機メーカーのパイオニアも、オーディオ機器など年間800万台の出荷を担う重要な工場をロジャナに構えていた。
 約3000人の従業員を束ねていたのは、現地社長の青柳篤。この年の7月にタイに着任したばかりだった。その直前は、本社の生産部長として東日本大震災の対応に奔走。被災した関連工場の復旧や、代替生産の調整などに追われ、ようやく目処がついたところでタイ行きの辞令を受け取った。その矢先の被災に、青柳は思わず涙をこぼした。
「もうあかんと思いました。これはあかんと思いましたよ。そのとき涙が出ました。従業員のこともあったし、1台も生産することができなくなるというのは絶対あってはならないストーリーでした。東日本大震災のときは、生産が途切れたり、生産の量が落ちたりいろいろありましたけれども、部品メーカーさんも頑張ってくれて2か月ぐらいで正常な状態に戻りました。けど、水没した工場で2か月、3か月でまた生産を再開するっていうイメージが湧かなくて、震災のときみたいにスピードを上げて復興することができる気がしなかった。だからもう、あかんかなって言ってしまいました」
 失意のなか、沈みゆく工場を後にした村石と青柳は、説明と対応策を求めて、かろうじて浸水を免れていた工業団地の管理事務所に駆け込んだ。だが、そこには同じように混乱している現地社長たちがごった返すばかりで、管理事務所側も有効な対応策は持ち合わせていなかった。肩を落とす2人に、声をかけてきた男がいた。ラピスの山田隆基だった。山田が言った。
「ここにいても埒が明かない。国を巻き込もう、バンコクに行こう」
 その言葉を聞いて、青柳は我に返った。
「あのとき山田さんにお会いしていなかったら、多分どこにも行けなかったと思います。僕なんかよりも危機管理能力がずば抜けて高くて、教わることばかりでした。山田さんはいちばん年長者だっていうのもありましたし、タイの駐在期間がいちばん長くて経験もいろいろされているので、本当にリーダーシップを発揮してくれました」
 2人に声をかけたとき、山田の脳裏にはある教えが浮かんでいた。それは、かつて恩師の井上長治から叩き込まれたリーダーの心得の1つ。その名も「ぶどうの理論」。
「井上さんは、『山田君な、ぶどう棚からぶどうを取ったら、すぐ誰かに渡せ』と。そして『自分の手はいつでも手ぶらにしとけ』って言うわけですね。手ぶらにしたら何をするのかといったら、それは、『いつも先を考えろ』ってことなんですよね。そしてもう1つ手ぶらにしている理由は、『何か有事が起こったら、先頭に立って闘え』って、こう言うわけですよ。怯むなって言っているわけでしょ。そういうふうに私は学んだわけです。この言葉が、いわゆる支えになったのは間違いないです」
山田たちが管理事務所を出ると、あたり一面は完全に水没し、湖の様相を呈していた。
 3人はざぶざぶと泥水をかき分け、なんとか車まで辿りついた。その際に青柳は、靴を片方だけ水に流されてしまったが、もはやそれを気にしている時間はない。
 これから一体どうなるのか、先行きが全く見通せないなか、80キロ南のバンコクへ車を走らせた。

【関連記事】

おすすめの記事

新着記事

  1. 陸っぱりでマゴチ釣るなら「ボトムワインド」で決まり!【釣り方・アタリの出方を解説】

    TSURINEWS
  2. 人間にとって厄介者の「流れ藻」は小魚たちにとっては大事な隠れ家だった

    TSURINEWS
  3. めんつゆできゅうりの一本漬け

    macaroni
  4. 『門や扉をつかさどる神々』ローマ・中国・魔術書に描かれた守護の伝説とは

    草の実堂
  5. セブンイレブンでつい買っちゃうホットスナックランキング!からあげ棒、アメリカンドッグを抑えて1位に選ばれたのは…

    gooランキング
  6. ストレートに磨きをかける!千葉ロッテマリーンズ2年目19歳右腕・早坂響!!【ラブすぽ独占インタビュー動画/第2弾】

    ラブすぽ
  7. 【パワースポット誕生】亀田製菓、東京駅で「ハッピーターンズデー」記念の体験型ポップアップイベント開催

    にいがた経済新聞
  8. 時間無制限で楽しめる果物狩り 「みとろ観光果樹園のすもも・ぶどう狩り」 加古川市

    Kiss PRESS
  9. パックマン生誕45周年 オタマトーンとのコラボに「デラックス」版新登場

    おたくま経済新聞
  10. 1年目の開幕からなぜ1軍入りできた? 清水隆行が語る“勝負強さと運”の秘訣とは!?【攻撃型2番打者・元読売ジャイアンツ 清水隆行ラブすぽトークショー】

    ラブすぽ