【京都歴史観光】坂本龍馬や勤王の志士達の足跡をめぐってみた「木屋町通周辺」
高瀬川沿いにめぐる木屋町・幕末歴史散策
三条通から四条通にかけての木屋町一帯は、京都有数の繁華街として飲食店などが並ぶ華やかな一角。高瀬川に沿って伸びる木屋町通は、江戸時代半ばになって料理屋・旅籠・酒屋などが店を構えるようになったという。
このエリア一帯は、桃山から江戸の初めにかけての慶長年間(1596~1615年)に、京都の豪商・角倉了以が高瀬川を開削したことで、舟運のルートが開通した。
大坂や伏見から薪炭・木材が、高瀬舟という小船に積まれて運び込まれるようになり、木屋町通に沿って材木問屋・材木商の店舗や倉庫が建ち並ぶようになった。
幕末になっても高瀬川は伏見を経由して京都と大阪をつなぐ重要な水運のルートであり、京都に出入りしやすい場所でもあった。
こうしたことから、木屋町界隈は勤皇の志士達が拠点をおき、さらに密会に利用するのに便利な場所だったようだ。
かつて、京都ホテルオークラの建っている場所から御池通の南側辺りにかけて広大な敷地をもつ長州屋敷があり、その南には土佐藩京都藩邸があったことも、この一帯が幕末の舞台となった理由の一端だ。
木屋町通界隈を歩くと、坂本龍馬・桂小五郎らの潜居跡をはじめ、幕末の様々な事跡の碑が繁華街のあちこちに立っているのを見つけることができる。
また、大村益次郎や佐久間象山がこの地で殉難している他、池田屋騒動の舞台となった池田屋や坂本龍馬最期の地である近江屋など、龍馬や志士達の足跡が集中している。
今回は、そんな木屋町通りを北は丸太町通りから、南は四条通まで幕末の志士たちの足跡がみられるスポットを紹介しよう。
維新三傑の一人、木戸孝允旧跡「木戸旧邸・達磨堂」
木戸孝允(桂小五郎)の京都別邸。ただし、幕末ではなく明治維新後の住まいである。
長州藩士であった木戸は幕末、勤王の志士として活躍し、明治維新後は新政府の高官・政治家となった。
この別邸は1869(明治2)年、木戸が近衛邸を買い取って京都滞在中の住まいとしたもの。1877年(明治10年)5月には明治天皇は危篤の木戸を見舞うためこの別邸を訪れている。
隣接する達磨堂には、木戸孝允の養子・木戸忠太郎が明治末期から昭和初期にかけて収集した達磨をはじめ、書画・ポスターなど達磨に関連する数万点納められており、その一部が展示されている。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=964
広大な敷地だった「京都長州藩邸跡・桂小五郎像」
河原町通から木屋町通に至る一帯は、かつて長州藩の京都藩邸で幕末には同藩の志士の京都での活動拠点となったところ。
1864(文久4)年の蛤御門の変(禁門の変)で、薩摩・会津藩を中心とした幕府軍に敗れた長州藩は、この藩邸に火を放ち京都から脱出した。この放火で京都は大規模な大火に見舞われた。
関連サイト:https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na021.html
天才・佐久間象山最後の地「象山先生遭難碑」
幕末に兵法家・思想家として活躍した信州松代藩士・佐久間象山は、一橋慶喜に招かれて上洛して公武合体論と開国論を説いた。
このため攘夷派から憎まれ、この場所で2人の刺客に襲われ殺害された。象山は、勝海舟・吉田松陰の砲学の師でもある。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=869
稀代の軍政家・大村益次郎終焉の地「大村卿遭難碑」
村田蔵ロ六の名でも知られる大村益次郎は、第2次長州征伐・戊辰戦争で活躍した兵学者で長州藩士。
明治維新後、新政府の兵部大輔に任ぜられた。
関西の軍事施設視察のため京都を訪れていた大村は、この地にあった旅館に投宿中刺客に襲われ、その負傷が原因となり大阪で死去した。
益次郎暗殺の理由と犯人は、彼が推進した兵制などの急進的な改革に反対する氏族によるといわれる。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=854
小五郎・幾松愛の巣「桂小五郎幾松寓居跡(旅館幾松跡)」
幕末、倒幕に大きな役割を果たした桂小五郎(木戸孝允)と、三本木の芸妓幾松(後の松子夫人)の木屋町寓居。
維新後は幾松の子孫により、料理旅館「幾松」として続いていたが、コロナ禍の影響で2020年に惜しまれつつ廃業した。
京都藩邸時代、ここを住まいとしていた桂は、対立勢力の来襲に備えて天井に大きな石を仕掛けていたという。
この仕掛けは旅館時には現存しなかったが、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などが当時に近い状態で保存されていた。
現在、ほぼ更地になってはいるが、木戸と幾松が暮らした母屋の保存に期待したい。
朝廷に向け建白書を起草した「武市瑞山先生寓居跡」
坂本龍馬の盟友である武市瑞山(半平太)は土佐藩士で、土佐勤王党を結成した尊王攘夷派の志士として知られる。
藩主の山内容堂に従って上洛し、この地に住んで応接役として各藩士と交わった。また、瑞山はこの地で朝廷に向けた王政復古を促す建白書を作成したとされる。
瑞山は、土佐の政局に巻き込まれ、非業な死を遂げたが、その意志は龍馬たちに引き継がれていく。
関連サイト:https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na081.html
天誅組の変で散った勤王志士「吉村寅太郎寓居跡」
天誅組総裁として戦死した吉村寅太郎の京都の住まい跡。
吉村は土佐の庄屋の子で土佐勤王党に入った。武市半平太の命を受けて長州藩に赴き、萩で久坂玄瑞と会見。久坂に感化された寅太郎は土佐藩を脱藩し、志士として京都で活動を行った。
その寅太郎が住んだ場所がここで、各藩の志士たちと交わりながら倒幕に向けた兵を集めたいう。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=187
武闘派新選組の名を一躍有名にした「池田屋騒動址」
1864(元治元)年7月8日の池田屋事件の舞台となった旅館池田屋のあった場所。
新選組屯所に捕縛されている古高俊太郎の奪還と、京都市中焼き討ちの密議をこらしていた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を京都守護職配下の新選組が襲撃した。
この襲撃で尊王攘夷派の7人の中心人物が死亡、土佐勤皇党の石川潤次郎、海軍操練所の望月亀弥太など龍馬の同志も亡くなった。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=853
海援隊の京都本部が置かれた「酢屋・坂本龍馬寓居跡」
1867(慶応3)年6月から龍馬が投宿した材木商で、2階表西側の部屋に滞在していたという。
しかし、近辺に龍馬を探索する新撰組や見廻組が現れるようになり、陸奥宗光などのすすめにより土佐藩邸に近い近江屋新助方に転居した。
龍馬は部屋から高瀬川の船溜りに向かい、愛用の拳銃を試し撃ちし、腕を磨いていたという逸話が残る。
公式サイト:https://kyoto-suya.co.jp/
龍馬を始め土佐藩士が崇拝した「土佐稲荷(岬神社)」
土佐藩の京都藩邸の中にあった神社。
社伝によれば、1348(正平3)年に鴨川西通りの中洲の岬に祠が建てられたのが始まりで、江戸時代初期に土佐藩京屋敷内に遷座された。明治維新後に藩邸は売却されたため現在地に移された。
龍馬はもとより中岡慎太郎など多くの土佐藩士達の崇敬を受けた。境内には坂本龍馬の像が立っている。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=2121
京都における土佐藩の本拠地「土佐藩邸跡」
高瀬川から河原町通にかけての一帯に土佐藩の京都藩邸があった。
幕末には、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎ら土佐藩出身の志士が出入りした。
脱藩した龍馬は、勝海舟のとりなしで藩主の山内容堂から脱藩の罪を許されたが、土佐藩邸で7日間の謹慎を命じられている。
龍馬が幕府から狙われるようになっても藩邸に入らなかったのは、脱藩者ということで遠慮したのかもしれない。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=189
急進派志士精一郎の暗殺現場「本間精一郎遭難地」
尊王攘夷の志士であった本間精一郎は、1862(文久2)年の夏の夜半、先斗町からの帰りに土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛ら6名の刺客に襲われ殺害された。
精一郎は自己の実績を過大に宣伝したため、一部の志士達から疎まれていたという。
南側の瓢箪露路を抜け木屋町へ逃れようとしたが、はさみ討ちにあって惨殺されたと伝わる。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=201
2傑ここに死す「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地(近江屋跡)」
1867(慶応3年)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎は、龍馬の潜伏先の近江屋で襲撃を受けた。
龍馬はその場で絶命、中岡も2日後に死去した。
犯人はいまだにはっきりとせず、京都見廻り組、新選組、土佐藩後藤象二郎、御陵衛士など様々。
いずれにせよ狭い室内で一瞬のうちに龍馬と慎太郎に致命傷を与えた犯人は、暗殺の技に長けた凄腕の剣客であったことに間違いない。
龍馬と慎太郎の亡骸は、京都霊山護国神社に埋葬されている。
関連サイト:https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=2130
龍馬の親友で陸援隊の創始者「中岡慎太郎寓居地」
中岡慎太郎は土佐藩の郷士で龍馬の親友。
龍馬とともに薩長同盟の成立に活躍し、陸援隊を組織し隊長となった。
中岡は土佐藩を脱藩後、土佐藩出入りの書林菊屋に身を寄せた。
河原町通りを挟んだ斜め前に、龍馬が身を寄せ2人の最期の場所となった近江屋があった。
関連サイト:https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na012.html
池田屋事件の発端となった「古高俊太郎寓居地」
勤王志士の古高俊太郎が住まいとしていた場所。
古高は筑前藩御用達の薪炭商の養子になり、大名・宮家・公家とも縁があったという。しかし新選組に捕縛されて取り調べを受け、さらに土蔵内から御所を焼き払うため道具や火薬などが発見された。
厳しい拷問に口を割らなかった古高も、土方歳三による足の甲から足裏へ五寸釘を打たれ、これに蝋燭を通し火を付けるという拷問には耐えきれずついに陰謀について自供した。これが池田屋事件の発端となった。
関連サイト:https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si005.html
この他、木屋町通には、龍馬の妻お龍が住んでいたという「お龍寓居跡」もある。
お龍は、医師の娘であったが父の死で生活が困窮。この地に移り住んだ後に龍馬と出会ったとされる。
このコースは、ゆっくり歩いても2時間あればめぐることができる。
夕方に散策が終わるようなら、「古高俊太郎寓居地」にある京料理店「志る幸」で、歴史散策の余韻に浸りながらの夕食をおすすめしたい。
利休弁当が名物の汁物自慢の店で、池波正太郎が大の贔屓にしたことでも知られる。
ちなみに、時価にはなるが鯛の造りは忘れずに。絶品の明石鯛を味わえる。
公式サイト:http://shirukou-kyoto.jp/
高瀬川沿いに点在する幕末史跡は、時代とともに変化が激しい京都だけに、人物所縁の建物などは今はほとんど残っていない。
しかし、それを示す石碑が彼らの確かな足跡を今にとどめ、そこをめぐる旅人の想いに応えてくれるだろう。
文・写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部