#6 親愛なるキティーへ――小川洋子さんが読む『アンネの日記』【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
作家・小川洋子さんによる『アンネの日記』読み解き #6
苦難の日々を支えたのは、自らが紡いだ「言葉」だった――。
第二次世界大戦下の一九四二年、十三歳の誕生日に父親から贈られた日記帳に、思春期の揺れる心情と「隠れ家」での困窮生活の実情を彩り豊かに綴った、アンネ・フランクによる『アンネの日記』。
『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記』では、『アンネの日記』に記された「文学」と呼ぶにふさわしい表現と言葉と、それらがコロナ禍に見舞われ、戦争を目の当たりにした私たちに与えてくれる静かな勇気と確かな希望について、小川洋子さんが解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第6回/全6回)
親愛なるキティーへ
ところで、アンネが日記にけっしてユーモアを忘れなかった理由とは何だったのでしょうか。それは、構成上の特徴に秘密があると思われます。よく知られたことですが、アンネは「キティー」というこの世に存在しない人物に宛てて手紙を書くという形式を取りました。キティーとは、のちの友人などの証言から、当時オランダで流行し、アンネも愛読していた「ヨープ・テル・ヘール」という児童文学シリーズの登場人物ではないかと推測されています。
アンネがキティーについて記した部分を見てみましょう。
この日記帳自体はわたしの心の友として、今後はわが友キティーと呼ぶことにしましょう。
(一九四二年六月二十日)
こうして、日記はほぼ毎回、「親愛なるキティーへ」の一文から書き綴られることになるのです。
キティーという架空の存在を作り出したところに、わたしはアンネの直感的な文学的才能を感じます。誰かのために語るということは、物語の原点に他なりません。キティーに向けて、自分の内なる気持ちを語りかけていく。先に、日記はアンネにとって内側のものを外に放つ通路だったのではないかと述べましたが、キティーを設定することでその流れはせせらぎとなって、ゆるやかに外に放たれたのです。
日記は本来、自分以外の読者を必要としません。しかしアンネは自分自身の感情をノートにただぶつけるのではなく、苦しい事柄でも楽しい出来事でも、そこからあえて距離をとって言葉を紡ぎ出し、読者たるキティーに手渡すという構図をとりました。客観的な視点を確立したことで、この日記は文学にまで昇華したのです。
そして、キティーの存在を用いたことによる、もうひとつの効果がありました。『アンネの日記』を題材にした小説『乙女の密告』の作者、赤染晶子さんがおっしゃっていたのですが、それは、毎回必ず最後に「アンネより」、あるいは「アンネ・M・フランクより」と署名したことです。毎回名前を刻むことは、「私はここに生きているのだ」と確認する作業となったはずです。世界にたったひとりしかいない自分、個人としての独立した自分の存在を、アンネは日記に繰り返し刻みつけることになったのです。
「キティーはいつも辛抱づよいので、このなかでなら、わたしの言い分を最後まで聞いてもらえる」と、アンネは記しています。反論も否定もせず、ただ黙って話に耳を傾けてくれる友人。そう考えるとキティーはアンネにとって、カウンセラーのような存在だったのかもしれません。
日記を書き始めた当初は、友人たちと会えなくなる日がやってくるとは想像もしていなかったでしょう。しかし、非情にもその現実がたちまちやってきてしまった。キティーという架空の友人は、アンネが希望を持って生きる上で、もっとも重要な役目を果たすことになるのです。
第二章以降は、本書『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記 言葉はどのようにして人を救うのか』でお楽しみください。
著者
小川洋子(おがわ・ようこ)
作家。1962年、岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞し、デビュー。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞。2004年『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、13年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年『小箱』で野間文芸賞、21年菊池寛賞を受賞、同年紫綬褒章を受章。その他、小説作品多数。エッセイに『アンネ・フランクの記憶』、『遠慮深いうたた寝』などがある。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■『NHK「100分de名著」ブックス アンネの日記 言葉はどのようにして人を救うのか』(小川洋子著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビなどは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
*本書における『アンネの日記』の引用は、アンネ・フランク著、深町眞理子訳『アンネの日記増補新訂版』(文春文庫)を底本にしています。また、小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』(角川文庫)を参考にしました。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2014年8月および2015年3月に放送された「アンネの日記」のテキストを底本として加筆・修正し、新たにブックス特別章「言葉はどのようにして人間を救うのか」、読書案内などを収載したものです。