浅井長政は、なぜ織田信長を裏切ったのか? 信長を窮地に陥れた「盟友の裏切り」
数々の武将や大名に裏切られてきた織田信長。
その中でも最初に彼を追い詰めたのは、意外なことに身内であったはずの浅井長政であった。
信長の妹を正室に迎え、良好な関係を築いていたであろう長政は、なぜ背後から織田軍を襲ったのか?
諸説あるなか、その原因を考察する。
そもそも浅井氏とは?
戦国時代の近江は、北を京極氏、南を六角氏というふたつの名族が勢力をもち、浅井氏も彼らに従う国人領主のひとつにすぎなかった。
だが、長政の祖父にあたる亮政(すけまさ)の時代に頭角を現した浅井氏は、このふたつの名族の間にあって生き残りと勢力拡大への道を模索していた。
長政の父である久政の代には、それまで主君であった京極氏から六角氏に従属先を乗り換え、北近江の実質的な支配者としての地位を確立する。
そして久政の子である賢政(かたまさ)の代に、浅井氏は六角氏からの独立を決意し、尾張の織田信長と同盟を結ぶ。
この同盟がいつ頃の時期であったかは定かではないが、ここでは、信長が今川義元を破り、尾張統一と美濃への侵攻を視野に入れ始めた永禄四(1561)年ごろであると仮定したい。
賢政は信長の妹であるお市を正室に迎え、名を『長政』と改めた。長政の『長』の字は、信長から一字を拝領したと考えられている。
この頃、信長の宿敵であった美濃の斎藤氏は、六角氏と同盟を結んでいた。
敵の敵を味方とするよくある外交政策であったが、信長にとっても長政にとっても、最初はお互いに利益のある同盟だったのである。
織田信長との関係
こうして浅井氏と同盟を結んだ信長は、永禄10(1567)年に美濃国を支配下に置き、翌11(1568)年に足利義昭を奉じて上洛する。
この頃から、永禄13(1570)年4月に長政が信長を裏切るまで、両家の関係がどのようなものであったのかはよくわからない。公家である山科言継の日記で、京都の周辺でともに軍事活動や、足利義昭の御所の造営を行っていたらしいことがうかがえる程度である。
少なくとも、誰の目にも明らかなほどに織田・浅井両家の関係が悪化していた、という事実は確認できない。
おそらく信長は、長政が自分を裏切るなど夢にも思わなかったのではないだろうか。
突然の裏切り
永禄13(1570)年4月、信長は3万の軍勢を率いて若狭に出陣するため、京都から近江坂本へ下った。
若狭の守護・武田氏の重臣である武藤友益を降伏させた信長は、その背後に朝倉義景の介入があるとして越前に侵攻する。
手始めに敦賀郡のふたつの城を陥落させた信長であったが、そこに突如として『浅井長政裏切り』の一報が飛び込んできた。
『信長記』によれば、信長は身内である長政が裏切ったことをなかなか信じようとしなかったが、これが事実であるという報告が集まると、わずかな供回りだけで京都へ逃げ帰ったようである。
ここに織田・浅井同盟は破綻し、以後両家は天正元(1573)年に浅井家が滅亡するまで争い続けることになる。
諸説ある裏切りの原因
長政がなぜ信長を裏切ったのか、理由は定かではない。
だが、要因として挙げられる主な説は、以下の4つである。
①浅井家と朝倉家が父祖の代から同盟関係にあったこと
②朝倉家の次は浅井家が討伐されるのではないか、と疑心暗鬼になったこと
③信長との同盟が対等のものから主従関係へと変化しつつあったこと
④信長の排除に向けた足利義昭の策謀にのせられたこと
筆者はこのうち、③の同盟関係の変化を主な原因として採用したい。
永禄13(1570)年7月に信長が毛利元就に送った書状によると「彼ら(浅井家)は近年とくに家来として従っており、深い関係にあって疎遠ではありませんでした」とあり、別の箇所では「長政は元来小身であって成敗するのは難しくない」とも書かれている。
また『信長記』には「浅井家は歴然たる縁者であり、北近江の支配を任せてあるので不満などないはずだ。これは虚説であろうとおぼしめした」と、長政の離反を知った信長の心境が書かれている。
このふたつの記述からは、よくいえば長政を信頼していた、悪くいえば身内であることを理由に長政に甘えて雑に扱っていた信長の姿がうかがえる。
そして元就宛の書状に『家来』という表現を用いているとおり、はじめは対等であった織田家と浅井家の関係が、上洛後は微妙に上下関係を伴うものへと変化しつつあったのではないか。
浅井家中には、その不満が徐々に蓄積しつつあったのではないだろうか。
有名無実な同盟
最初にふれた通り、浅井家はもともと国人領主から身を起こした、独立志向の強い家風であるといえる。信長と同盟を結んだのも、六角氏に対抗して独立を保ち、北近江の支配をより強固にすることが狙いであっただろう。
だが、信長の上洛以後はその関係が変化し、信長に『家来』呼ばわりされるまでに不均衡なものとなった。また、信長が若狭や越前を攻めたことも浅井家にとっては脅威であっただろう。
近江の北部に位置するこの2カ国が平定されてしまえば、浅井家は織田家の領土にまるまる取り囲まれるかたちになるからである。そうなれば、浅井家が勢力を伸ばす余地はなくなってしまう。
このままでは、いずれ浅井家は本当に織田家の家臣にされてしまうのではないか。ならば、朝倉家に呼応して信長をはさみうちにできる、この千載一遇の好機に乗るしかない。成功すれば、浅井家はまた独立勢力として息を吹き返すことができる……、と長政は考えたのではないだろうか。
破綻は必然だった?
この筆者の推測が正しかったとすれば、この長政の不安は的中していたといえる。
もうひとつの織田家の同盟相手である徳川家が、天正3(1575)年の長篠の戦い以降、実質的に織田家の従属勢力と化してしまうからである。そして徳川家は、天正10(1582)年に信長が本能寺の変で死ぬまで、織田家の風下に立ち続けることとなった。
信長を討つことではじめて自分たちの自立が保たれる、と考えた長政は正しかった。本来の目的を果たせない同盟が破綻するのは、必然であったのだろう。
参考資料 :
太田牛一著『信長公記』
金子拓著『織田信長 不器用すぎた天下人』河出書房新社 2017年刊
天野忠幸編『戦国武将列伝 畿内編 下』戎光祥出版 2023年刊
小和田哲男著『浅井長政のすべて』新人物往来社 2008年刊
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部