母娘の対照的な歌手人生!48歳で死んだホイットニーと91歳まで生きたシシィ・ヒューストン
リ・リ・リリッスン・エイティーズ〜80年代を聴き返す〜Vol.57
Whitney Houston / Whitney Houston
母シシィ・ヒューストンの大往生
シシィ・ヒューストンが2024年10月7日に亡くなりました。1933年9月30日生まれなので享年91です。ホイットニー・ヒューストンのお母さんということで有名ですが、本人もゴスペルを基調とした実力あるシンガーでした。またシシィの妹リーの娘、つまりホイットニーの従姉妹に、ディオンヌ・ワーウィックとディー・ディー・ワーウィック、そしてオペラ歌手のレオンティン・プライスという人もいます。
シシィとリーは、 旧姓がドリンカードなので、ザ・ドリンカード・シンガーズ(The Drinkard Singers)というゴスペルグループをつくり、ホイットニーが生まれる直前の1963年には、ディオンヌやディー・ディーがいたスウィート・インスピレーションズ (The Sweet Inspirations) というコーラスグループのメンバーとなり、アレサ・フランクリンやウィルソン・ピケット、ヴァン・モリソンやエルヴィス・プレスリーなど、様々なアーティストのレコードやライブでバッキングボーカルをつとめました。
2022年の暮れに公開された映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』では、少女時代のホイットニーに、シシィが厳しく歌をレッスンするシーンがありましたが、このような濃密な音楽環境では、どう転んでも歌手になるしかないですよね。
ソロシンガーとしてのシシィは、取り立てて言うほどの実績は上げていませんが、グラディス・ナイト&ザ・ピップスが歌って大ヒットした「夜汽車よ!ジョージアへ」(Midnight Train to Georgia)は、シシィがオリジナルでした(リリースは同じ1973年)。そして1978年にリリースしたディスコチューン「シンク・イット・オーヴァー」(Think It Over)はダンスチャートで5位、R&Bチャートで32位に上りました。
余談ですが、今回シシィのことを調べていて、「シンク・イット・オーヴァー」という曲名を見てハッとしました。このシングルレコードを持っている! …探したら、やはりありました。シシィと何の関係もない適当なジャケットのシングル。ギラギラでチャラチャラなディスコチューンのこのシシィ・ヒューストンが、ゴスペル出身で重厚なテイストのあのシシィ・ヒューストンと、僕の中ではまったく結びついてなかった…。
ホイットニー・ヒューストン、デビュー
ホイットニー・ヒューストンは1963年8月9日生まれ。当然のように歌の道に進み、10代半ばからは母シシィのショーでバッキングボーカルを務めるようになり、ルー・ロウルズやチャカ・カーンのバックにも立ちました。シシィのステージでは時にメインで歌うこともあり、やがて、レコード会社から声がかかり始めましたが、母は “高校を卒業するまでは” と、すべてシャットダウンしました。
1983年、ニューヨークの『スウィートウォーターズ』(Sweetwaters)というジャズクラブで歌う19歳のホイットニーを観て、その歌声に惚れ込んだのがアリスタ・レコードの社長、クライヴ・デイヴィスでした。即決で契約をオファー、母もこの時は二つ返事でした。
クライヴは経営者でありながら、自ら音楽制作の具体的な内容にまで関わらずにはおれないプロデューサーでした。とは言え、法務担当の弁護士としてコロムビア・レコードに入社したのが音楽業界に入ったきっかけという人ですから、作曲や編曲ができるわけではありません。ただ、世の中の動向を読み、ヒットする曲を嗅ぎ分ける嗅覚は人一倍優れていました。自分(たち)で曲をつくるアーティストでも、ヒットの匂いがしなければ、“もっとこういう曲を!” と要求したし、カバーをさせたり、外部のソングライターから曲を調達したりで、なんとしてもヒット曲をつくることにこだわりました。
バリー・マニロウなどはその典型で、詞曲も書くしアレンジもできる人でしたが、ヒットシングルはほとんど人の作品で、クライヴが調達したものでした。言うまでもなく、曲をつくれる人は自作で勝負したいものです。売れて人気が出てくれば、次も売れる可能性は高いですから、より自作でいきたいでしょう。印税も入りますからね。だけどクライヴはそうさせなかった。そして彼がいいと言う曲が見事に売れてしまうので、マニロウも強くは出れないんだけど、やはり自分で書きたい。話し合いの結果、1アルバムにつき2曲はクライヴに任せる、ということに落ち着いたそうです。
その点、ホイットニーは曲は書けないし、書きたいとも思ってなかったので、クライヴとしては “腕の見せ所” とはりきったことでしょう。契約が決まるとすぐにデビューアルバムの制作に着手しましたが、完成までになんと2年もかかりました。その殆どは曲集めです。まずはベストな作家たちにベストな曲を提供してもらうべく、ニューヨークとロサンゼルスでプレゼンテーション用のショーケースを行うことから始めるという力の入れようでした。そして、集めた何百曲という曲を聴いて吟味する日々。“ホントに疲れたけどその価値がある時間だった” とクライヴ本人が自伝で語っています。
1985年2月14日、バレンタインデーに、ホイットニー・ヒューストンのデビューアルバム『そよ風の贈りもの』(Whitney Houston)がリリースされました。収録された10曲は、いずれも “王道ポップス” と言うか、黒人 ≒ ソウル / R&Bという概念には全くとらわれない、白人も好むような曲調ばかりで、ジャーメイン・ジャクソンやテディ・ペンダーグラスとのデュエットというオマケもつけて、てんこ盛りのゴージャスアルバムといった感じでした。
私個人的には、オーソドックス過ぎて、新奇性が足りないと感じます。唯一「すべてをあなたに」(Saving All My Love for You)だけは、新奇性もへったくれもないくらいの名曲だとは思いますが。ただ、とにかく、歌唱が抜群にいい。声の伸びやかさと力強さ、完璧な歌唱テクニック。母のシシィもいとこのディオンヌも充分にうまいシンガーたちですが、ホイットニーの歌には、うまさに加えて華やかさがあって、それが広く大衆の心を捉えたんだと思います。
いきなりの大成功がもたらしたもの
さすがに新人ですから、すぐにとはいかず、アルバムがチャートを制するまでには1年以上(55週間)を要しましたが、その歌唱が名曲「すべてをあなたに」に乗って、アルバムからの第4弾シングルとしてカットされると、初の全米シングルチャート1位を達成。それで勢いが生まれて、アルバムの順位をせり上げるとともに、その後、セカンドアルバム『ホイットニーⅡ〜 すてきなSomebody』(Whitney)にまでまたがって、7枚のシングルが連続で全米1位になるという、前人未到かついまだ破られない記録を達成しました。
ホイットニーばかりか数々の実績を持つクライヴさえも、この予想を遥かに上回る大成功には、夢を見ているような気持ちだったそうです。そりゃそうでしょうね。夢でいいから一度くらい見てみたいものです。そして、成功はそこに留まりません。ご存知のように1992年には主演女優を務めた映画『ボディガード』が大ヒット。主題歌「オールウェイズ・ラヴ・ユー」(I Will Always Love You)を含むサウンドトラックアルバムは、4,500万枚以上を売り上げる特大ヒットとなりました。
だけど、巨大な成功がそれに見合う幸福をもたらしてくれるかというと、切ないかな、そうはいかないのが人生です。 そもそも、成功していいことって何でしょう。やりたいことが自由にできる収入やファンからの熱い声援? でもそれって物欲や承認欲求の一時的な充足に過ぎないのでは? それよりも、無責任かつ大き過ぎる期待を寄せられ、羨望の眼差しを浴び、わけもない妬みや嫉みに囲まれ、一歩外へ出たら常に見られ、束の間気を許すこともできないような生活、とマイナス面は枚挙にいとまがない。
“有名税” などと言いますが、売れたくて売れなくて苦節〇〇年とか、音楽的理想を実現するのが目的などというならまだしも、音楽が好きで歌うのが好きなだけの、20歳を越えたばかりの女子には、負担が大き過ぎます。しばしの夢見心地のあとは、耐えきれないような精神的苦痛が、ホイットニーをさいなみました。
その苦痛から逃れるために彼女が頼ったのはドラッグでした。もちろんそれは一瞬苦痛を忘れさせてくれるだけで、着実に心身を蝕んでいきます。『ボディガード』公開の1992年に結婚したボビー・ブラウンも、まあしょうもない男だったようで、ホイットニーの心を癒やしてくれるような存在ではありませんでした。
アーティストの私生活には干渉しない主義のクライヴも、2000年、ついに言動や歌のパフォーマンスにもドラッグの悪影響が顕になってきたホイットニーに、薬物療養の施設(rehab)に入ることを強く勧めましたが、彼女は “I’m OK” と拒否しました。
母娘の対照的な歌手人生
結局、2012年2月に、48歳の若さで亡くなったホイットニー。1992年、誰よりも高い山の頂上まで登りつめた彼女は、それから20年間かけて、深い谷底に転がり落ちていきました。レコードの中ではいつまでも輝いているホイットニーの歌声を聴くたびに、彼女の人生って何だったんだろう、なんで彼女は死ななきゃならなかったんだろう、と色々考えさせられてしまいます。
母のシシィも、ホイットニーの壮絶な人生に関しては、気苦労も多かったと思いますが、彼女の死後も、少しずつ音楽活動は続けて、近年では、2018年にリリースされたエルヴィス・プレスリーのコンピレーションアルバム『Where No One Stands Alone』で、バッキングボーカルを新規に録音したりもしています。晩年はアルツハイマー病で療養していたようですが、娘とは違って長寿を全うし、自宅でおだやかな死を迎えたとのことです。