3月は忠臣蔵一色! 仁左衛門と愛之助の由良之助が率いる四十七士、歌舞伎座通し狂言『仮名手本忠臣蔵』Aプロ観劇レポート
2025年3月4日(火)歌舞伎座、松竹創業百三十周年『三月大歌舞伎』にて、通し狂言『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら。以下、忠臣蔵)』が開幕した。『忠臣蔵』は、全十一段の長い物語だ。人気の場面だけを切り取って上演する機会は多いが、今月の歌舞伎座は、昼夜二部制で、事の始まりから討ち入りまでを上演する。主要な役は、AプロとBプロのダブルキャスト制。初日の、昼の部と夜の部(ともにAプロ)を、あらすじの紹介とともにレポートする。
『仮名手本忠臣蔵』とは?
元禄14年3月に、江戸城で起きた実在の事件を題材に創作された物語。赤穂(あこう)藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、高家(こうけ。幕府の儀式・典礼を司り、礼儀や作法を指導する)の旗本・吉良上野介(きら こうずけのすけ)に斬りかかった。浅野内匠頭は即日切腹、浅野家はお家断絶に。一方で、上野介はお咎めなしとなった。この公平とはいえないお裁きを不服とし、浅野家の家臣たちが水面下で立ち上がり、翌年12月14日、吉良邸へ乗り込み上野介を討つ。この一連の仇討ち事件が、元禄赤穂事件と呼ばれている。この事件の47年後に『忠臣蔵』は、人形浄瑠璃として初演され、すぐに歌舞伎のレパートリーに。物語の設定は『太平記』になぞらえ、浅野内匠頭は「塩冶判官(えんやはんがん)」、吉良上野介は「高師直(こうのもろのう)」など名前を変えている。
昼の部(11時開演)
初日の東京都心は、「午後から雨または雪」の予報。普段なら歓迎される予報ではないが、1階の大間では、関係者らしいスーツの大人同士が「夜、雪が降ったらアガりますね」と声を弾ませていた。お土産処には、いつも見かける数倍の数の切腹最中(抹茶ver.も!)や関連商品が並び、2階では衣裳の展示も。『忠臣蔵』しか上演されない今月の歌舞伎座は、昼も夜も観客全員が『忠臣蔵』を観にきている。ただそれだけのことだが、勝手ながら連帯感を覚えワクワクした。
■大序 鶴ヶ岡社頭兜改めの場
一段目にあたる「大序」は、開演10分前には落ち着いて席にいたい。午前10時50分、大きな舞台の定式幕の前に口上人形が登場する。原作の人形浄瑠璃だったことに由来する演出だ。どこかファニーな顔立ちの人形が、仰々しく配役を読み上げはじめ、出演者の名前があがるたびに拍手が起きた。中でも片岡仁左衛門の名には、ひと際大きな拍手が続いた。
場内の期待が高まったところで、定式幕がじりじりと開き始める。舞台上の俳優が、全員うつむき動かないのは、人形浄瑠璃へのリスペクトが込められた昔からの演出だ。人形が、人形遣いにより魂が入り人になる瞬間が、歌舞伎俳優たちの芸と肉体で表現される。重厚な義太夫の語りで、足利義直の名が出ると、中村扇雀が顔を上げ袖を広げた。わずかな動きから、位の高さが伝わってくる。続いて高師直(尾上松緑)。顔を上げ動き始めた時の気配は、重い歯車が動き出すかのようだった。桃井若狭之助は尾上松也。浅黄色の衣裳を纏い、すっと顔を上げ目を開く動作だけでも若々しく、きっぱりとした人となり。穏やかに目を開けたのが、たまご色の衣裳の塩冶判官だった。中村勘九郎が勤める。
舞台は、銀杏の葉が色づく鶴岡八幡宮。新田義貞の兜を奉納しようという場面だ。そこに美しい彩りを添えるのが判官の妻・顔世御前(片岡孝太郎)だ。顔世は、47つもある“義貞のものかもしれない”の兜の中から、蘭奢待(らんじゃたい)の香りを手がかりに本物を見極める。古風な美しさと香るような色気の顔世に、師直が横恋慕する。師直の一方的な好意は拗れてセクハラになり、思い通りにいかないと分かるや執拗なパワハラがはじまり……。若狭之助の登場で、顔世はその場を切り抜けるが、兜改めを巡っても意見が対立していた若狭之助と師直の間には、緊張感が走る。幕切れでは、判官が若狭之助を押しとどめた。曽我兄弟の仇討ちを描く『曽我対面』を思わせる形は、先の波乱を予感させた。
■三段目
今回上演のない「二段目」では、若狭之助が家老の加古川本蔵に「明日絶対に高師直を斬る!」と怒りを露わにする。
足利館 門前進物の場
若狭之助が間違いを犯さないよう奔走する加古川本蔵(嵐橘三郎)。夜明け前、本蔵が駆けつけた先は足利館。高師直に、本蔵は"主人・若狭之助をよろしくご指導ください”の意味を込めた進物を差し出し、家臣の鷺坂伴内(片岡松之助)にも袖の下を渡す。伴内と中間たちの熱心な“お稽古”では、「右足を出したら」を合図にした、息の合った間抜けなやり取り、体幹を駆使したユーモアで、緊張をほぐした。舞台が廻って、足利館の松の間。運命の日を迎える。
足利館 松の間刃傷の場
本蔵の陰の働きを知らない若狭之助は、昨日からの怒りに満ちていた。しかし師直が、這いつくばって詫びて事なきを得る。師直の不機嫌がマックスなところに、判官が到着。師直の標的となってしまう。
判官は、実直で穏やかで家臣たちに慕われていたに違いない。理不尽な罵倒に初めは戸惑い、驚き、冷静に対処するも……。判官の心の動きは、言われ放題の間さえ、静かな水面に広がる波紋のように顔、声、呼吸から途切れることなくあらわれていた。師直は人間味のある人物ではある。しかし大序から着々と、人としての不快指数を上げ続けてきた。だからこそ判官が刀を抜いた時、止めるよりも応援する気持ちが働いた。この事件は、判官の乱心ではなく、判官に降りかかった悲劇なのだと受け止められた。
師直が致命傷を負わずに済んだのは、本蔵が判官を後ろから抱き止めたからだった。この皮肉は本蔵の後悔となり、今回は上演されない「九段目」へ繋がる。『忠臣蔵』は、いくつもの「良かれと思って」が思いがけないドラマを紡いでいく。物語は、35分の幕間を挟み「四段目」へ続く。
2階ロビーに展示中の衣裳のひとつは、松の間の判官の衣裳だった。たった今観た、大勢に囲まれて振り上げた刀をどうにもできなかった判官の、怒りと無念の顔がフラッシュバックした。悔しい思いをそのままに席へ戻る。
■四段目
「四段目」は、屈指の緊迫した場面となることから、古くから「通さん場」と呼ばれ、上演中の入退場がないようアナウンスがある。上演中も食事の提供があった古い時代にも、「四段目」ではそのサービスが控えられていたのだそう。舞台への敬意から生まれた不文律が、この幕を観るのに不可欠な特上の空気を作り上げる。
扇ヶ谷 塩冶判官切腹の場
扇ヶ谷 表門城明渡しの場
判官の上屋敷に、上使の石堂右馬之丞(中村梅玉)、薬師寺次郎左衛門(坂東彦三郎)が到着し、切腹が命じられる。舞台上では、切腹の支度が粛々と進む。息をするのも重苦しいほどの張り詰めた空気。判官の心残りは、師直を討てぬまま命を絶つこと。後を託したい家臣の大星由良之助(片岡仁左衛門)は、まだ来ない。
静寂の中、九寸五分の短刀を懐紙で包むかすかな音が響く。大星力弥(中村莟玉)は、懸命に悲しみをこらえ、声が涙にぬれていた。誰よりも落ち着いていたのは、判官だったのかもしれない。凄まじい緊張が最高潮に達し、ついに判官が腹に刀を突き立てた時、由良之助が揚幕より駆け込んできた。義太夫、三味線、舞台も客席も一斉に心が前のめりになり、襖が開き家臣たちも雪崩れ込んできた。鳥肌が立つと同時に体が熱くなり涙が溢れた。
息も絶え絶えの判官から、九寸五分は形見に、と聞かされた時、由良之助の中で何かが動いたようだった。この一大事に無我夢中で、由良之助は敵討ちにまで思いが至っていなかったのではないだろうか。判官の無念を受け止め、敵討ちを決めた今この瞬間から、由良之助は忠臣の物語の主人公となる。
正座のまま突っ伏して、こと切れた判官。その裃を、袴を、由良之助は静かに手厚く整えた。冷たくなっていく判官の手を、今一度温めるように一本一本の指を開き、形見の短刀を受け取る。目を背けたくなるほど悲しいのに、仁左衛門の一挙手一投足があまりにも美しくて、目を離すことができなかった。由良之助は、「城明け渡しの場」では、花道までいっぱいに詰めかけた家臣たちを前に毅然とした態度、リーダーとしての大きさ、聡明さをみせた。その後たった一人、静かに「家」の終わりと向き合う寂しい姿は、深い余韻を残した。大喝采のうちに幕となった。
■浄瑠璃 道行旅路の花聟
昼の部の結びは、『落人』の通称で知られる舞踊劇。塩冶家の家臣だった早野勘平(中村隼人)と、顔世御前に仕えていた腰元おかる(中村七之助)は恋仲だ。こっそり逢っていた時に事件が起き、勘平は御家の一大事に立ち会えなかった。命を絶って詫びる覚悟でいる。
深刻な状況だが、空は晴れ、菜の花畑は美しく広がり、桜も満開。清元節の演奏が、ふたりの踊りを艶と情感で彩る。竹本の義太夫で積み上げられてきた重厚な物語に、ひと時の休息を作る。何より、おかるがいじらしく、どこか嬉しそう。おかるは、なんとか勘平の切腹を止めようと、大小の刀を取り上げ抱き込んだり……。仲睦まじい痴話げんかを見るように、ニコニコとした気持ちになった。さらにコミカルな敵役の鷺坂伴内(坂東巳之助)が、手下たちと登場。勘平が、肌を脱いで真っ赤な着付で応戦。心躍る展開に。幕切れは、花四天と共に巳之助の伴内が鮮やかにトンボを返り、ワッと沸き立つ客席。明るい盛り上がりの中、昼の部の幕が引かれた。
勘平とおかるは、ひとまずおかるの実家へ身を寄せることに。夜の部「五段目」へ続く。
≫夜の部(16時30分開演)
夜の部(16時30分開演)
『三月大歌舞伎』夜の部は、16時30分開演。『仮名手本忠臣蔵』「五・六段目」は、昼の部『落人』に登場した、元・塩冶家の侍、早野勘平が主人公として再登場する。勘平に尾上菊之助、女房おかるに中村時蔵という配役。
■五段目
山崎街道鉄砲渡しの場
同 二つ玉の場
幕が開くと、夜の山崎街道。蓑を着た男が、笠をかざして雨をしのいでいる。隠れていた顔をみせれば、月明かりのような美しさの色男、勘平だ。拍手とともに夜の部が始まった。
勘平は、今は女房となったおかるの生家に身を寄せ、猟師に身をやつしている。この日、偶然かつて共に塩冶家に仕えていた千崎弥五郎(中村萬太郎)と会い、仇討ちに加わるチャンスを得る。後日会う約束をして、2人は別れた。同じ夜、山崎街道を通り家路を急ぐ百姓がいた。しかし不幸にも、盗人に懐の大金と命までもが奪われてしまう。この百姓が、実はおかるの父・与市兵衛(中村吉三郎)だった。大金は、聟の勘平が侍に戻れるように、おかるが祇園の一文字屋に身を売ることで、工面したものだった。それを平然と奪った斧定九郎(尾上右近)は、ぞっとするような冷たく濡れた色気を放っていた。その時、花道を猪突猛進してきたのは……! さらに鉄砲の音! 続いて鉄砲をもった勘平が登場!
テンポよく展開する要素は、六段目への伏線となるので見逃せない。暗闇の中で、人を撃ってしまったこと、さらに定九郎の懐に大金があることに気づいた勘平は、迷いつつも金を奪いその場を去る。勘平の花道の引っ込みは、歌舞伎らしい踊るような、流れるような足取り。忠義を尽くせる喜びと、人を殺めた無意識の動揺が溢れているかのようだった。
■六段目
与市兵衛内勘平腹切の場
翌日、勘平は意気揚々と帰宅する。観客からすれば「あんな出来事の後なのに?」とも思えるが、武士としての名誉挽回の希望に満ちていた。いつ千崎が来てもいいように、紋付に着替える姿は、後になって振り返れば幸せそうで、健気でさえあった。
家には、女房おかると母おかや(上村吉弥)、そしておかるを引き取りにきた一文字屋お才(中村萬壽)と判人源六(市村橘太郎)がいる。五十両を受け取った与市兵衛が帰ってこないことを、皆で心配していた。勘平の懐には、血のついた縞の財布。勘平にはお金が必要。勘平は鉄砲を撃った。おかるは連れていかれてしまう。与市兵衛の亡骸が届く。おかやは勘平を責め立てる。そこへ千崎と不破数右衛門(中村歌六)がやってくる。とんでもない情報量の中、大小さまざまな歯車が悪い方へ、悪い方へ噛み合って……。
あらすじだけを読むと「早とちり過ぎる!」とツッコミたくなる。しかし観客として、昼の部で「四段目」の事件の一部始終を見届けた。観劇というより目撃に近い体験をしたことで、“あの場”に立ちあえなかった勘平の悔恨に、ぐっと寄り添う気持ちになる。背中でおかやの声を受け、侍としての道も絶たれ、追い詰められて思考が狭まっていく様が、生々しいほどリアルだった。そんな勘平が、疑いが晴れたと知った時は、命が尽きかけた中でも喜びに輝いていた。あまりにも哀れなハッピーエンドに、同じ切腹でも「四段目」とは質の違う余韻が続いた。
■七段目
祇園一力茶屋の場
舞台は、武家屋敷でもお百姓の家でもない。華やかな遊郭、祇園の一力茶屋だ。仲居や幇間たちに囲まれ、お座敷遊びの手拍子に導かれ、目隠しをした由良之助が登場すると、大きな拍手が起きた。目隠しを外したところで、さらに大きな拍手で盛り上がった。夜の部の大星由良之助は、片岡愛之助。
由良之助は、放蕩三昧の日々を送っている。赤穂浪士の赤垣源蔵(中村松江)、富森助右衛門(市川男女蔵)、矢間重太郎(中村亀鶴)たちは、その本心をたしかめにくるが、失望を隠せない様子で帰っていく。由良之助が一人になったところへ、息子の大星力弥(尾上左近)が密書を届ける。花道の木戸口で由良之助が素に戻ると、その大きさ、重さに驚かされた。命がけで届けられた密書が、この後二階から遊女に、床下からスパイに、同時に2人から盗み読みされる。とんでもない(お芝居としては面白すぎる)状況だが、それでも物語が成り立つのは、由良之助の立派さあるからこそにちがいない。
遊女はおかる。六段目で勘平のために身を売った女房だ。実家では、ふとした仕草の折り目の正しさに、腰元の品を感じさせた。二階に姿を見せた時は、すっかり遊女。酔い覚ましに風にあたれば、お酒のいい匂いがしてきそうな色気があった。それでいて兄の寺岡平右衛門(坂東巳之助)と再会すれば、親しみやすくて一生懸命なおかるに戻る。
平右衛門は、足軽という身分ながら討ち入りに加わりたい。由良之助の本心を信じている。明るくきっぱりとマインドが、声にも態度にも表れる。平右衛門が刀を抜き、おかるの懐紙が舞い、木戸口まで逃げおおせるシーンでは、ふたりの身体と音楽とツケの一体感が、物語の急展開にマッチして、歌舞伎ならではの高揚感を覚えた。抜き身の刀を片手に繰り広げられる兄妹の喧嘩は、可笑しみを交えながらも次第にシリアスな話題へ。妹を可愛がる気持ちも、忠義の心も、これだけストレートだと絡まったり混じったり澱むこともない。どちらもが真っすぐ矛盾なく成立し、それがおかるにも届いていることに涙がこぼれた。平右衛門は、十一段目の晴れやかな表情も印象的だった。
ふたたび現れる由良之助の格好良さ。おかるが手を添え、思いがけずここでも敵討ちが果たされる。痛快な幕切れに、熱い拍手。幕間をはさんで、いよいよ討ち入りへ。
■十一段目
高家表門討入りの場
同 奥庭泉水の場
同 炭部屋本懐の場
どんどん降り続ける雪を表す太鼓の音と、山鹿流陣太鼓のリズムにつられるように、心拍数が上がっていく。塩冶浪人の原郷右衛門(中村錦之助)や、赤垣源蔵、富森助右衛門、矢間重太郎をはじめ、あの場面、この場面で見知った浪士たちが集まり、大序からの物語を思い出す。それだけで、早くも込み上げてくるものがあった。討ち入りが始まると、緩急に富んだ立廻りが展開。高家の用心棒、小林平八郎(尾上松緑)が別格のオーラで立ちはだかり、竹森喜多八(坂東亀蔵)が挑む。由良之助がついに師直を討ちとると、歓喜や高揚感よりも、真っ白に浄化されるような、まさにカタルシスという心持ちに。浪士たちの強い表情に姿にぐっとくるものがあった。同時に仇討ちは何かを獲得するためではなく、マイナスをゼロに戻すものなのだと改めて感じた。
物語は、四十七士が揃う「引揚げの場」で結ばれる。馬に乗った服部逸郎(尾上菊五郎)の声が響き渡ると心は晴れ、場内は喝采に沸き、光明寺へ向かい歩き出す浪士たちに、万雷の拍手と大向こうが響き続けた。幅広い世代が魅力を発揮する、歌舞伎座の通し狂言『仮名手本忠臣蔵』。『忠臣蔵』が、歌舞伎が、もっと好きになるに違いない。すでに完売の日も多いが、都合が許す方には1日での通しをおすすめしたい。3月27日(木)千穐楽まで。
取材・文=塚田史香