謎に包まれた「和歌所」が明かす、中世日本の政治と文学とは?
和歌文学を専門とする小川剛生さんによるNHKブックス『「和歌所」の鎌倉時代 勅撰集はいかに編纂され、なぜ続いたか』が好評発売中です。勅撰和歌集の成立に深く関わるとされながらも全容の明らかになっていない「和歌所」という場に注目し、鎌倉時代以降の勅撰和歌集がいかに成立し、受容されたかを丹念に解き明かします。和歌が厳然たる権威を持つようになった鎌倉時代、「和歌所」に注目することで見えてくる、政治と文学の関りとは?
刊行を記念し、「はじめに」を特別公開します。
(NHK出版公式note「本がひらく」より、本記事用に一部を編集して転載。)
はじめに
勅撰和歌集とは天皇の命を受けて編纂された歌集のことである。延喜五年(九〇五) 醍醐天皇の古今和歌集に始まり、後花園天皇の新続(しんしょく)古今和歌集まで、二十一集が成立している。その期間は五百年間にも亘る。また「和歌所」は撰和歌所(せんわかどころ)の略、平安時代中期、村上天皇の代、内裏昭陽舎(梨壺)に初めて設置された。勅撰和歌集の編纂は公的な事業であるから、内裏に和歌所が置かれたことは当然のように思える。
ところが平安時代の勅撰和歌集にはそこまでの権威はなかった。和歌所もまた常設の機関ではなく、かつ必ずしも内裏には置かれなかった。後鳥羽上皇が新古今和歌集のために設置したのは仙洞(院御所)であり、それも一集限りのことであった。
勅撰和歌集の権威が確立するのはむしろ鎌倉時代である。百五十年間に九つの集が成立している。後鳥羽上皇から後醍醐天皇まで七人が命を下しているが、下命者は必ず治天の君(天皇家の惣領、院政を敷く上皇か親政時の天皇)であり、編纂はいわば政治日程の上に位置づけられた。そして撰者(編者)の私邸を「和歌所」と称するようになる。撰者は時の歌壇の第一人者である歌人が指名されるが、この時代には御子左家(みこひだりけ)(藤原長家の子孫で、俊成・定家・為家を出した家系)に独占される。とくに嫡流の二条家が「和歌所」そのものとなるのであった。
勅撰和歌集がこの和歌所で、いかなる手続きを経て、編纂されたものか、書物としての性格を考えつつ、新しい知見を述べてみたいと思う。
このような事柄は意外なほどに分かっていない。勅撰和歌集は、単に秀歌を集めて並べた書物ではなく、四季・恋・雑と、当時の感性と世界観を反映する巻々を立て、主題別に分類した和歌を整然と収める、有機的に統一された編纂物である。「撰」とは、「選」と同義であるが、自分の好むところを集めて何かを主張する、という義がより重要である。碑文のごとき文飾を凝らした文章を記すのに「撰ぶ(撰す)」と言うのも、古典の一節を羅列し、もって自分の意を述べることを含意する。「撰ぶ」ことは「詠む」「作る」ことと同義であったとしてさしつかえない。
しかも、歌集は各主題の内側でも、自然と時間や視点が推移するように、長大な絵巻物を眺めるような、霊妙で、神経の行き届いた配列の工夫がある。これを完成させるには、すべてが紙と筆の時代、たいへんな労苦が払われたはずである。
古い時代では、広く資料を集め、よいと思う歌を選んで、分類して並べたのだろう、と誰でも思いつきそうな推測ができるだけであるが、中世以後は「和歌所」について史料が充実して来るから、いくつかの歌集では、その過程を復元することができる。
ただし、アンソロジーは収録作品を味読するものである。それがどのように作られたかを一般書の形式で敢えて書こうとするのには理由がある。
勅撰和歌集のうち、古今集・後撰集・拾遺集の「三代集」が正典である。また古今集から新古今集までの八つの集も「八代集」として尊称される。本歌取りされるのも八代集までである。いっぽう次の新勅撰集から最後の新続古今集までは「十三代集」として一括されるが、総じて評価は低い。
十三代集の和歌は、総計およそ二万四千二百首にもなる。八代集が約九千四百首だから、玉石混淆、それも石の方が多くなることは容易に察せられる。いかに繊細な配列があるといっても、いざ繙(ひもと)いてみれば、ともかく似たような個性のない和歌が蜿蜒(えんえん)と並ぶように見える。撰者の名も集名も似たようなものばかりで印象に乏しい。そもそも、時代になじみがない。和歌は作者の名前が公式に明らかにされる、数少ない古典文学である。作品と作者はいくら別であるといっても、十三代集の歌人は知名度がないから、その和歌に親しみを持てといっても難しい。無名の作者の優れた作品も交じっているのだが、それを見出すほどに現代人は時間もないし忍耐強くもない。気負って手に取ったところで、どうしようもない退屈を感じて、投げ出してしまう。とくに実作者の立場からは、十三代集に殺意を覚えた人も少なくないらしい。正岡子規は古今集を全否定し、返す刀で「何代集の彼ン代集のと申しても皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候」(「再び歌よみに与ふる書」『新聞 日本』一八九八年)と切って捨て、折口信夫( 釈迢空)は「彼(注・藤原為家)の死後分裂した二条・冷泉・京極の三流の中、前二者の流派から出たすべての勅撰集及び、多くの家集は、今日までの私の鑑賞法からは、寧、劫火の降つて整理してくれることを望んでゐる」(「短歌本質成立の時代」『古代研究』第二部・国文学篇〈大岡山書店、一九二九年〉)という。近年、和歌文学大系(明治書院)で注釈書がようやく刊行されているが、一般に読まれるのはやはり八代集までで、これほどの暴言は浴びせられることはなくとも、十三代集は依然無関心の厚い砂の下に埋もれている。
これは鎌倉後期・南北朝は混迷頽廃した時代であるとの史観、あるいは雅と俗とを対立的にとらえ、「因襲に囚われ低迷する」雅文藝よりも、「革新的で躍動する」俗文藝にこそ価値があるとの認識とも通底しよう。しかし、実際には作歌人口はこの時代を通じて等比級数的に増え、少なくとも破綻のない、整った和歌が大量に詠み出されたのであった。もし本人たちがつまらない、価値がないと感じていたら、決してそうはならないし、ましてその「精華」が十三代集の形で結実することも起こり得ないであろう。
それに、和歌は時代に応じて変化するものではない。この時代の和歌はほぼ題詠であるが、歌材や着想もまた三代集を通じて洗練され、このほかにはない、というところまで選りすぐられている。定められた枠内での美を追究することになるが、そこでは自身の経験を直接反映させない。むしろ不易なるものに忠実に寄り添うことで、他人も初めて感動を共有できる。また現実の社会や生活が汚泥にまみれ転変極まりないからこそ、題詠の伝統に参入することは歌人には大きな喜びであった。そのような和歌の特性を担保し続けたのが勅撰和歌集であった。その編纂の歴史は、六国史より長く続いた。
いっぽう、歌風は変わらないという前提で子細に眺めれば、勅撰和歌集という器は時代の波に洗われている。武家政権の干渉と武士入集の増大は、政治と文学との相克として現れ、分かり易い特色であるが、その軋みをどのように勅撰集の世界が吸収したのかはよく分かっていない。各集ごとにさまざまな問題があり、またその時々の宗教、風俗、社会の諸現象が刻印され、派生する作品もあり、それを知れば飽きることはあまりない。たとえば、鎌倉時代の和歌で直接元寇を詠んだものはほとんどない。歌人の視野狭窄を非難しがちであるが、対外の脅威は確実に内面の変動をもたらし、その影響は長く続く。仏教に主導された神国思想の高揚があり、それは勅撰集の神祗の巻に鮮明に反映されている。
十三代集は、八代集とは異なる力学によって作られている。この時代の勅撰集は、まったく文学史の範疇にとどまらないのは確かで、便宜上新古今集から始めたが、十三代集を取り上げ、かつ「和歌所」に注目する所以である。
外形的な知識は一瞬で得られる現代である。本書ではたくさんの人物や事物が現れては消えていく。その流れをとらえられるように工夫し、勅撰集の歴史と勅撰集から見える歴史を追った。無理に関説して洩れ落ちるところも少なくなかろうが、実験的な試みとして見ていただければ幸いである。
著者プロフィール
小川 剛生 (おがわ・たけお)
1971年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程退学(2000年学位取得)。現在、慶應義塾大学教授。専門は中世文学・和歌文学。著書に『中世和歌史の研究 撰歌と歌人社会』(塙書房)、『武士はなぜ歌を詠むか-鎌倉将軍から戦国大名まで』(KADOKAWA)、『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書)、『二条良基』(吉川弘文館)など多数。