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65歳で新しい仕事を始めるのは遅すぎる、なんてない。 ―司法試験にその年の最年長で合格した吉村哲夫さんのセカンドキャリアにかける思い―

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65歳で新しい仕事を始めるのは遅すぎる、なんてない。 ―司法試験にその年の最年長で合格した吉村哲夫さんのセカンドキャリアにかける思い―

75歳の弁護士吉村哲夫さんは、60歳まで公務員だった。九州大学を卒業して福岡市の職員となり、順調に出世して福岡市東区長にまで上りつめるが、その頃、定年後の人生も気になり始めていた。やがて吉村さんは「定年退職したら、今までとは違う分野で、一生働き続けよう」と考え、弁護士になることを決意する。そして65歳で司法試験に合格。当時、最高齢合格者として話題になった。その経歴は順風満帆にも見えるが、実際はどうだったのか、話を伺った。

高齢化が進む我が国では、毎年大勢の人たちが定年を迎えている。その後の人生をどう生きるかは人それぞれだが、それを考える上で、定年後に全く新しい仕事を始めて今も活躍を続ける吉村さんの生き方は興味深い。なぜ彼はそのような道を選んだのか?何がそれを可能にしたのか?お話を伺うほどに、その透徹した人生観と、それを全うするための様々な戦略や工夫が見えてきた。

新しい世界を知る努力をしないと、自分の世界は広がらない。新しい世界に挑戦していけば行くほど、自分は大きくなっていく。

手足が震え、声も震える緊張症

吉村さんは、小学生時代から勉強はできた。だが1つ問題があった。神経質で極度の緊張症だったのだ。トイレに行って用を足す時、後ろに人が並んで待っていると、気になっておしっこが出なかった。大勢の人の前で話をしようとすると足がガクガク震え出す。声も出ない。やっと出ても震えてかすれていた。「それはもうひどかったですよ。試験の時も鉛筆を持つ手が震えだすし、線香をあげるにも片手だと震えて火がつかないから両手で押さえ込むように持たなきゃいけない。そりゃあ大変でした」。

そんな極度の緊張症は、後々まで吉村さんを苦しめることになる。「法科大学院の試験も司法試験も、いきなりペンで書かなきゃならない。パソコンのように後で順番を入れ替えたり挿入したりできないので誰もが緊張するんですが、私のような超緊張型の人間にとっては、それはもう大変なプレッシャーで、手が震え出して止まらないのです」。答案を提出した後も、「あんなひどい字を試験官は読めるのだろうか?」と心配になるほどだった。

京大を志望するも、九大へ

高校では京都大学を目指して受験勉強に励んでいたが、卒業時に父親を亡くし、経済的な理由で地元の九州大学に進んだ。就職の際も、市役所の臨時職員として働いて吉村さんを大学卒業まで支えてくれた母親を残して他所へ行くわけにはいかず、福岡市役所に就職。その真面目な性格に加えて、生来の頑張りと気配りで順調に出世し、2年間のアメリカ赴任も経験して、福岡市東区長にまで昇りつめた。58歳になっていた。「その頃から、いやもう少し前からかな、定年後の人生について考え始めました。60歳で定年を迎えたら、そこから自分はどう生きるべきか?って」。

吉村さんは、それまで自分が培ってきた知見や人脈を生かすセカンドキャリアには魅力を感じなかった。「いわゆる天下りみたいなこともできたのですが、そうしたところで働けるのはせいぜい65歳まで。その先の人生だって、まだまだ長いですから」。そんな吉村さんが思い描いた第2の人生は、「それまでとは違う世界に飛び込み、経験したことのない仕事に就いて長く働く」というものだった。

「ただ、違う世界とは言っても、今さら新聞記者にはなれないし、写真が好きだからって写真家になれるはずもない。じゃあ現実的に考えてみようと。塾の講師はどうだろう?とか、美術や焼き物が好きだから学芸員はどうだろう?とか」。他にもあれこれと候補を挙げては徹底的に調べ、考えに考えぬいて、行き着いたのが弁護士だった。

大学院で、20代の若者たちと共に学ぶ

しかし弁護士になるには、司法試験に合格しなければならない。吉村さんは退職後間もなく、京大、同志社大、立命館大の各法科大学院を受験。そのすべてに合格し、京都大学法科大学院に入学する。「実は東区長時代から土日に、そのための勉強を始めていたのです。あの頃は土日も会合やイベントに駆り出されることが多かったのですが、できるだけ時間を作って勉強していました」。

大学院に京都の地を選んだのも、吉村さんの「それまでとは違う世界に飛び込む」行動の一つだ。生まれも育ちも福岡の吉村さんだが、全く新しい環境の中で勉強を始めたかった。幸い奥さんも賛同してくれて、二人で京都に移り住んだ。奥さんは吉村さんにとって大きな存在だ。

「彼女は僕がアメリカに赴任する時も、京都に住みたいと言った時も、すぐに『いいね!』って言ってついて来てくれた。アメリカでは車の免許をとって自分で運転して遊びに行ったり英語を習いに行ったりしてたし、京都でも僕が勉強している間に雪の金閣寺を見に行ったり百貨店に行ったり。僕と同じで行ったことのない所には行ってみたい人なんです」。

希望を胸に京都暮らしを始めたものの、大学院の講義が始まると、そのスピードと難しさに面食らう。夜中の2時や3時まで予習して臨んでいるのに講義についていけない。教授から質問されても答えがまとまらずしどろもどろに。 

どうして自分だけがこんなにできないのか?と悩んでいたところ、学生たちがX(旧Twitter)で講義に関する情報交換をしていることを知る。すぐにアカウントを作り同級生をフォローした。また、講義で話題に上った文献は、真っ先に図書館へ走って確保し余分にコピーをとって友達に配ったりもした。なんとか同級生の輪に入りたかったのだ。「司法試験の勉強って、同級生と議論しないと伸びないんですよ。一人で勉強しているだけでは成績は上がらない。仲間との議論の中から『あ、なるほど!』と思う部分が出てくるものなんです。だからどうしても仲間が欲しかった。X(旧Twitter)を始めたのもコピーを配ったのもそのためです。ギブ・アンド・テイクのギブを先に自分からやる。自分からギブしないで人からテイクしようなんて虫のいいことを考えていても人は動いてくれません。これは戦略ですよ。だって向こうは23歳、こっちは60過ぎの爺さん。僕は彼らに『あいつ見た目は爺さんだけど、心は23歳の仲間だ』と思って欲しかった。だからめちゃめちゃ頑張りましたよ」

吉村さんはこの頃、仲間達に溶け込むために、ファッションもお爺さん風カジュアルから綿シャツとジーンズに変え、初めて美容院に飛び込んで髪型まで変えている。戦略に忠実で、しかも徹底しているのだ。

やがて吉村さんは、語り合い議論することのできる数人の仲間を得る。勉強はやっと軌道に乗り、勉強法も研究して効率化を図った。そして苦労しながらも大学院を卒業。しかし1回目の司法試験受験に失敗する。当時64歳。持病の腰痛を抱え、あと1年身体がもつか心配だったが諦めるわけにはいかない。

翌年、二度目の受験。腰痛が悪化してトイレまで歩くことも難しかったため紙オムツをして臨んだ。試験が終わった時には足腰が痺れて感覚がなかったが、なんとか駐車場まで歩き、待っていた奥さんに抱き抱えられるようにして車に乗り込み帰宅した。結果は、合格。その年の最年長合格者だった。

それにしても「人と話すことに極度の緊張を伴う」吉村さんが、なぜこれほど様々なことにチャレンジできるのだろう。「僕は緊張がすごかったから、森田療法の勉強を相当やりました」。森田療法とは、不安や恐怖をあるがままに受け入れ、自分の中の自然治癒力を最大限に生かす世界的に有名な精神療法だ。「その中で学んだのは、新しい世界を知る努力をしないと、自分の世界は広がらないということです。人は緊張すると、その緊張に囚われて何もできなくなってしまうけど、逆に緊張があるからこそ喋ろう!って頑張ってみる。すると意外と出来たりする。そうやって少しずつ前に進んでいく。緊張することへの対処法は、緊張に敢えて挑戦することです。そう考えないと人間はダメになって行く。新しい世界に挑戦して行けば行くほど、自分は大きくなっていくのだと思います」

なぜ、休むことなく働き続けるのか

吉村さんは、定年を迎えてもひと時も休んでいない。なぜ休まなかったのかと尋ねると、答えはシンプルだった。「定年が怖かったからですよ。やることがなくなるのが怖かった。僕のモチベーションは、朝起きたら行く所がある、考えることがある、やることがあるということ。それがある人生を続けることにチャレンジしたかったのです」

近年FIRE(Financial Independence, Retire Earlyの頭文字を取ったもので、「経済的自立による早期退職」の意味)に憧れる人が多いがどう思うかと水を向けると、「何か目的があってアーリーリタイアするのはいいと思いますよ。だけどアーリーリタイア自体が目的だったら、僕には全く理解できないですね。労働は苦しみだから、そこから逃れたいという思いがあるのかもしれないけど、仕事を辞めても苦しみはついて回ります。歳をとったり、体が弱ったり、家族に何か起きたり、苦しみや不安は必ずついて回る。仕事は苦しみではないのか?と聞かれたら、それは苦しみですよ。明日までに提出しなきゃいけないのに間に合わないとか考えがまとまらないとか、それは苦しい。でもそんな風に苦しんでいる時が、反対に最も幸福な時なのではないですかね?苦しみが無くなった時の方が僕は怖い」

定年を迎え、「一生働き続ける」ために弁護士へと転じた吉村さんだが、それから15年が経った。あらためて、いつまで働き続けるつもりなのか尋ねてみた。すると吉村さんは「いけるところまで行くつもりだけど、少なくとも90歳まではいけるんじゃないですかね。病気にならない限り90まではいく。弁護士になったばかりの頃は、10年働いて75になったら引退かもなんて考えてたけど、その75歳になった今も、全然やれてますからね」と言って笑った。

吉村さんのお話を伺っていると、「飛び込んでいく」とか「チャレンジする」といった言葉が頻繁に出てくる。その言葉通り吉村さんは、様々な世界に飛び込んできた方だ。山登り、フライフィッシング、謡曲、茶道、華道。プールでウォーキングし、カメラを携えて世界中を歩き、夜間大学で経済原論と統計学の単位を、英検では1級を取得。そして今は、3台の大型モニター上にPCのカーソルを走らせ、音声入力で文章を作成する、人呼んで「IT爺さん弁護士」

吉村さんは常に何らかの目標を掲げ、素早く確実に前に進むための戦略を練り、工夫をこらしながら一心不乱に努力して、時によろめきながらも、欲しかったものを、なりたかった自分を手に入れてきた。それは吉村さんが、極度の緊張症を抱えている“のに”果たせたのではなく、抱えているから“こそ”果たせたことなのかもしれない。

セカンドライフについて悩んだら、今までの人生を捨てることを考えるのも1つの手だと思います。人生を1回リセットするのもありだと思うのです。今まで自分が培ってきたものを持って生きていくと、新しい人生にならないような気がする。今までとは違う世界に飛び込んで、新しい人や仕事と出会えれば、人生を2倍楽しめるんじゃないかと私は思うのです。だって60歳から90歳まで生きるとすると30年もあるんですよ。何だってできるじゃないですか。

取材・執筆:宮川 貫治
撮影:片山 正太郎

Profile

吉村哲夫

1974年九州大学法学部卒。同年福岡市役所入庁。市民局長、東区長、監査事務局長などを経て2010年福岡市役所を定年退職。2011年京都大学法科大学院入学。2014年司法試験合格。現在は安部・有地法律事務所で弁護士として活動中。
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