『大坂の陣』豊臣方はなぜ和睦できず滅びたのか?「牢人1万2000人」問題とは
大坂冬の陣・夏の陣は、徳川が豊臣を滅ぼし、戦国時代を完全に終わらせた戦いである。
しかし、徳川家は必ずしも豊臣家を力によって滅ぼそうとはしていなかった。
少なくとも、大坂冬の陣の時点では、両者は和睦という平和的解決の道を模索していた。
和睦が締結されなかった原因のひとつが、豊臣方がかき集めた牢人(ろうにん)をめぐる問題である。
豊臣家は、なぜ牢人を集めなければならなかったのか。そして集めておきながら、なぜ牢人の扱いに悩まされたのだろうか。
大坂に集った牢人たち
豊臣秀吉による天下統一、そして関ヶ原の戦いを経て、日本から大きな戦はなくなった。
長く続いた戦乱の世に、ひとまず終止符が打たれたのである。
しかし、その陰で活躍の場を失い、路頭に迷う者たちが大量発生した。
秀吉や家康の天下統一事業によって敗者となった武士や、戦場を渡り歩いていた雑兵たちである。
主人と呼べる者がおらず、牢籠(苦境に立たされること)していた彼らを、世間は『牢人(ろうにん)』と呼んでいた。
彼らのうち、戦場を離れて農業や商工業に従事し始める者たちもいたが、再仕官先を求めて各地を流浪する者も多かった。
そんな困窮した生活をおくる牢人たちにとって、大坂の陣はまさに千載一遇の好機であった。
諸大名を味方につけることができなかった豊臣方は、不足する兵力を補填するために、牢人たちを大々的に受け入れたからである。
豊臣方は、秀吉がたくわえた莫大な金を溶かし、大判一枚に相当する小さな金塊を牢人たちに配ったという。
当座の生活費をまかなうことができ、戦の結果次第では再仕官まで期待できる豊臣方は、牢人たちにとって絶好の働き口だったのだ。
和睦をめぐる内部分裂
慶長19(1614)年11月に始まった大坂冬の陣は、豊臣方と徳川方が一進一退の攻防を続けつつも、水面下では和睦の交渉が進められていた。
同年12月14日、豊臣方は家臣や牢人たちを交えて和睦交渉について協議を催した。
だが、和睦に賛成する豊臣家の家臣たちと、反対する牢人たちの間で議論は紛糾した。
このまま停戦すれば牢人たちは再び職を失い、路頭に迷うことになる。後藤又兵衛など一部の者を除いて、牢人たちのほとんどは和睦には反対していた。
徐々に進展する和睦交渉のなかで、豊臣方は、徳川方に対して牢人たちに与える所領を強く要求した。
豊臣方は、金銭や将来の所領給付を餌に牢人たちをかき集めたので、約束が履行できなければ彼らとの関係が悪化する可能性があったからである。
しかし、交渉はなかなかまとまらず、戦況は次第に豊臣方にとって不利な展開となっていった。
新たな加勢も得られぬまま籠城を続けた豊臣方は、ついに追い詰められ、徳川方との和睦を受け入れることとなった。
具体的な和睦の条件は、次の2点である。
・大坂城の本丸を残して、二の丸と三の丸の堀を埋めること
・織田有楽斎と大野治長から人質を出すこと
また、和睦締結に際して、以下の起請文が取り交わされた。
・徳川方は牢人たちの罪を問わないこと。
・豊臣秀頼の大坂在城を認めること。
・淀殿は江戸に滞在する必要がないこと。
・大坂城を開場する場合は、豊臣方の望み通り国替えを行うこと。
・徳川方はこの取り決めを守ること。
そして慶長20(1615)年1月、大坂城の惣構と二の丸、三の丸が破却され、堀の埋め立ても完了した。
こうして和睦の約束は履行されたものの、豊臣方には不穏な動きがあった。
和睦後の『牢人退去』問題
慶長20(1615)年3月12日、京都所司代の板倉勝重がつづった報告書によると、和睦締結後の豊臣方には以下のような動きがあったという。
・米や材木は、以前よりも大坂に多く集まっている。
・以前籠城していた牢人たちは召し放たれたといっていたが、ひとりも大坂を去っていない。
・現在、牢人が新たに奉公するために方々から大坂城に集まっている。
徳川方は牢人たちの罪を問わない代わりに、大坂城から退去させることを要求していたのだろう。
豊臣家が軍事力を放棄することで、再度の挙兵を防止することが狙いだったと思われる。
その翌日、板倉勝重は再度報告書をつづり、豊臣家や大坂城に関する追加の情報を送っている。
・牢人を新たに抱えないように大坂に札を立てたが、豊臣方ではやってくる牢人とその家族を手厚く保護している。
・大野治長の弟である治房が、牢人1万2000人を抱え込んでおり、彼らに扶持を渡している。
・治長の言うところによれば、治房がどういう了見で兵を集めているのかまったくわからないということである。
大野治房(はるふさ)をはじめとする和睦反対派が、他の家臣たちに無断で牢人たちを引き入れていたのだ。
大野治長をはじめとする和睦賛成派はこの動きに慌てたが、豊臣方は合戦の準備をしていないとは、もはや言えない状況下にあった。
事態は緊迫し、豊臣方に対して徳川方から二つの和解案が提示された。
・秀頼は大坂城を明け渡し、大和か伊勢に国替えをすること
・仮に大坂城にとどまるのであれば、抱え込んだ牢人集を召し放ち、元の家臣だけが残留すること。
だが、秀頼はこの要求をはねつけた。
大坂城から退去することも、牢人たちを追い出して武力を放棄することも、豊臣家の滅亡に直結しかねないと判断したのだろう。
また、豊臣家中の和睦に関する考え方もバラバラであり、肝心の牢人たちも大坂城から退去することを望んでいなかった。
こうして豊臣方と徳川方の和睦は決裂し、慶長20(1615)年4月、大坂夏の陣が勃発。
大坂城の堀はすでに埋め尽くされており、豊臣方の軍勢は質量ともに徳川方に見劣りしていた。
同年5月、秀頼と淀殿は大坂城にて自害し、豊臣家は滅亡した。
退去を強行していたらどうなっていたか?
徳川方の和睦案に含まれていた『大坂城からの牢人退去』であるが、現実的に考えて豊臣方がそれに応じることができたのだろうか。
正確な人数は明らかではないが、おそらく数万の牢人が大坂城に集っていたことは確かである。
彼らの多くは実際に戦を経験した戦闘員であり、大坂城内には武器や弾薬も多数配備されていた。
また前述したとおり、豊臣方は内部の意思統一がまるでできていなかった。
譜代の家臣たちは和睦反対派と賛成派で対立を続けており、牢人たちもそれに加わって混沌とした状況であったと考えられる。
そもそも豊臣方は、自分たちの意思で牢人たちを退去させられるような状況にはなかった。
無理に退去を行おうとすれば、和睦反対派と賛成派で争いが起こり、大坂城内で数万の牢人たちによる暴動や反乱が発生していた可能性は高いだろう。
その混乱は城内だけではなく大坂の周辺地域にまで波及し、収集がつかなくなることは明らかである。
となれば、そこに徳川方がつけ込むのも間違いない。
大坂の治安維持を名目として徳川方は兵を送り、統制の取れていない豊臣方を殲滅したであろう。
そして、秀頼と淀殿は騒動の責任を負わされ、罪人として大坂城から強制退去させられていたのではないだろうか。
いずれにせよ、豊臣方が牢人たちを抱えている以上、徳川方との再戦、そして豊臣家の滅亡は避けられなかったといっていい。
徳川方は、そこまで先を見越して『牢人退去』を要求したのだと思われる。
参考資料 :
『大坂の陣全史: 1598-1616』渡邊大門著 草思社
『敗者の日本史13 大坂の陣と豊臣秀頼』曽根勇二著 吉川弘文館
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部