『GODZILLA 怪獣惑星』を裏側から考察!“今のアニメ”はゴジラをどう描いたのか?【小野寺系】
シリーズ初のアニメ映画、『GODZILLA 怪獣惑星』は何を描いたのか
『シン・ゴジラ』の予想以上の大ヒットを受け、Netflix配信作品として世界にリリースされる予定だったCGアニメーション作品である『GODZILLA 怪獣惑星』は、世界配信に先行するかたちで、日本では劇場公開タイトルとして格上げされることになった。おかげでスクリーンの大画面で、アニメ版ゴジラの雄姿が拝めることに。
さて、ついに公開されベールが脱がされたアニメ版のゴジラ、通称「アニゴジ」とも呼ばれる本作『GODZILLA 怪獣惑星』は、果たしてゴジラ映画としてどうだったのか。アニメでもゴジラはちゃんとゴジラだったのか。ここではそんな疑問についてや、本作が示す日本のアニメーション映画の問題についても考察していきたい。
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アニメの「ゴジラ」はパワー系
本作はCGアニメーション作品としてキャラクターが作られているように、登場するゴジラもまたCGで造形されている。しかし同じく『シン・ゴジラ』のゴジラもまたCGアニメーションで造られていた。
『シン・ゴジラ』の方は不気味さや悲壮感が漂う存在としても描かれていたが、本作のゴジラはずんぐりと重量を感じる、よりソリッド(硬質的)で筋肉の発達した、とにかく「強そう」な姿が印象的である。
そのデザインは、圧倒的な「力」で地球を支配する本作のゴジラの役割に則ったもので好みは分かれるところだろうが、能力をパワーに振り切った思い切りの良い「パワー系ゴジラ」という方向性は面白いし、存在感があることは確かだ。
このゴジラがどんな攻撃を繰り出すのかは、鑑賞を楽しみながら確かめて欲しいのだが、その盛り上がった巨大な体躯によってもたらされる動きには、どれも必殺の威力がある。
実写シリーズへのリスペクト
突如として怪獣が次々に現れて、世界の名だたる都市が破壊されてゆく近未来の地球。そのなかでも最強のゴジラは破壊の限りを尽くし、他の怪獣までも倒した末に地球に君臨している、というのが本作の設定だ。
これは『シン・ゴジラ』が撮られる前に、シリーズ最終作として作られた『ゴジラ FINAL WARS』の展開に近い。新作の設定の起点を、まさかシリーズ中、最も荒唐無稽な作品から持ってくるという点が大きな驚きだ。ある意味、挑戦的である。
本作では他にも第2作『ゴジラの逆襲』や、平成ゴジラシリーズ『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』などへの部分的なオマージュも見られ、実写シリーズ全体へのリスペクトを感じる作品になっている。この博愛的な姿勢というのは、ゴジラシリーズの中では珍しいかもしれない。
舞台は2万年の未来の地球へ
破壊神・ゴジラによって絶望の淵に立たされた人類の前に、『怪獣大戦争』より登場した「X星人」を思わせる異星人「エクシフ」、「ビルサルド」が現れるというのも伝統的なセンスである。
人類の一部は彼らの助けを得て、ともに脅威のない安住の地を見つけるべく宇宙船に乗り込み、新たに居住可能な惑星を目指し旅立つ。だが約20年の月日をかけ到着した惑星は、到着してみると人類の生存に適していなかったことが発覚する。なんという不幸だ。
「帰ろう……」船内の人心は荒れ果て、彼らは再びゴジラが待つであろう地球へと帰還することを余儀なくされる。
不幸過ぎる人類の悲哀
日本のSF界では「ウラシマ効果」と呼ばれたりするが、相対性理論では、“高速で移動する者の時間はゆっくり流れる”ことから、宇宙船で旅立って地球に戻ると、まさに浦島太郎のように膨大な時間が経過しているという考え方がある。本作では、なんと地球ではすでに2万年を超える時間が流れていたことが明らかにされる。
期待でにわかに活気づく船内。「これだけ時間が経てば、ゴジラは死んでるんじゃないか?」…そこで地球をよくよく調査してみると、案の定、地表から高エネルギー反応が。やっぱり何事もなくゴジラは居座っていたようだ……。
ここに至って、何が何でもゴジラを倒そうと執念を燃やす狂信的な主人公ハルオ・サカキ(宮野真守)を含むゴジラ討伐を主張する一派は、実行部隊を編成。無謀にもゴジラが頻繁に活動する地域の地表に降り立ち、存亡を賭けた最終決戦に挑むことになる。
設定の異様な作り込みは何を意味するのか
しかし、そもそもどうして本作はこのような回りくどいSF設定を用意しなければならなかったのか。『シン・ゴジラ』などがそうであるように、“ゴジラが来たので戦う”という、シンプルな構図ではだめだったのだろうかという印象を持ってしまう。
だがこの後の展開を見ると、ここまでの本作の設定の多くは必然的な伏線だったことが分かってくる。そして、描かれるゴジラの真の恐ろしさ……。
ここは、アニメファンを震えあがらせ、また見事な伏線の回収と展開で魅了した『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズの脚本家・虚淵玄の本領が発揮されている部分である。「虚淵玄ならば何かを仕掛けてくるはずだ」というファンの期待に見事に応える脚本になっていた。
『ゴジラ』と対決する現在のクリエイター
内省に傾いた日本のアニメーション
そんなゴジラの存在感を嫌でも印象づけられる本作だが、人物や異星人たちのキャラクターや造形ついては、狂信的な打倒ゴジラ思想を掲げ続けるハルオの粘着的な性格は別にしても、それ以外の要素についてはかなり希薄だと感じてしまうのは確かだ。
例えば、ハリウッドの実写映画『キングコング:髑髏島の巨神』での、サミュエル・L・ジャクソンやトム・ ヒドルストン、ジョン・C・ライリーなどの怪獣に負けない濃いキャラクター達と比べると、見た目も性格もあまりに淡白過ぎるのではないか。
この点については、作り手の意図とは別に、近年の日本のアニメーション表現のメインストリームが進んできた方向性を如実に示してしまっているように感じる。本作の冒頭で老人という存在が消されてしまっていることに象徴されるように、そこ(現在のアニメ)では、主に10、20代の若者の繊細さや、自意識と世界との葛藤に焦点が定められ、それをテーマにすることで共感やリアリティを生み出していくという手法がとられてきた。
言うなれば人間の表現自体が全体的に、世界や社会そのものの描写へと向かわず内省的な方向に傾いているのだ。この事実は、作品の中でゴジラという強烈にダイナミックな存在と彼らが対比されることでより明らかになっている部分である。ゴジラと戦うには、彼らはあまりにも芯が弱い。
ゴジラとの「ガチンコ」勝負の行方は
もしいまのアニメーションの作り手たちが、一からゴジラという存在を創造し得るだろうかと考えると、それは難しいのではないかと思えた。
第1作『ゴジラ』がそれを達成したのは、天才・円谷英二の特撮など優れた表現力はもちろん、原爆投下をはじめとする当時色濃く残っていた、戦争がもたらした一般市民の死傷という生々しい記憶や、作中でも触れられているアメリカの核実験への恐怖や反発という、政治的に描きにくいものをもひっくるめて表現しようとする意志があったからからである。
その意味では、『新世紀エヴァンゲリオン』によって内省的表現を極めた庵野秀明監督が『シン・ゴジラ』を全く逆の政治的な作品として描いたのは、第1作の精神を引き継いだ思い切った決断であったように、いまでは思える。
現在のクリエイターがゴジラを描くというのは、ゴジラを生み出した先人たちの強烈な情熱や表現に対して格闘するということでもあるのだ。その部分において、本作は現時点で、過去のパワーに華々しく蹴散らされてしまっているように見える。しかしその敗北は、ある意味ですがすがしい快感をともなっているように思える。
それは、庵野監督のように『ゴジラ』第1作に近づいていくのではなく、いまのアニメーション表現をそのままゴジラにぶつけたらどうなるのかという「ガチンコ」の勝負を仕掛けていると感じるからである。だからこそ、この敗北には意義がある。その構図が、人類とゴジラの勝負を正面から描くという内容と同期しているのがアツい。
アニメ版「ゴジラ」、続編への高まる期待
ひとつ残念なのは、2万年後の地球がジャングルに覆われた単調な風景として描写されているため、ゴジラ作品の見せ場である都市の破壊や戦闘があまり見られなかったという部分である。
そこは、表現の方向性によっては膨大な時間と手間がかかるCGという制作手法の内部的な事情も感じさせるところではあるが、ここに関してはすでに公開が発表されている本作の続編『GODZILLA 決戦機動増殖都市』というタイトルの響きに期待したい。