量子コンピュータ実用化で何がもたらされるのか?開発競争の歴史と最前線をミチオ・カクが解説【量子超越】
量子コンピュータの科学的仕組みや白熱する開発競争、実用化によってもたらされる未来をミチオ・カク博士が解説した『量子超越 量子コンピュータが世界を変える』。NYタイムズ・ベストセラーの待望の邦訳である本書は、ポピュラーサイエンス書としては異例の売れ行きを記録し、発売直後に増刷が決定しました。
本記事では、グーグル、マイクロソフト、インテル、IBMなどの巨大企業がしのぎを削り、世界中が注視する量子コンピュータ開発競争の歴史と最新情報を解説した第1章の一部を特別公開します。
第1章 新時代の幕開け
革命が訪れようとしている。
2019年と2020年、ふたつの爆弾が科学界を揺さぶった。ふたつのチームが、量子超越性に到達したと発表したのである。量子超越性とは、量子コンピュータというまったく新しいタイプのコンピュータが、特定のタスクの処理において従来のデジタル式スーパーコンピュータの性能を明確にしのぐ、夢のような段階のことだ。これは、コンピューティング(コンピュータを使った計算)の世界を一変させ、われわれの日常生活のあらゆる状況を覆すような大激動の到来を告げていた。
まずグーグルが、「シカモア」という量子コンピュータで、世界最速のスーパーコンピュータでも1万年かかるような数学的問題を200秒で解けることを明らかにした。『MITテクノロジーレビュー』誌によれば、グーグルはこれをとてつもないブレイクスルーと呼んだという。同社はそれを、世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げやライト兄弟の初飛行になぞらえていた。「現在最高性能のコンピュータがそろばんに見えてしまうようなマシンの新時代の始まり」だったのである。
次に、中国科学院の量子イノベーション研究所がさらに先へ進んだ。彼らは、自分たちの量子コンピュータは、通常のスーパーコンピュータより100兆倍も計算速度が速いと主張していた。
IBMの副社長ボブ・スーターは、量子コンピュータが一気に台頭してきたことについて、はっきりこう述べている。「これは今世紀において最も重要なコンピューティング技術になると私は思う」
量子コンピュータは「究極のコンピュータ」と呼ばれてきた。全世界に多大な影響を及ぼす、テクノロジーの圧倒的な飛躍という意味で。それは小さなトランジスタで計算するのでなく、考えられるかぎり最小の物体である原子そのもので計算することによって、われわれがもつ最高速のスーパーコンピュータの性能をあっさり上回る。量子コンピュータは、経済と社会とわれわれの暮らしにとって、まったく新しい時代をもたらすものとなるかもしれない。
だが、量子コンピュータはただ単に高性能なコンピュータであるだけではない。それは新しいタイプのコンピュータで、デジタルコンピュータが無限の時間をかけても決して解けない問題に取り組めるのだ。たとえばデジタルコンピュータは、原子がどのように組み合わさって重要な化学反応を、とくに生命現象を可能にする反応を起こすのかを正確に計算することができない。デジタルコンピュータでは、デジタルのテープのように並ぶ0と1の連なりでしか計算できず、それは、分子の奥深くで踊る電子たちの細やかな波を表現するにはあまりにもお粗末なのだ。じっさい、マウスが迷路でたどる経路をひたすら計算する場合、デジタルコンピュータはたどりうる経路をひとつずつ、丹念に解析しないといけない。ところが量子コンピュータは、たどりうるすべての経路を同時に電光石火の速さで解析する。
これにより、しのぎを削るコンピュータの巨人たちの激しい競争がさらに加速し、いまや彼らは世界最高性能の量子コンピュータを作るべく競っている。2021年には、IBMがイーグルという自社開発の量子コンピュータを発表し、それまでのどのモデルをも上回る計算能力でトップに躍り出た。
しかし、そうした記録はパイの皮のようなものだ――破れるようにできているのである。
この革命がもたらす莫大な影響を考えれば、世界の一流企業の多くがこの新たなテクノロジーに巨額の投資をしているのも驚くにあたらない。グーグル、マイクロソフト、インテル、IBM、リゲッティ・コンピューティング、ハネウェルは皆、量子コンピュータのプロトタイプ(試作品)を作っている。シリコンバレーの巨人たちは、この革命に付いていかなければ完全に置いてきぼりになるとわかっているのだ。
IBMとハネウェルとリゲッティは、それぞれ第1世代の量子コンピュータをネット上に公開し、好奇心の強い公衆の欲求をかき立てた。それで人々は、量子計算を初めて目の当たりにすることができている。インターネットで量子コンピュータに接続すれば、この新たな量子革命を体験できるのだ。たとえば2016年に提供された「IBM Qエクスペリエンス」では、インターネットを介して15台の量子コンピュータを、だれでも無料で利用できる。サムスンとJPモルガン・チェースもそのユーザーだ。すでに、学童から大学教授まで、月に2000人がそれを利用している。
ウォールストリートはこのテクノロジーに強い関心をもった。イオンQは、2021年に大手量子コンピューティング企業として初めて株式上場し、IPO(株式の新規公開)で6億ドルの資金を集めた。さらに驚いたことに、競争が激しくなりすぎたあまり、スタートアップのプサイクォンタムは、商用プロトタイプを何も市場に出さず、それまでの製品の実績もいっさいないのに6億6500万ドルを調達でき、いきなり金融市場で評価額を31億ドルにまで上げた。企業アナリストたちは、このように、新企業が熱狂的な思惑とセンセーショナルなニュースの波に乗り、そこまでの高みに上りつめる状況はまず見たことがないと書き立てていた。
コンサルティング企業で会計事務所のデロイトは、量子コンピュータの市場が2020年代に数億ドル、2030年代には数百億ドルに達するものと見積もっている。量子コンピュータがいつ商業市場に投入され、経済の眺望を変えることになるのかはだれにもわからないが、予測はつねに、この分野における科学的発見のかつてない速さに応じて更新されている。ザパタ・コンピューティングのCEO、クリストファー・サヴォアは、量子コンピュータの急速な興隆についてこう語っている。「もはや『もし』ではなく『いつ』の段階となっている」
米国の連邦議会までも、この新たな量子テクノロジーを後押しすることに強い関心を示している。ほかの国々がすでに量子コンピュータの研究に惜しみなく資金を投じていることに気づき、2018年の12月、新たな研究の口火を切る資金を提供する国家量子イニシアチブ法を制定したのである。それにより、新たに2つから5つの国立量子情報科学研究センターを設立し、それらのセンターに年間8000万ドルなどの資金を投じることが命じられた。
さらに2021年、米国政府は量子テクノロジーに6億2500万ドル投資することを発表し、監督機関をエネルギー省とした。マイクロソフト、IBM、ロッキード・マーティンといった巨大企業もこのプロジェクトに追加で3億4000万ドル提供している。
量子テクノロジーを加速させるために政府の財源を利用しているのは、中国と米国だけではない。英国政府は現在、量子コンピューティング研究の要衝として、国立量子コンピューティングセンターを建設中だ。場所は、オックスフォードシャー州のハーウェルキャンパスにある科学技術施設会議の研究所である。政府に後押しされて、英国では2019年末までに量子コンピュータのスタートアップが30社誕生している。
業界のアナリストは、これが1兆ドルのギャンブルであることに気づいている。競争の激しいこの領域では、何の保証もないのだ。近年グーグルなどによって見事な技術的成果が得られているものの、現実世界の問題を解決できる実用的な量子コンピュータの登場は、まだだいぶ先になる。大変な仕事がなお山ほど待ち構えているのだ。無駄骨かもしれないと批判する人さえいる。だがコンピュータ企業は、自分がドアに足をかけなければ、ドアが閉じてしまうのではないかと思っているのである。
コンサルティング企業マッキンゼーのイヴァン・オストイッチは、「量子が一変させる可能性がきわめて高い業界の企業は、今すぐ量子にかかわるべきだ」と言っている。化学、医療、石油・ガス、交通、物流、金融、製薬、サイバーセキュリティといった領域は重大な変化の機が熟しているのだ。オストイッチはこう続ける。「本質的に、量子は幅広い問題の解決を加速させるので、あらゆるCIO(最高情報責任者)に密接に関係することになる。そうした企業は量子を扱う能力を手に入れる必要がある」
カナダの量子コンピューティング企業D‒Waveシステムズの元CEO、ヴァーン・ブラウネルはこう語る。「われわれは、古典的コンピューティングでは得られない能力を今にも提供しようとしている」
多くの科学者は、人類が今、まったく新しい時代に入ろうとしており、その衝撃波はトランジスタとマイクロチップの登場がもたらしたものに匹敵すると考えている。「メルセデス・ベンツ」ブランドを所有する巨大自動車メーカーのダイムラー〔ダイムラーは2022年にメルセデス・ベンツ・グループに社名変更している〕など、コンピュータの製造と直接関係のない企業がすでに、量子コンピュータが自分たちの業界の新たな発展に道をつける可能性に気づき、この新技術に投資しだしている。ライバルのBMWの幹部ユリウス・マルセアはこのように書き表した。「われわれは量子コンピューティングが自動車産業を変革する可能性を探るのに夢中で、工学的性能の限界を押し広げることに力を注いでいる」。フォルクスワーゲンやエアバスなど、ほかの大企業も独自に量子コンピューティング部門を立ち上げ、このテクノロジーが彼らの事業にどんな革命を起こす可能性があるか検討している。
製薬会社もこの分野の発展に注目し、量子コンピュータが、デジタルコンピュータの能力をはるかに超えた複雑な化学的・生物学的プロセスのシミュレーションをおこなえそうなことに気づいている。何百万もの薬をテストするための巨大な施設が、いずれサイバースペースで薬をテストする「バーチャル実験室」に置き換えられるかもしれない。いつかそれが化学者に取って代わるかもしれないと怯える人もいる。しかし、創薬にかんするブログを運営しているデレク・ロウは、「マシンが化学者に取って代わるのではない。マシンを利用する化学者が、利用しない化学者に取って代わるのだ」と語る。
スイスのジュネーヴ郊外にある大型ハドロン加速器(LHC)は、世界最大の科学研究機器として、陽子同士を14兆電子ボルトのエネルギーで衝突させて初期宇宙の条件を再現しているが、この加速器さえ、今では大量のデータをふるいにかけるのに量子コンピュータを利用している。その量子コンピュータでは、1秒間でおよそ10億回の粒子衝突による、最大で1000兆バイト〔1バイトは8ビットに相当〕になるデータが解析できる。いつの日か、量子コンピュータは宇宙創成の秘密を解き明かすことになるかもしれない。
量子超越性
2012年にカリフォルニア工科大学の物理学者ジョン・プレスキルが「量子超越性」なる言葉をこしらえたとき、多くの科学者は首を横に振った。彼らは、量子コンピュータがデジタルコンピュータをしのぐ性能になるのは、数十年後、いやもしかすると数百年後かもしれないと思っていた。なにしろ、シリコンチップではなく一個一個の原子で計算するというのは、おそろしく難しいと考えられたのである。ほんのわずかな振動やノイズで、量子コンピュータの原子の精妙なダンスが乱れてしまう。ところが、量子超越性にかんするびっくりするような宣言は、これまで否定論者の悲観的な予測を次々と打ち砕いてきた。いまや、関心の的はこの分野がどれだけ速く発展するかに移ってきている。
こうした驚くべき成果は、世界じゅうの重役の会議室や諜報機関をも震撼(しんかん)させている。密告者がリークした文書によれば、米国の中央情報局(CIA)や国家安全保障局(NSA)はこの分野に密着して発展を見守っている。量子コンピュータの性能があまりにも高いので、原理上、従来のどんなネット暗号も破られるおそれがあるからだ。すると、政府が注意深く守っている秘――最高機密の情報が含まれる至――が攻撃に弱くなり、企業やさらには個人の大事な秘密もそうなる。事態はきわめて急を要するため、国家の政策や標準規格を決定する米国立標準技術研究所(NIST)さえ、最近になって、大企業や機関がこの新時代に向けた必然的な移行の計画を立てるのを助けるガイドラインを発表した。すでにNISTは、2029年までに量子コンピュータが、多くの企業に利用されている128ビットのAES暗号を破れるようになると告げている。
サイバーセキュリティ企業PQシールドのCEO、アリ・エル・カーファラニは『フォーブス』誌にこう書いている。「それは、守るべき機密情報のあるすべての組織にとってひどく恐ろしい見通しだ」
中国は、このきわめて重要で発展の速い分野を主導する立場になるべく、国立量子情報科学研究院に100億ドルを投じている。世界の国々は何百億ドルもかけて自分たちの暗号をしっかり守っている。量子コンピュータを武器にもてば、ハッカーはおそらく地球上のどのデジタルコンピュータにも侵入し、さまざまな産業ばかりか、軍までも攪乱(かくらん)することができる。あらゆる機密情報が、最高値(さいたかね)でそれを買う者の手に落ちるのかもしれない。金融市場も、量子コンピュータがウォールストリートの奥処(おくか)に侵入することで、大混乱に陥るだろう。量子コンピュータはブロックチェーンもこじ開け、ビットコイン市場をめちゃくちゃにするおそれがある。先述の企業デロイトの予測では、ビットコインのおよそ25パーセントは量子コンピュータによるハッキングを受ける可能性があるという。
「ブロックチェーン事業は、今後量子コンピューティングの進歩に神経をとがらせることになりそうだ」。データソフトウェアで知られるIT企業CBインサイツのレポートは、そう結論づけている。
したがって、危機に直面するのは、デジタルテクノロジーと固く結びついている世界経済そのものなのだ。ウォールストリートの銀行は、コンピュータを使って何十億ドルもの取引を把握している。技術者は、コンピュータを使って高層ビルや橋やロケットを設計している。アーティストがハリウッドの超大作映画に命を吹き込む場合も、コンピュータが頼りだ。製薬会社も、コンピュータを使って次の特効薬を開発している。子どもも、コンピュータを利用して友だちと最新のゲームで遊んでいる。またわれわれは、友人や仕事仲間や家族から即座に知らせを受け取るのに、すっかり携帯電話に頼っている。だれもが、自分の携帯電話が見つからなくて慌てふためいたことがあるものだ。それどころか、人間の活動で、コンピュータが混乱をもたらさないものを挙げることのほうが圧倒的に難しい。われわれはコンピュータにすっかり依存しているので、世界じゅうのコンピュータがいきなり動かなくなったら、文明はめちゃくちゃになってしまう。だから科学者たちは、量子コンピュータの発展を注意深く見守っているのだ。
(了)
高橋弘樹氏(ビジネス動画メディア ReHacQ -リハック- プロデューサー)絶賛
めちゃくちゃ面白い!
素粒子物理が2050年の世界をどう変えるか……
こんな楽しい世界を知らずに2020年代を生きるのはもったいなさすぎる。
量子コンピュータの描く未来を考えることは、こんなにワクワクするのだとみんなに知ってほしい。
本書の内容を、量子コンピュータと物理の楽しさを、 7歳の息子に夢中になって話した。
著者
ミチオ・カク
ニューヨーク市立大学理論物理学教授。ハーバード大学卒業後、カリフォルニア大学バークリー校で博士号取得。「ひもの場の理論」創始者の一人。著書に『2100年の科学ライフ』『人類、宇宙に住む』『神の方程式』(以上、NHK 出版)など、数多くのベストセラーを生み出す。