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「未知」に突き動かされた昆虫学の先駆者──マリア・メーリアンとは何者だったのか?

NHK出版デジタルマガジン

「未知」に突き動かされた昆虫学の先駆者──マリア・メーリアンとは何者だったのか?

ダーウィンやフンボルトの遥か前、生物の神秘に魅せられ、科学を「絵」で表した昆虫学のパイオニアが17世紀のドイツにいた──。発売後たちまち重版となった、「怖い絵」の中野京子さんによる『虫を描く女(ひと)』。小さな虫の中に「神」を見て、娘を連れて南米スリナムまで調査に旅立った彼女はいったい何者だったのか?本書から内容を抜粋してお届けします。

中野京子『虫を描く女 「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯』

ジャングルでのフィールドワーク

 メーリアンとドロテア(メーリアンの娘)は、毎朝四時に起きた。家で飼育中の虫たちに与える、新鮮な食草を集めるためだ。早くしないと、草は容赦ない太陽の下で萎れてしまう。餌(えさ)をやり忘れると、幼虫たちはたちまち共喰いを始める。

 あまり遠くへ行かなくてすむよう、庭にもいろんな植物を植えておいた。茎を折って持ち帰った花が、家へつくまでにみるみるしぼんだこともあり、それからはインディオに根から掘らせることにした。中には夜だけ咲く花もある。そういう花は色で虫をひきつけられない代わり、強烈な芳香を放つ。甘く豊かなその香りは屋内にまで漂ってきて、いかにも南国に来たという感慨を起こさせた。幼虫のいる枯木は、家へ運んで放置しておく。どんな成虫が羽化してくるか、待つ楽しみがある。

 フィールドワークは夜には無理だ。なるべく暑くならない朝方か、夕方のうちにすませた。ヘルメットと虫よけヴェールで武装し、虫網と虫カゴ、ブリキ缶、キャンバスに絵の具箱、拡大鏡、標本用の板と切りそろえた羊皮紙が必需品だった。スケッチしているあいだ中、頭の上をスズメバチがぶんぶん飛びまわることもあった。

 捕まえた虫はすぐ処理しないと、腐ったり大アリに喰われるので、場合によってはその場で標本にした。せっかくの標本を、家の中で台無しにしてしまったこともある。「アメリカでもっとも悪名高い虫」ゴキブリにやられたのだ。「小さなゴキブリは動きがすばやく、木箱や容器の継ぎ目や鍵穴から中へ入り込む」。もちろん彼らの生態も研究対象である。パイナップルのガクに、びっしり並んで産みつけられた卵とともに、南米産ワモンゴキブリの一生が時間の枠を超えて描かれた。

パイナップルとゴキブリ(『スリナム本』図1)

 メーリアンは頑健な肉体と、さらに鋭い動体視力も持っていただろう。でなければ、ぎらつく熱帯の太陽の下で長時間、小さな虫を観察し続けることはむずかしい。中にはチカチカ光る翅を持ち、なおかつ鳥の目をくらますためにジグザグに飛ぶ蝶もいる。彼女はそれを全力疾走でどこまでも追っていった。擬態もひんぱんにある。雨の滴に見せかけた繭(まゆ)もあれば、糞や木片になりすますイモ虫もいる。樹皮、花、枯葉、石ころ……たいていの人が見まちがうものでも、メーリアンの目はごまかされない。彼女は昆虫の擬態に関する先駆的画家でもあった。

 また彼女の絵には、風に揺れて、ふと花びらが裏返った一瞬や、蜜を吸う蝶の長い吻(くちさき)の動き、今しも翅を拡げかけた虫の触角の様子など、まるでカメラが捉えたとしか思えない構図もある。ごく稀な能力の持ち主──たとえば木にとまっていたたくさんの鳥が、いっせいに飛び立つとする。あっという間のことだから、ふつうの人間には、何羽いたかはもはや数えられない。ところが中には、その飛び立った瞬間を静止画のように目に焼きつけられる者もいる。目の裏に焼きついたその画像を見ながら、あとでゆっくり鳥の数を数えられる人間だ。メーリアンも本人が意識していたかどうかは別として、それに近いことができたのではないか。

 昆虫の数に対しても、彼女はまったくひるむ気配を見せていない。現代の研究では、昆虫はおよそ一〇〇〇万種あるといわれる(アマゾンのジャングル調査での推測によると、全動物の重さの半分を昆虫が占めるらしい)。メーリアンの時代の博物学者たちは、その一〇倍とふんでいた。これには昆虫の概念の、現代との相違もかかわっていよう。当時はヘビもトカゲもカエルも巻き貝も昆虫だった。

 おもしろいのはヘビへの誤解で、その姿からイモ虫の大型版とみなされることもあったようなのだ。ヨハン・ヨンストン(一六〇三〜一六七五)の『鳥獣虫魚図譜』や、コメニウス『世界図絵』に描かれたヘビなど、どれも尺取り虫のように立ち移動している。いや、かのルーベンスの戦慄的傑作『メドゥーサの首』ですらそうだ。岩の上に投げ出された、メドゥーサの目を見ひらいた首、そしてその髪の毛の一本一本がのたうつヘビである。うち数匹が、見まごうかたない立ち移動だ。コイル状に体を巻いているのもいる。こうした描写は、何と一九世紀まで続く。フルト・ベッヒャー『最新世界図絵』(一八四三年出版)では、ヘビどころかウナギまで、尺取り虫の親戚扱いである。

『スリナム本』のためのスケッチ。羊皮紙に水彩(ロシア科学アカデミー蔵)

 ヘビはそんな這い方をすると信じられていたのだろうか。とてもそうは考えられない。別に珍しい生きものというわけではなし、ヘビの動きを見たことのある人間はおおぜいいたはずだ。にもかかわらずヨーロッパでのヘビ図がいつもほとんど同じというのは、ヘビはこう描くという暗黙の了解でもあったのかもしれない。というのも、メーリアンのヘビもまた、「見たとおり、自然のままに描く」という彼女らしからぬものなのだ。『スリナム産昆虫変態図譜』のは尺取り虫動きこそしていないが、ルーベンスのと似たコイル巻き描写があって、非常に違和感を覚える。

 もちろん彼女の仕事はパイオニアとしてのそれなので、誤解や勘違いや明らかなまちがいがあるのはやむをえない。あらゆることが手探り状態だった。親ガエルより大きな尾付きオタマジャクシを見たときには、カエルが成長してオタマジャクシになったと誤解した。またピパというコモリガエルの生態については、困惑しきってしまった。「焦げた四角いパンケーキ」みたいな、ぶかっこうなこのカエルは、舌はなく、目も退化して異常に小さい。背中一面ハチの巣状に穴があいていて、そこからたくさんの変態済みの子ピパがひょこひょこ出てくる。かつてワルタ城にいたときカエルの解剖をしたことがあったので、メーリアンは子宮の存在を確かめていた。ではピパは卵生でも胎生でもないということか? (今では次のことが明らかになっている。産んだばかりの卵を雄が雌の背にのせる。すると皮膚がふくらんで一粒ずつ包み込む。その中で卵はオタマジャクシになり、カエルとなって、やがて一匹ずつ飛び出してくるという次第)

 メーリアンは、水中を泳ぐ平べったいピパを描いた。その背中のぼつぼつした穴から、小さなピパが出かかったり、すでに出て泳いでいたりする、実に異様な光景だ。メーリアンの出した結論は、「ピパの子宮は背中にある」だった。とても信じてもらえまいと思ったのであろう。絵のとおりの状態のピパを生け捕りし、子ピパもろともブランデー漬けの標本にしてアムステルダムヘ持ち帰っている。これは正解だった。絵を見て笑った学者も、実物を突きつけられれば納得せざるをえない。

コショウソウとピパ(『スリナム本』図59)

 欺されたこともあった。変わった虫がいれば買い取ると言ってあったので、インディオたちがよくやってきた。中に、ユカタンビワハゴロモ(頭部がワニに似ているので、英語名はアリゲーター・フライ)の頭をちぎり、ふつうのセミの胴体にくっつけた偽ものを持ってきた者がいる。メーリアンはそれを新種と信じてしまった。とはいえ彼女が描いたユカタンビワハゴロモの図は、あでやかで美しい。大きく翅を拡げて飛ぶ二匹を上に配し、そのすぐ下を地味な小さなセミが飛ぶ。赤い花にとまって休むもう一匹のユカタンビワハゴロモ、そしてその隣に偽ものがとまっている。まるでユカタンビワハゴロモとセミの――優者と劣者の――間に生まれた愛の結晶のようだ。

中野京子

作家・ドイツ文学者。北海道生まれ。
著書に『「怖い絵」で人間を読む』(NHK生活人新書)、『印象派で「近代」を読む』『「絶筆」で人間を読む』『異形のものたち』(NHK出版新書)、「怖い絵」シリーズ(角川文庫)、「名画の謎」シリーズ(文春文庫)、「名画で読み解く王朝」シリーズ(光文社新書)、『美貌のひと』『愛の絵』(PHP新書)、『西洋絵画のお約束』(中公新書ラクレ)など多数。

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