宇多田ヒカルのデビューシングル「Automatic」天才の降臨で時代は次のステージへ!
連載【新・黄金の6年間 1993-1998】vol.39
▶ Automatic / 宇多田ヒカル
▶ 作詞:宇多田ヒカル
▶ 作曲:宇多田ヒカル
▶︎ 編曲:西平彰
▶ 発売:1998年12月9日
レッドオーシャン市場のほうが全体のパイが大きくなって、市場も活性化する
面白いデータがある。
プロ野球の巨人戦の年間平均視聴率の推移である。今や、すっかりプロ野球中継はBSの看板コンテンツ化し、各球団の試合が見られるけど、昭和の時代―― プロ野球中継と言えば巨人戦だった。それも地上波で放送され(まだBSはなかった)、高視聴率番組だった。
1つ質問。昭和の巨人戦で、最も視聴率が高かった時代はいつでしょう? ―― おそらく多くの人はON(王貞治・長嶋茂雄)が活躍した巨人のV9時代(1965年〜1973年)を挙げると思う。でも―― 違うんですね。
実は、広島カープが初優勝した1975年から、阪神タイガースが21年ぶりにリーグ制覇した1985年までの11年間のほうが、断然高い。同時代は大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)を除く5球団がリーグを制した、いわば群雄割拠の時代。V9時代の平均視聴率19%に対して、群雄割拠の11年間は平均24%もあったんです。これ、実はマーケティング的には至極当たり前の話。1強が支配する寡占市場よりも、群雄割拠のレッドオーシャン市場のほうが全体のパイが大きくなって、市場も活性化する。
そこで、音楽市場である。1990年代、“新・黄金の6年間” にCDセールスが飛躍的に伸びた話は、この連載でも再三述べた。ちなみに最大セールスは1998年で、なんと6,000億円以上もあったそう。一方、直近の2023年のCDセールスは約2,000億円で、音楽配信が1,000億円強。2つを合わせても全盛期の半分に過ぎない。どうしてこうなったのか?
その鍵を握る人物こそ誰あろう、宇多田ヒカルその人である。
「雷波少年」でお茶の間に見つかった “宇多田ヒカル”
1999年1月初頭、『電波少年』シリーズ(日本テレビ系)の派生番組の1つ『雷波少年』にて、1つの企画が佳境を迎えようとしていた。
それは、3人組のアコースティックバンド、Something ELse(サムエル)に課せられた “次のシングルがオリコン初登場で20位以内に入らなければバンドは即解散。音楽から離れ、別の就職口を探す” なる企画の結果発表である。3人が、3ヶ月半もの合宿生活に耐え、紡ぎだした新曲のタイトルが「ラストチャンス」だった。
20位から発表が始まるが、11位まで彼らの名前はなし。続いて、10位から6位も呼ばれず。いよいよベスト5だ。5位――宇多田ヒカル「Automatic / time will tell」(12インチ)。この時、僕を含めて、全国のお茶の間は “おや?” となった。実は、彼女の名前は10位にも登場しており、そちらは同シングルの通常盤。つまり、ベスト10に2度も登場した彼女は何者?―― と。
そう、この時点で “宇多田ヒカル” は、世間的にはまだ無名だった。まさにこの瞬間、お茶の間(大衆)に彼女が見つかったのだ。ちなみに、サムエルの新曲は同チャートで初登場 “2位” にランクイン。3人は解散を免れ、同曲は翌週、念願の1位を獲得。そして、累計でミリオンを売り上げ、その年の『第50回NHK紅白歌合戦』に出場したのである。
ラジオから火が着いた「Automatic」
それにしても、1つの疑問が残る。あのとき僕を含めて、お茶の間の多くは “宇多田ヒカル" なるシンガーの存在を知らなかった。それなのにオリコンに通常盤と12cm盤の2つもランクイン。一体、誰が彼女のCDを買ったのか?―― ラジオの関係者やリスナーだ。もっと言えば、自他ともに認める音楽的感度の高い人たちである。それは、彼女のデビュー戦略と深く関わっていた。
宇多田ヒカル―― デビューは、今から26年前の1998年12月9日である。「Automatic / time will tell」の両A面シングルだった。作詞・作曲は本人。米ニューヨーク生まれの帰国子女で、時に都内のインターナショナルスクールに通う15歳の高校1年生。ちなみに、母親は歌手の藤圭子―― と、スペックは最強だった。
ところが、それに反してプロモーションは徹底して狭く、抑制的だった。デビューの2ヶ月前、クラブ関係者やDJ、全国のFM局にのみ、プロモーション用のCDを配布した。この配る相手が肝で、いずれも音楽的感度の高い人たち。ゆえに受け取った彼らは、楽曲のクオリティーに素直に感銘を受け、それが若干15歳の少女の自作であることに驚いた。そして、ある種の使命感を持って周囲に布教―― 語り始めた。FM局は折を見て、その曲をかけ続けた。
この時期、宇多田本人もFM局で『Hikki's Sweet & Sour』と『WARNING HIKKI ATTACK!!』なる2つのラジオ番組を始める。デビュー曲のプロモーションを徹底して “ラジオ” に絞るのが、チーム宇多田の戦略だった。それは、テレビやCMとタイアップして、マスの威力で広く楽曲を拡散した “新・黄金の6年間” の真逆を行くスタイルだった。
同年10月20日、赤坂BLITZにて東芝EMI(現:ユニバーサル ミュージック)が主催する業界関係者向けのイベントが開催される。15歳の少女は、遂にベールを脱いだ。彼女は英語で自己紹介して、直後に自ら日本語に訳す茶目っ気を見せる。そのあと「スキヤキ」をアカペラで歌い、続いてデビュー曲の「Automatic」を披露した。その歌声は紛うことなきホンモノで、業界関係者は驚きを隠せなかった。
彼女は音楽業界で知る人ぞ知る存在になった。12月になると、全国のFM局は「Automatic」をヘビーローテーションで流した。外資系のCDショップは専用のコーナーを設け、猛プッシュを始めた。そして、口コミで音楽的感度の高いリスナーたちが購入し、彼らもまた周囲に語り始めた。
その結果――「Automatic」は火が着いた。
宇多田ヒカルの音楽的原点とは?
いかにして、“宇多田ヒカル” は作られたのか。
―― 本名:宇多田光。1983年1月19日、米ニューヨーク生まれ。父は音楽プロデューサーの宇多田照實氏、母は歌手の藤圭子。幼少期より音楽に囲まれて育ち、親の仕事で東京とニューヨークを行き来した。本人曰く “小学1年生のころからスタジオで宿題をして、スタジオでご飯を食べて、スタジオのソファーで寝た” ―― いわば、スタジオキッズだった。
1990年、両親とヒカルの家族3人でユニット “U3" を結成する。1993年、10歳になったヒカルは父親の勧めで作曲を始めた。1995年にはメインボーカルとなり、自身を “Cubic U” と名乗り、北米や欧州でインディーズアルバムを3枚発表する。
1996年、日本でも母親と2人で “藤圭子 with Cubic U” 名義で、シングル「冷たい月〜泣かないで〜」をリリース。続く1997年、アメリカでアルバム『Precious』を発表すると、レニー・クラヴィッツから高い評価を受けた。同年秋、東京のスタジオで東芝EMI(当時)の三宅彰ディレクターの目に留まり “日本語でやってみない?” と声を掛けられる。かくして、日本デビューが決まる。
―― それが「Automatic」だった。
「Automatic」の何が新しかったのか
七回目のベルで
受話器を取った君
名前を言わなくても
声ですぐ分かってくれる
その楽曲は、すべてが新しかった。文節に捉われない自由なフレーズ、R&Bに違和感なくハマる日本語の詞、そしてネイティブじゃないと思いつかない “Automatic” なるタイトル―― 。さだまさしサンは初めて同曲を聴いた際、サビの「♪It's Automatic」が “いつお泊まり?” に聞こえ、“なんて生意気な15歳だ、親の顔が見てみたい” と思ったら、藤圭子と聞いて驚いたという。
ミュージックビデオも斬新だった。普通、人物を真ん中に置いて、カメラをぶん回したり、カットバックを多用して “絵作り” するところ、そのミュージックビデオはカメラを固定して、そのフレームに逆に人物が腰をかがめて合わせた。これまで見たことのない演出で、多くの人々の記憶に残った。やることなすこと、固定概念に捉われず、自由だった。
気が付けば、「Automatic / time will tell」はお茶の間に見つかり、加速度的に売れ始めた。オリコン週間1位こそ逃す(最高2位)が、ロングヒットとなり、2月上旬には累計100万枚を突破。同月17日にはセカンドシングル「Movin' on without you」をリリース。3月1日付オリコンランキングで12cm盤が念願の1位をとると、同曲の通常盤、前曲の2タイプと合わせて、オリコン10位以内に宇多田ヒカルが4曲という偉業を達成する。
そして―― 同年3月10日にファーストアルバム『First Love』をリリース。初動から200万枚を突破し、累計765万枚の日本最高記録を達成する。
宇多田ヒカル以降の日本の音楽
当時、小室哲哉サンは、彼女の登場に “ヒカルちゃんが僕を終わらせた” と語ったと伝えられている。近田春夫サンも同時期、こんな言葉を残している。
「宇多田ヒカルはあっという間にすごいことになってしまった。何がすごいかって、彼女の出現で、ちょっと前まで勢いのあった人たちが皆、色褪せて見えてしまうのだ」
残念ながら、近田サンの “予言” は半ば当たった。いわゆる “宇多田以降” ――音楽がセンスで語られ始めた。J-POPは急速に色あせ、音楽業界は和製R&Bに染まり始めた。耳馴染みのいいメロディーより、玄人受けするサウンドが求められた。一見、さりげないワードに見えて、その奥に哲学を秘めた宇多田ヒカルの作詞の表層だけなぞり、会話風の単調な詞が氾濫した。
思えば、新・黄金の6年間、ヒット曲はちょっとダサかった(褒めてます)。trf(現:TRF)の「寒い夜だから…」はポップスに振りすぎて、肝心のダンサーたちが手持無沙汰だし、広瀬香美の「ロマンスの神様」は合コンに挑むOLがガッツきすぎてちょっと引くし、H Jungle with t(浜田雅功)の「WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント〜」はサラリーマンの応援歌で新橋の匂いがするし、広末涼子の「MajiでKoiする5秒前」は “渋谷はちょっと苦手” って、絶対嘘ついてるし――。
でも、どれも超いい曲で、ダサいところも含めて愛すべき存在で、何より歌いたくなる。だから、これらの楽曲たちはどれも大ヒットした。
そう、あのころ、僕らはヒットソングとテレビドラマに胸を躍らせた。会社や学校の朝の挨拶は “昨日、見た?” だったし、週に2日は “行く?” とマイクを持つジェスチャーで、同僚や友人を誘った。思えば、毎日がエンタメ曜日だった。
そして、明日が来るのが待ち遠しかった。
Information
新・黄金の6年間 1993-1998~ヒットソングとテレビドラマに胸躍らせた時代~
90年代カルチャー総まくり!音楽、ドラマ、バラエティ、CM、アニメなどのジャンルから大型ヒットが生まれた1990年代。なかでも1993〜1998年の6年間に、なぜ多くの才能が次々と花開いたのか。その時代背景やヒットの仕掛けに迫る、リマインダーの人気連載を書籍化。
著者:指南役
発行:2024年12月16日(月)
定価:1,980円(10%税込み)
発行:日経BP
仕様:四六判・並製・296ページ