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さいわい歴史の会 川崎大空襲、悲劇を後世に 延命寺で慰霊の会〈川崎市川崎区・川崎市幸区〉

タウンニュース

供養塔と慰霊碑に手を合わせる会員

B29爆撃機約200機が襲った「川崎大空襲」から79年となる4月15日、さいわい歴史の会(並木章会長)による「慰霊の会」が延命寺(幸区都町)で行われた。同会メンバーら約10人が参加。供養塔と慰霊碑に花と線香を手向け、手を合わせた。並木会長は「戦争の惨さや悲惨さ、平和の大切さを忘れずに伝えなければならない」と話した。

川崎大空襲の罹災者は10万人を超え、都町の死者は200人にのぼる。現在の都町交差点にあったロータリーが当時、避難場所に指定されていたが、同所が爆撃を受けたことで、多くの人が犠牲となった。

遺体の多くは戸板に乗せて延命寺に運び込まれた。憲兵が穴を掘って土葬しようとしたところを当時の住職が制止し、隣の風呂屋の木材を燃料に、三日三晩かけて荼毘に付したという。その際、身元が分かる人の名前を書き留め、空襲から2年後に慰霊に名前を刻んだ。

体験談を語る

同会は毎年、慰霊の会に合わせ被災者に体験談を語ってもらっている。今年は中学生の頃に川崎区池田町で暮らし空襲を経験した梅津政之輔さん(93)を招いた。

梅津さんは、中学校に入学した1943年4月に父の会社の社宅のあった池田町に移り住んだ。1945年ころには空襲警報のサイレンが毎日のように鳴るようになり、4月15日の川崎大空襲の日は、母とまだ赤子だった妹と庭に掘った防空壕に身を潜めたという。幸いなことに池田町に火の手は上がらなかったが、川崎市役所一帯は焼野原になったという。

梅津さんは、同じ年にあった東京や横浜での大空襲の経験も合わせ、当時の生々しく悲惨な戦争体験を語った。「語り継ぐことが私の使命だと感じる。出来る限り伝えていきたい」と話した。

体験談を語る梅津さん

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