岡田有希子を聴けば分かる!80年代の日本のアイドルポップスがいかに潤沢で優れていたか
岡田有希子デビュー40周年!7インチシングル・コンプリートBOX 発売記念コラム vol.10
アイドル・岡田有希子とその楽曲の魅力
1967年8月22日、愛知県一宮市で一人の少女が生まれた。名は佐藤佳代―― のちの岡田有希子である。
そう、今日は岡田有希子―― ユッコの誕生日。そんなユッコが今年、デビュー40周年を迎える。それを記念して、誕生日の今日、ポニーキャニオンから彼女の幻のラストシングル「花のイマージュ」を加えた、初のアナログ復刻『7インチシングル・コンプリートBOX』がリリースされる。そこで当コラムでは、彼女の生い立ちも含めて、アイドル・岡田有希子とその楽曲の魅力に改めて迫りたいと思う。
松田聖子から始まった新しいアイドルポップスの歴史
まず、その前に―― 80年代前半のアイドルの位置づけについて。その歴史は、一般に1980年デビューの松田聖子さんから始まるとされるが、エポックメーキングとなったのは、81年である。それまでの70年代のアイドルの楽曲は、主に職業作詞家や職業作曲家の手によって紡がれてきたが、聖子さんが同年1月にリリースした「チェリーブラッサム」は、チューリップの財津和夫さんの作曲。それは、歌謡曲の一角を占めていたアイドル歌謡と、そのカウンターにあったニューミュージックやロックのカルチャーが融合した瞬間でもあった。
そこから “チーム聖子 ”は、元・はっぴいえんどの作詞家・松本隆さんを迎えて、彼の人脈で大瀧詠一やユーミン(松任谷由実)、細野晴臣らも次々と取り込みながら、新しいアイドルポップスの歴史を作っていく。その流れは、82年デビューの中森明菜さんにも受け継がれ、“チーム明菜” は、来生たかお・えつこ姉弟を筆頭に、大沢誉志幸(現:大澤誉志幸)、玉置浩二、高中正義、井上陽水らを取り込み、ヒット曲を量産する。
“新しいアイドル文化” の流れの中にいた岡田有希子
そう、そんな風にアーティストを作家陣として取り込む “新しいアイドル文化” が形成される中―― 1984年デビューの岡田有希子もまた、その流れの中にいた。彼女の1年目のシングルは、竹内まりやさんの作詞・作曲による三部作であり、ファーストアルバムの「シンデレラ」もまた、まりやさんを筆頭に、EPOやムーンライダーズの白井良明さんや岡田徹さんらも参加した珠玉のアイドルポップスの名盤だった。そんな “チーム・ユッコ” の方針はデビュー2年目以降、更に強化され、尾崎亜美さんやムーンライダーズのかしぶち哲郎さん、更には坂本龍一さんやブレイク前の小室哲哉さんらも取り込んでいく――。
もちろん、80年代前半のアイドルたちが全て、アーティストを作家陣として取り込んでいたワケではない。従来通り、“キング・オブ・歌謡曲” の筒美京平さんを筆頭に、馬飼野康二さんや林哲司さんら職業作曲家の方々も重宝され、彼らは数多くのヒット曲をアイドルたちに提供する。どちらが優れているかという優劣の話ではない。80年代前半、アイドル界にそんな2つの潮流があったという話である。
ただ、敢えてその2つの潮流の特色をそれぞれ挙げるとするなら、前者に属するアイドルは比較的歌唱力と表現力に優れ、後者はキャラクターやビジュアルが語られるケースが多かった。
岡田有希子のパーソナリティがどのように形成されたのか?
そこで、岡田有希子である。彼女は84年デビュー組の中で、当初はそれほど目立つ存在ではなかった。同期の倉沢淳美さんは既に “欽どこ” ファミリーの “かなえ” としてキャラクターが確立されていたし、菊池桃子さんや吉川晃司さんはデビューと併せて主演映画も公開され、知名度で頭ひとつ抜けていた。
ただ、その中でユッコはジリジリと存在感を高めていく。売りとなったのは、その抜群の歌唱力と、竹内まりやさんが紡ぐ楽曲の魅力である。その2つが合わさったとき、彼女の清楚なルックスが、まるで歌の世界のヒロインのように輝いて見えたのだ。雑誌のグラビアで見るより、テレビの中で歌う彼女のほうが、より魅力的に映ったのは、そういう事情である。
ここで、彼女のパーソナリティがどのように形成されたのか、その半生を軽く紹介したい。
コラムの冒頭で述べたように、岡田有希子(本名:佐藤佳代)は1967年8月22日に愛知県一宮市で生まれ、2歳の時に一家は名古屋市熱田区へ転居する。彼女はそこで高校1年の一学期まで過ごし、夏休みにデビューの準備のために上京した。
ユッコは小さいころから歌うことが大好きで、幼稚園時代はテレビで見た天地真理や桜田淳子のモノマネを親戚の前でよく披露していたそう。そんな彼女は小学2年で合唱部に入ると、生来の歌好きから卒業まで活動を続け、6年生の時には合唱部として地元のテレビ番組にも出演したという。
彼女の胸の中に、密かに “アイドル歌手” への夢が芽生えたのは、その頃である。キッカケになったエピソードがある。学芸会で演じた『浦島太郎』の乙姫様(劇中のヒロイン)が思いのほか好評を博し、評判を聞きつけた校長先生が走って見に来たという。彼女が人前で自分を表現する快感に目覚めた瞬間だった。
中学に上がると、彼女は周囲には内緒で、夢の実現のために行動を始める。片っ端からタレント発掘系のオーディションに応募したのだ。彼女の中では “中学2年までにオーディションに合格し、中学3年でデビュー” という皮算用があったそう。しかし、非情にもオーディションは落選を重ねた。
そんな中、唯一、中学2年の夏に応募した『ニコン・フレッシュギャルコンテスト』で彼女は準グランプリを射止める。そのご褒美で、写真雑誌の『写楽』(小学館)の裏表紙に “立木義浩が撮った佳代、14才” なる広告が掲載されるが―― 残念ながら、アイドルへの道が開けることはなかった。ちなみに、この雑誌、僕は高校時代に友人から譲り受け、今もお宝にしている。
「スター誕生!』決戦大会出場への “3つの条件”
1982年4月、彼女は中学3年生になった。このまま受験生となり、アイドルの夢を諦めるのか… そう思い始めた同年6月、1年前にハガキを出した『スター誕生!』(日本テレビ系)から予選会の通知が届く。ラストチャンスだ。まず地区予選を通過し、満を持して臨んだテレビ予選で北原佐和子の「マイボーイフレンド」を歌って―― 見事、合格。晴れて決戦大会への切符を掴んだ。
だが、ここで大きな壁が立ちはだかる。決戦大会の出場を両親に強く反対され、やむなく出場を断念する。しかし、彼女は諦めない。家庭内ハンスト(ハンガーストライキ)に打って出て、4日目―― 娘の体調を心配した母親が、決戦大会出場への条件を提示する。ファンには有名な “3つの条件” である。
▶︎ 学校のテストで学年1番になること
▶︎ 中統(中部統一模擬試験)で5番以内に入ること
▶︎ 第一志望の公立高校に合格すること
母親としては、絶対無理な条件を突きつけ、娘が諦めると踏んでいたが―― さにあらず、ユッコは猛勉強して(元々クラスで5、6番手の位置にいたらしい)、上2つの条件をクリア。更に1983年3月19日―― 第一志望の名古屋市立向陽高校にも合格。晴れて両親の許しを得て、同月30日に東京・後楽園ホールで行われた第46回決戦大会に出場、中森明菜の「スローモーション」を歌った。
“スタ誕” が生んだ最後のスター
1983年4月、彼女は向陽高校へ入学する。そして数日後、彼女の人生を大きく変える1本の電話をもらう。それは、日本テレビの『スター誕生!』からの “合格” 通知。普通、“スタ誕” と言えば、プロダクションやレコード会社のスカウトたちが社名のプラカードを揚げるシーンが有名だが、この頃になると、視聴率の低下からこのような演出はなくなっていた。ちなみに、この5ヶ月後に番組は終了する。結果的に、ユッコの出場した決戦大会が同番組の最後の決戦大会となり、彼女はギリギリのタイミングで夢を掴んだ。そして―― “スタ誕” が生んだ最後のスターとなった。
かくして、“アイドル・岡田有希子” が誕生する。その前に、夏休みに上京するまでの一学期だけ、彼女は普通の高校生活を送った。既にデビューの噂は学内の誰もが知るところとなり、彼女はサッカー部のマネージャーを務め、学内の全男子の憧れの的だったという。
そして、16歳の誕生日から3日後の同年8月25日―― ユッコは上京して、堀越学園に転入する。下宿先は、サンミュージックの新人の定番、成城学園の相澤秀禎社長宅の2階である。そして、デビューへ向けたレッスンの日々が始まる。ボイストレーナーは “スタ誕” の審査員を務め、多くのアイドルを育てた大本恭敬先生、ダンスレッスンは山下康雄先生、美容院は西麻布のクレセントクリーク―― etc
そう、名古屋の普通の高校生だった佐藤佳代を “アイドル・岡田有希子” に変身させるべく、各分野のプロフェッショナルたちが腕を振るった。サンミュージックの相澤社長は日課の毎朝のジョギングにユッコを伴い、芸能界のイロハを教え、キャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)の渡辺有三プロデューサーはユッコに “六大学野球を観に行く山の手のお嬢さん” なるイメージコンセプトを考案し、デビュー曲を竹内まりやさんに依頼した。
ユッコの1年目は、竹内まりやさんの3部作
1983年12月10日、東京・一口坂スタジオで、岡田有希子のデビューに向けたレコーディングが始まる。この日は竹内まりやさんも立会い、コーラスにも参加。ユッコはまりやさんが提供した、いくつかのデビュー曲の候補を歌った。その中から最終的に「ファースト・デイト」で行くと決めたのは渡辺有三プロデューサーである。そしてユッコ自身も、同曲が最もお気に入りのナンバーだった。
ユッコの1年目を竹内まりやさんの3部作で行くと決めた渡辺プロデューサーの判断は正しかったと思う。2作目の「リトル プリンセス」と3作目の「-Dreaming Girl- 恋、はじめまして」、そしてファーストアルバム『シンデレラ』とも “ティーンエイジラブ” の世界観で統一され、清純派で歌唱力に長けた “アイドル・岡田有希子” のイメージが確立される。
そう、耳馴染みのいいメロディと物語性のある歌詞―― 一連の楽曲は、まりやさんの原体験である60年代の欧米ポップスを彷彿とさせ、“楽曲の良さに惹かれてアイドルのファンになる” という、今までありそうでなかった新しい潮流を生んだのも岡田有希子の特色である。また、アルバム『シンデレラ』の10曲中、まりやさんが手がけた楽曲は4曲に過ぎない。それでも全編、見事な調和を見せるのは、誰の心の中にもある “ティーンエイジラブ” の普遍性と、表現者としての岡田有希子の読解力の賜物だろう。
2年目のコンセプトは “フェアリー(妖精)”
そしてユッコ2年目以降、実質的なディレクションは、渡辺Pのお墨付きの元、入社3年目で、ミュージシャン経験もある、同社初の女性ディレクターの飯島美織さん(*旧姓)に一任される。2年目のコンセプトを “フェアリー(妖精)” にするのと、まりやさんの次は、旧知の尾崎亜美さんで行くという方向性こそ、渡辺Pの置き土産だったが、それを深化させてカタチにしたのは飯島さんである。
4作目のシングル「二人だけのセレモニー」は一聴して分かる通り、キャンパスからの卒業と、大人の恋へのステップを歌った広義の “卒業ソング” 。面白いのは、尾崎さんの上品なメロディメークとユッコの巧みな表現力で、いい意味であまりリアリティを感じないこと。どこか物語チックで、これが渡辺Pの意図した “フェアリー” だとしたら、見事である。
“大人の恋”の悲哀を感じさせる上質なポップに仕上がった「Love Fair」
さて、4作目のシングルこそ渡辺Pの息吹が残っていたが、セカンドアルバム『FAIRY』の頃になると、ほぼ飯島さんのディレクションのスタイルが確立。全曲のアレンジを松任谷正隆さんに託したのも彼女の判断である。おかげで、同盤は作詞・作曲家の選定に関わらず、2年目のユッコに相応しい、ちょっと大人の、それでいて上品さを失わない “フェアリー” な世界観で統一されたと思う。
この “アレンジャー・松任谷正隆” で2年目の岡田有希子をパッケージングするスタイルは、同年のシングルにも継承される。尾崎亜美さんが連続登板した5作目の「Summer Beach」、竹内まりやさんが久しぶりに書いた6作目の「哀しい予感」、そしてアルバム『FAIRY』で飯島さん自ら声をかけて “チーム・ユッコ” に誘った、ムーンライダーズのかしぶち哲郎さんによる7作目の「Love Fair」―― いずれも書き手は異なるものの、松任谷さんの巧みなアレンジで、“大人の恋” の悲哀を感じさせる上質なポップスに仕上がった。
岡田有希子史上初のオリコン1位となった「くちびるNetwork」
そして3年目―― ユッコの8枚目のシングル「くちびるNetwork」が作詞:Seiko、作曲:坂本龍一という超インパクトのある座組で作られ、カネボウのCMソングにも起用されて岡田有希子史上初のオリコン1位となったのは、誰もが知るところである。Seikoさんの書いた際どいセリフの印象が強いが、教授のメロディメークの素晴らしさも外せない。何よりエロティシズムに行かず、どこかファンタジーを感じさせるアレンジの妙は、かしぶち哲郎さんの “腕” である。
そして、次の幻となった9作目の「花のイマージュ」では、そんなかしぶちさんが作詞・作曲・編曲まで手掛けているはずだった―― 。もとい、幻じゃないですね。今日ここに、僕らはユッコの9作目のシングルをアナログ盤でリアルに体験できるのだ。その感想をリアルで誰かと語り合ったり、ネットやSNSなどを通じて自らの思いを吐露することが、あるいはユッコの誕生日の理想的な過ごし方かもしれない。
最後に。これまで岡田有希子の曲をちゃんと聴いたことがない方、もしくは若い方で、彼女の存在自体をあまり知らない方へ―― 日本のアイドルポップスの新しい時代が始まった80年代前半の音楽業界がいかに潤沢な人材に恵まれていたか―― それを知る指標の1つとして、岡田有希子を聴くのは悪くない選択だと思います。
僕自身、デビュー曲の「ファースト・デイト」で彼女に出会い、ファーストアルバムの『シンデレラ』でその深みにハマった体験から学んだのは、日本の70年代の音楽シーンが生んだ、いわゆる ”カウンターカルチャー” と呼ばれたフォーク、ロック、ニューミュージックの人材がどれだけ豊かだったか。80年代に入り、幾分丸くなった彼らが、テレビやアイドルといったメジャーシーンと出会い、その才能を惜しみなく注いでくれたことが、どれだけ凄いことだったか。
岡田有希子を聴けば、それが分かります。
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