【貧乏でも高級服を身にまとう】サプールという生き方 ~武器を捨ておしゃれに生きる紳士たち
中央アフリカに位置するコンゴ共和国およびコンゴ民主共和国は、世界最貧国の1つともいわれる貧しい国だ。
コンゴ共和国の国民の平均年収は日本円に換算すれば約19万円、コンゴ民主共和国は約4万5千円ほどで、そのうえ貧富の差は日本よりも激しく、一般市民は平均値よりもさらに少ない収入で生活することを余儀なくされている。
その貧しい国において、高級ブランドのスーツや帽子を身につけ、ステッキを手にして街中を優雅に闊歩する紳士たちがいる。
彼らこそが「サプール」と呼ばれる人々だ。
サプールの多くは、コンゴ共和国やコンゴ民主共和国において、ごく一部の富裕層に属しているというわけではない。彼らはれっきとした一般庶民であり、わずかな収入のほとんどをファッションに費やして生きる人々なのである。
日本では、収入が少ないのに高級ブランドを身につける人間は、嘲笑の対象ともなりかねない。しかしサプールが高級な服を身にまとって街中を風を切って歩く時、彼らには賞賛の声と尊敬の眼差しが注がれるのだ。
なぜ彼らは貧しい生活を送っているにもかかわらず、年収を上回るような高価な服を無理をしてでも手に入れて着て、胸を張って気取りながら街中を歩くのか。
今回は「世界一お洒落な紳士」と呼ばれるサプールについて、解説していこう。
サプールという言葉の意味とサップのルール
サプール(SAPEURS)とは、「サップ」というファッションスタイルを楽しむ男性を指し示す呼び名だ。
サップのつづりは「SAPE」で、フランス語の「Société des ambianceurs et des personnes élégantes」の頭文字を取って造られた通称であり、日本語では「エレガントで愉快な仲間たちの会」や「おしゃれで優雅な紳士協会」と対訳される。
コンゴ共和国とコンゴ民主共和国は、ともに1年中気温30度を超える国だが、サプールたちはその過酷な暑さの中で、1950年代~60年代のパリの紳士風のタイトでカラフルな高級スーツに身を包み、ステッキや葉巻、パイプを片手に独自のステップを踏みながら街中を練り歩く。
思い思いの色使いで自由に見えるサプールのファッションだが、サップには守らなければならないいくつかのルールがある。
まずサップは、コーディネートに3色より多くの色を使ってはいけない。
このルールにより、サップを嗜む者にはシンプルな色合わせでどれだけお洒落に見せることができるか、というセンスが求められる。
さらにサップを嗜む者は、一張羅を着て歩く時は常に他人の視線を意識していなければならない。
服装に気を使うだけではなく、目線や歩き方などすべての所作に神経を注ぎ、着ている服のブランドタグをあえて見せびらかすことも重要なのである。
サップの起源
サップの起源にはいくつかの説があるが、代表的なのはコンゴがフランスの植民地だった時代に活躍した社会運動家、アンドレ・マツワ発祥であるという説だ。
マツワは、コンゴ共和国独立にも多大なる影響を与えた人物だ。
パリに居住していた彼は、1922年にコンゴ共和国の首都であるブラザヴィルへ帰国する際、パリ紳士の正装を身にまとって郷里に帰り、人々を大いに驚かせたという。
また、1940年代から1950年代にかけて、ブラザヴィルの仕立て屋がパリジャン風の紳士服を真似て洋服を作るようになり、それが川向こうのベルギー領コンゴの首都である、レオポルドヴィル(現在のコンゴ民主共和国)にも広まったため、という説もある。
優雅で清潔感を感じさせる西洋の紳士服に、元々ファッションに対する意識が高かったコンゴの人々は憧れを抱いた。そして独自の美意識と平和祈念の感情を、服装に反映させ始めたことがサップ発祥の経緯だともいわれている。
しかし、1950年代にブラザヴィルやキンシャサ(現在のコンゴ民主共和国の首都)で盛り上がったサップは、1960年を境に一度廃れてしまった。
その原因は、コンゴ共和国やコンゴ民主共和国の独立後に勃発した「コンゴ動乱」などの熾烈な紛争だった。
動乱を機に一時衰退、その後復活
コンゴ動乱とは、1960年6月30日にベルギー領コンゴだったコンゴ・レオポルドヴィル(現在のコンゴ民主共和国)が、コンゴ共和国として独立した直後に起きた反乱から始まった動乱だ。
1960年7月11日、ベルギーの支援を受けた政治家モイーズ・チョンベが、動乱拡大に乗じて南部カタンガ州をカタンガ国として独立させることを宣言したため、事態はより一層泥沼化していった。
コンゴ動乱は5年以上にわたって続き、コンゴの人々にとっては争いや暴力が日常風景になってしまった。治安は急速に悪化し、安全な生活すらままならなくなった人々に、ファッションに気を配る余裕などなくなってしまったのだ。
1965年にようやくコンゴ動乱が収束し、それから約10年が経った後、キンシャサの人気歌手パパ・ウェンバの登場がサップ復活のきっかけとなった。
パパ・ウェンバは1977年に自ら結成したバンド「ヴィヴァ・ラ・ムジカ」を率いて、コンゴのミュージックシーンに変革をもたらした。
ヴィヴァ・ラ・ムジカは世界的に知られるバンドとなり、コンゴ国内では特に若い世代から熱狂的に支持された。
コンゴの若者たちは、パパ・ウェンバがアルマーニやシャルル・ジョルダン、イッセイ・ミヤケなどの高級ブランドスーツと帽子を着こなして歌う姿に憧れて真似をするようになり、これがサップ復活の契機となったのだ。
2000年代以降のサップ
1970年代に復活したサップは、1997年に起きた2度目の内戦でまたもや衰退したが再び復活し、2000年代以降はコンゴの文化の1つとして定着している。さらにはサップはコンゴ内に留まらず、アフリカ大陸の多くの国々への進出も果たしている。
サップを嗜むには、「自分たちが暮らす環境が平和であることが第一条件」だと、サプールたちは心の底から理解している。
彼らが必死に働いて、収入のほとんどを高級ブランド服に費やすのは、長い間争いの中で過ごしてきたからこその、平和を願う気持ちがあるからだ。
あるサプールは、「同じ価格の武器と洋服どちらを買うかと聞かれれば、迷いなく洋服を選ぶ」とインタビューで答えた。平日は労働に勤しみ、休日はおしゃれを楽しむ優雅な紳士であることが、彼らの平和を守る手段なのだ。
コンゴ共和国もコンゴ民主共和国も、現在でも決して治安の良い国とは言えない。しかし毎日喧嘩や暴力に明け暮れていた青年でも、サプールとして活動し始めると心が穏やかになり、人が変わったようになっていくのだという。
サプールの多くは貧しい人々だが、高級服を買うために月々決まった金額を洋服店に払う。全額入金し終えて初めてお目当ての服を手に入れられる。
サプールになりたい一心で仕事を探し、職に就く若者もいる。
2010年以降はコンゴでも女性の社会進出が進み、サプールの活動に感銘を受けた女性や子供たちもサップを楽しむようになった。
女性の場合は「サプーズ」、子供は「プチ・サップ」と呼ばれ、皆思い思いのファッションを楽しみつつ、争いのない平和な社会を願い続けているのだ。
サップを嗜む者たちは皆、お互いのセンスを否定したり、自分と他人の服を比べて劣等感や優越感を感じたりはしない。なぜなら相手が着ている高級な洋服が、苦労と努力の末に手に入れたものであることを知っているからである。
サップとは信条であり生き方そのものである
日本から遠く離れた国で活躍するサプールやサプーズの生き方は、私たち日本人にも新たな気付きを与えてくれる。
サップを嗜む者たちは、争いが自分たちに幸福をもたらさないことを身をもって知っている。貧しさが人の心を荒ませてしまうことも知っている。
だからこそ彼らは、高級な服に身を包んでエンターテイナーとして優雅に華やかに明るく振る舞い、他者に敬意を持たれる人間になることで、誇り高く穏やかでいられると考えている。
他者の態度や周りの環境を変えることは難しくても、自分自身を変えることは努力次第で何とかできる。他者を妬まず羨まず、環境を恨まず、まず自分自身を美しく魅せようという精神こそが、サップには不可欠なのだ。
参考文献
『SAPEURS サプール ファッションで道を切り拓く、サプールという生き方』タリーク・ザイディ (著), ヤナガワ智予 (翻訳)
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部