土下座した上からタバコの煙を吐かれ...不祥事でどん底の製薬会社、3代目社長の賭け
医薬品製造業が集まる富山市で1958年に創業した前田薬品工業株式会社。「塗り薬」「貼り薬」などの外用剤で国内トップ5に入る一方、スキンケア製品や蒸留酒、さらには「村づくり」などの新しい事業を次々と始め、注目を集めています。不祥事により一度は倒産しかけた老舗企業が、どうやって再起できたのか。思い切った経営改革を実行した3代目社長の前田大介さんに聞きました。
前田薬品工業社長の前田大介さんは、現在45歳。会計事務所で働いたのち、29歳のときに父が社長をつとめる前田薬品に入社しました。しかしその道のりは苦難の連続だったと、前田さんは振り返ります。
会計事務所では、財務のコンサルタントとして中小企業など約300件のクライアントを抱え、事業承継や民事再生を担当していました。おかげで数字に強く、損益計算書、貸借対照表、キャッシュフロー計算書などを見れば5分でその企業の経営状況がわかるほどになりました。
しかし、2008年に前田薬品工業に入社したときはそんな経歴に関係なく、ゴリゴリの肉体労働の現場からスタートしました。工場で早朝からの薬の調合作業や、1日およそ1万本の商品を右から左へ箱詰めする作業を3年やりました。4年目で執行役員となり、生産管理や工場建設のプロジェクトを任せられるようになりました。
調印式の前夜に暗転
そのころ僕が進めていたのは、大手外用薬メーカーとM&Aをして100%連結子会社となり、30億かけて大規模な工場を新設して受託製造する計画でした。約20億円だった年間売上が5年後には3倍になる計算で、「富山を代表する製薬会社になるぞ!」と鼻息も荒く意気込んでいました。
ところが、いよいよ明日が調印式だという前夜、社内電話が鳴りました。品質保証部の部長からでした。「過去に大手メーカーから受託していた製品の安定性試験に疑義がある」と。慌てて調べると、データの改ざんが発覚しました。そこからすべての歯車が狂い、夢も崩れ落ちました。忘れもしない、2013年9月30日のことでした。
製薬会社にとって、データの改ざんはあってはならない不祥事です。改ざんが一つ見つかると、他にもないか徹底的に探さなければなりません。県の査察が入り、当社製品の4年分のデータを調べ上げられました。
当然、M&Aは実質破棄となり、個人で借金して会社を買い戻すことになりました。新しい工場は、苦楽を共にしてきた優秀な社員20人とともに売却せざるをえませんでした。
タバコの煙を吐きかけられた
3カ月後、社長の父を含む役員全員が引責辞任し、どん底から僕の社長業がスタートしました。取引先や銀行に謝罪に回るのが最初の仕事でした。いきなり3億の貸し剥がしをされ、「助けてください」とメインバンクに頭を下げに行ったこともあります。床に額をつけて土下座した頭の上から、「よくもやってくれたな」とタバコの煙を吐きかけられました。
翌2014年5月、富山県から11日間の営業停止行政処分を受けました。明日つぶれるかもしれないという空気を察して、毎日のように従業員が辞めていきました。昼休み明け、社長室のドアがノックされる音がトラウマでした。人事の担当者が「今日は2通です」「今日は7通あります」と退職願を持ってくるんです。
僕は謝罪行脚の合間をぬって、150人の従業員全員と面談をしました。1人30分から1時間かけて退職したいかどうかも含めて腹を割って話しました。1周終えるのに1年ほどかかりましたが、僕の心身も限界を迎えたのか、ぶっ倒れて起き上がれなくなりました。その時にハーブと出会っていなければ、今の前田薬品はなかったかもしれません。
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得意分野に特化する
体調が回復して仕事に復帰し、従業員と2周目の面談を始めました。くる日もくる日も話を聞いてわかってきたのは、改ざんは起こるべくして起きたということでした。社内の組織構造やコミュニケーション、人間関係の課題がいくつもあぶり出されました。そこで、思い切った経営改革に乗り出すことにしたのです。すでに会社はつぶれたも同然だったので、もう一度、新しい会社をつくるような意識でした。
まずは事業の「選択と集中」に取り組みました。当時306種類あった商品を、3年間で約3分の1に減らしたんです。
当時、厚生労働省がジェネリック医薬品の使用を促進しており、飲み薬の普及が進んでいました。そのうち外用剤でもジェネリックのシェアが拡大するだろうと予測できました。そこで、当時20億円の売上のうち5億円を占めていた飲み薬から撤退し、塗り薬と貼り薬に完全に特化することにしました。
5億円の売上を犠牲にするのは大きな賭けでしたが、外用剤を自社で研究開発してきたからこそ決断できました。人件費、設備投資などあらゆるリソースを外用剤に集中させ、より安定的に供給できるようになれば、市場でも主導権を握れるだろうと踏んだからです。その目論見は見事に当たりました。
それから組織改革に乗り出しました。役員と管理職を再選出することにしました。
それまでは役職によってレイヤーが細かく分かれていて、社長と社員の距離が遠くて声が届きづらい組織体制になっていました。また、管理職の要件が明確ではなく、役職と能力や適性がマッチしておらず不信感が広がっていました。
そこで、役員、各部署のマネージャー、一般社員の3つのレイヤーに減らし、マネージャーの人数を10数人に絞りました。その代わり、マネージャーの給与水準を大きく引き上げました。
それは、京セラ創業者の稲盛和夫さんの「盛和塾」で学んだ「アメーバ経営」を実践するためです。各部署を独立採算にし、社内で取引を発生させるために、マネージャーの責任範囲を広げたのです。
部署の"経営者"として社内取引をすべて記録し、予実対比と精緻な分析ができることを、マネージャーの要件としました。
そのほかにも、会議の回数を増やして問題の発見から解決までを短くするなど、合理的な仕組みを次々と導入しました。ですが、僕はもともと人情に流されやすいタイプ。トップダウンで合理的な経営に踏み切れたのも、社員と家族のように接し、面談をしてきたからこそです。部下からの信頼が厚い女性をマネージャーに抜擢したりもしました。
「私たちは幸せですか?」
売上はV字回復し、改ざん後4年目で黒字を達成できました。そのとき僕は「まだまだ伸ばせる」と感じていました。
2022年に新入社員から70歳の副社長まで全員で長期的なビジョンを考えるためのセッションをしたんです。もともと僕がつくっていた2030年に向けた目標は「売上100億円を達成し、グローバル企業として成長する」といったものでした。
ところが、Z世代の社員から「ダサくないですか...?何も響きません」とこき下ろされたんです。
「会社が成長したら社長はうれしいかもしれないけど、私たちは幸せなんでしょうか?」と。ハッとさせられました。
100億の売上を達成したとしても、社員が幸せとワクワクを感じていない組織はどうなんだろうか。会社の存在意義について考え直すきっかけになりました。(後編に続く)