『清朝末期』19歳でアメリカへ売られ、見世物として「展示」された中国少女
異国の「展示品」となった梅阿芳
19世紀初頭、清朝末期の中国は、長年の鎖国政策を続けながらも、西洋列強による圧力にさらされていた。
1834年、19歳の少女・梅阿芳(メイ・アーファン Afong Moy)は、中国・広州からアメリカへと渡った。
しかし、彼女は自らの意思で渡米したわけではない。
カーニー兄弟(Nathaniel Carne & Frederick Carne)というアメリカ人貿易商によって「商品」として買い取られ、見世物として展示されるために連れて行かれたのだった。
当時、西洋では東洋文化への関心が高まっていた。
特にアメリカでは、中国の絹や陶磁器、茶葉などが富裕層の間で人気を博していた。
カーニー兄弟は、そうした市場の需要を見込み「生きた中国人女性を展示すれば、大きなビジネスになる」と考えたのである。
こうして、彼らは梅阿芳を「清朝の王族の娘」と称し、ニューヨークで公開する計画を立てた。
1834年10月17日、ワシントン号(Washington)という貨物船が、ニューヨーク港に到着した。
その貨物船には、中国からの高級品と共に、梅阿芳も乗せられていたのである。
当時の『ニューヨーク・デイリー・アドバタイザー』紙は、彼女についてこう報じている。
A beautiful Chinese lady, called Juila Foochee ching-chang king, daughter of Hong wang-tzang tzee king, has arrived. Admission is 25 cents. She will no doubt have many admirers.
※New York Daily Advertiser より引用
意訳 :
「美しい中国の女性、ジュリア・フーチー・チンチャン・キング(Juila Foochee ching-chang king)、ホン・ワンツァン・ツィー王(Hong wang-tzang tzee king)の娘が到着した。入場料は25セント。彼女は多くの人々の関心を集めるだろう。」
この時点で、梅阿芳はすでに「見世物」としての運命を背負わされていた。
彼女は、ニューヨークの展示ホールに設置された中国風のセットの中に座らされ、人々の前に姿をさらすことを余儀なくされたのである。
「清朝の王女」として売られる
カーニー兄弟は梅阿芳を「清朝の王族の娘」として売り込んだ。
もちろんこれはビジネス戦略であり、実際には彼女の身元についての確かな記録はほとんど残されていない。
カーニー兄弟は、彼女の展示をより魅力的なものにするため、豪華な装飾を施したセットを用意した。
展示ホールには、中国の工芸品や家具、屏風などが並べられ、まるで「王宮の一室」のように演出されたのだ。
つまり、梅阿芳の展示は、カーニー兄弟が輸入した中国商品を売るための広告塔としての役割も果たしていたのである。
展示会では、彼女の纏足(てんそく)が特に注目された。
※纏足とは、かつて中国で行われていた女性の足を意図的に小さく変形させる風習で、美の象徴とされた。
梅阿芳の足の長さはわずか4インチ(約10センチ)であり、観客は驚きの目で見つめ、彼女の歩く姿に強い興味を示したという。
しかし、当時のアメリカ社会でも、このような展示に対する批判的な声は上がっていた。
We have not been to see Miss Afong Moy, the Chinese lady with the little feet; nor do we intend to perform that universal ceremony, unless we should find the notoriety which the non-performance must occasion inconveniently burdensome. … The lovely creatures were made for anything but to be stared at, for half a dollar a head.
※The New York Mirror より引用意訳:
「我々は、小さな足を持つ中国女性を見に行ったことはないし、今後も行くつもりはない。彼女のような美しい女性は、人々に見世物にされるためにいるのではない。」
このように、一部の知識人層は彼女の展示に対し、人道的な観点から疑問を投げかけていた。
しかし、当時の大衆の関心は高く、展示は大成功を収めた。
入場料50セント
梅阿芳の展示は、1834年11月6日から開始され、彼女は午前10時から午後2時、午後5時から午後9時の間、公開された。
観客たちは、彼女が箸を使って食事をする姿や、流暢な中国語を話す様子を興味津々に見つめたという。
また、通訳を介した質疑応答の時間も設けられ、さまざまな質問に答えさせられた。
さらに、会場内を歩かされることもあった。纏足の影響で彼女の歩行はぎこちなく、その不自然な動きは観客の関心を集めた。
展示会が好評だったことで、カーニー兄弟は当初25セントだった入場料を、50セントに引き上げている。
それでも、展示会には連日多くの観客が詰めかけ、彼らの商売は大成功を収めた。
彼女の存在そのものが「東洋の神秘」として、人々の好奇心の対象だったのだ。
梅阿芳のその後
その後、梅阿芳は、中国へ帰ることは叶わなかった。
展示会は一時的な成功を収めたものの、人々の関心が薄れるにつれ商業的価値を失い、カーニー兄弟にも見捨てられたと考えられている。
行き場を失った彼女はサーカス団に所属し、引き続き見世物として扱われた。
梅阿芳がアメリカに渡った1834年当時、アメリカにはほとんどアジア人が存在していなかった。中国人移民の本格的な流入は、カリフォルニア・ゴールドラッシュ(1849年)を待たなければならず、それまでの15年間、彼女は異国の地で孤独な存在だった。
その後の梅阿芳に関する記録は、ほとんど残されていない。
確認されているのは、1834年から1847年までアメリカ各地を巡回していたこと、そして1850年にニューヨークで最後の展示が行われたことだけである。
梅阿芳の人生の詳細は歴史の中に埋もれてしまったが、アメリカで記録に残る最初の中国人女性移民として記憶されるべき存在である。
しかし、それは自由を求めた旅ではなく、異国の地で見世物として生きることを強いられた数奇な運命だった。
19世紀のアメリカで東洋人女性がどのように扱われたのかを示す存在として、彼女の物語は今も語り継がれている。
参考 :
『Wei Chi Poon, The Life Experiences of Chinese Immigrant Women in the U.S., University of California at Berkeley, 1998.』
『The Chinese Lady and China for the Ladies, Journal of the Chinese Historical Society of America, 2011.』他
文 / 草の実堂編集部