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人類の長い歴史の中で、文字の存在はどんな意味を持ったのか?【声と文字の人類学】

NHK出版デジタルマガジン

人類の長い歴史の中で、文字の存在はどんな意味を持ったのか?【声と文字の人類学】

 「声より先に文字がある」「文字記録が信頼されない」など、意外な事例に満ちた文字の歴史を紐解いた『声と文字の人類学』。構造主義をはじめとする文化人類学理論が専門の出口顯さんが、声に出して話し、文字を読むという日常的な営みについて、人文学の領域を横断しながら論じます。当記事では、本書の「はじめに」を特別公開いたします。

バリ島の貝多羅葉(ロンタール)

出口顯『声と文字の人類学』はじめにより

文字を読み書きするとはどういうことなのか

 私たちの日常は、文字を読まない、書かないではもはや成り立たないと言っていいほどである。

 世界中には文字を読み書きできない人びとが多く存在している(日本も識字率は100%に至っていない)。そのためユニセフのSDGsの目標の一つには、文字を読み書きできるようにする教育の機会を提供することが掲げられている。

 文字を読み書きできないと、言い換えるとリテラシー(読み書き能力)がないと、条件のいい雇用の機会が得られず、豊かな生活を送ることができず、貧困にあえいだままだということである。つまり文盲とは撲滅すべき悪として、口頭によるコミュニケーションのみに頼るしかない事態は乗り越えるべき旧弊として語られる。

 例えば、過去の出来事は、文字で書き残された資料(いわゆる史料)によってよりよく記録・保存されるのであり、口伝えによる保存は、語り部の記憶にのみ頼るために不正確になりがちであり、伝達の過程で変形やゆがみが生じやすいというわけだ。

 さらに、離れた人びと同士を瞬時につなぎグローバル化を一段と加速するソーシャル・メディアやメタバースは、そこで多様な情報が行き交うだけに、乗り遅れるわけにはいかない。そのためにはメディア・リテラシーという一つ進んだリテラシーの獲得が不可欠だというのである。

 しかし本当にそうなのだろうか。そこでは、国連を主導する欧米など先進国固有の価値観が押し付けられてはいないか。近代国家が国民を管理統制する手段として文字(法律の条文、住民票・戸籍などの記録台帳)があったという、文字と権力作用の結びつきが、ここでは等閑視されている。

 「文字」といっても、アルファベット、漢字、かな、ハングル、アラビア文字など、その種類は多様である。しかしこれまで私たちは、メッセージの発信と受信・解読という点で文字の間に本質的な違いはないと、暗黙のうちに考えてきた。それは文字を、あたかも貨幣のように受け止めているということでもある。貨幣は、文化的コンテクストや既存の生産と交換の関係にかかわりなく、社会や文化に変革をもたらす本質的な力を備えていると、社会科学者たちによって理解されてきたが、文字もまたそのようなものとして捉えられてきたのである。しかし、果たしてそうだろうか。

 十五世紀ドイツでのグーテンベルクによる活版印刷技術の発明は世界を変えたといわれてきた。今ではさらに進化し、紙ではなく電子媒体の本が普及し、文字を書くというより(パソコンやタブレットのキーボードで)文字を「打つ」と表現した方がよいくらいである。しかし人類の歴史を振り返ってみると、文字と人間の関わり方というのは、私たちが思っているほど当たり前ではない。

人類の歴史は、文字の歴史より遥かに長い

 文字の登場は今から五、六千年前といわれている。アルファベットのような表音文字や漢字のような表意文字が出現しただけでなく、文字を何に書くか、また何を使って書くかにおいても人類は大きな変化を体験してきた。そしてそれらのことについて、私たちは意外に多くのことを知らない、あるいは忘れている。スマホ(スマートフォン)が当たり前になっている今日では、スマホがなかった時代に待ち合わせの時間に遅れそうなときにはどのように対処したか思い出せないように(しかし、私たちは、例えば駅の伝言板を使いながら、あるいは電話をかければ相手を呼び出してもらえそうな喫茶店を待ち合わせ場所に決めて、誠実に対応し切り抜けていたのであり、それを、乗り越えるべき遅れや問題と単純に呼ぶことはできない)。
 
 およそ七百万年前にまで遡ることのできる人類の歴史は、文字の歴史より遥かに長い。人類は無文字時代が長かったのであり、ヨーロッパが植民地化する以前の(つまりつい最近の)アフリカや南アメリカの先住民社会の多くは、固有の文字を持っていなかったのである。では彼らはどのように、伝達や伝承を行ってきたのだろうか。そして、文字の登場は神話や昔話のような口頭伝承の世界をどのように変えたのか、あるいは変えなかったのか。文字を持たなかった社会はどこでも同じように文字を受け入れたのだろうか。文字によるコミュニケーションと口頭によるコミュニケーション、つまり文字と声はどのように関わっているのだろうか、両者のインターフェイス(境界面)では何が生じているのだろうか。

 これらの問題を考えながら、私たちの日常で当たり前となっている、文字を読み書きするとはどういうことなのかを改めて見つめ直すことが、本書の目的である。なぜなら(文化)人類学とは、異文化の理解を通じて自らの文化の「当たり前」を反省する学問だからである。

 第Ⅰ部では文字の効用をめぐる諸論を検討する。第一章・第二章で、社会人類学の分野においてリテラシーの研究に先鞭をつけたジャック・グディの所論および、活版印刷が人間の感覚を大きく変容したと論じた英文学者のマーシャル・マクルーハン、そしてマクルーハンの盟友ともいうべきウォルター・オングの主張を紹介する。彼らの見解は、はじめに声があったのちに文字が生まれ、文明が発展した、という(「声から文字」とみる)シンプルで常識的な前提に基づいている。こうした、文字が人間の認識に変容をもたらし、論理的思考と科学の発展につながったり、視覚を特権化するという(「声より文字に利点がある」とみる)見解は、文字を持つこと(リテラシー、書承性)と、コミュニケーションを声だけに頼ること(オーラリティ、口承性)との間に、大きな分割線を引くものである。第三章ではこの見解を批判し、文字の出現に対して社会がどのように対応したか、その多様性を、西洋の歴史や無文字社会の例を紹介して、ただ一方的に文字を受け入れるだけではなかったことを明らかにする(「文字より声が重視される」例)。また、読まれないために書かれる文字があるのと同様に、傾聴されないけれども発せられる声があることにも触れる。
 
 書承という見慣れない用語についてここで説明しておこう。昔話などの伝統的な知識を口から耳へ音声のみを介して伝えるコミュニケーションの形式を、とくに民俗学で口頭伝承という。これに対して、リテラシーすなわち文字を読み書きできる能力、ならびに伝えたい事柄を文字に書き記すコミュニケーションの形式をまとめて、本書では書承と呼ぶ。文字を読み書きできる能力だけでは人間の認識能力や感覚に影響を与えることはできず、伝えようという意志ならびに実践が重要な意味を持つからである。

 さて、文字には声を抑圧しようとする力(権力)がある。第Ⅱ部では文字をめぐる権力作用を論じる。その足がかりとして第四章では、グディやマクルーハンを踏まえて文字に対する音声の復権を唱えた山口昌男を取り上げ、楔形文字にも言及して、その議論の前提に音声中心主義が潜んでいら語りかけてきた。これはシャーマニズムを背景としている。さらに、人間の皮膚の表面に模様を描くというピーロの慣習は文字を書くことと結びついており、そこから書くことにおける触覚の重要性と感覚の変容を論じる。これは小泉八雲の「耳なし芳一」や蓮實重彦の『反=日本語論』につながり、そこで再び音声中心主義と出会うことになる。漢字や仮名を書いて覚える習慣を身につけている日本人にとって、言葉は手の記憶と結びついていることを指摘する。

 第八章では、ボルヘスの掌編小説「砂の本」を紹介し、開くたびに内容が異なるような書物の例としてバリ島の貝葉(ロンタール)や有名な『金枝篇』を挙げた後、現代のネット空間で、音声コミュニケーションさながらに書き込みが瞬時の内に変容するさまは、「砂の本」の究極の形であること(「文字が声化する」逆転現象)をみていく。このように、文字と声の関係は決して単純ではないことを、私たちはSNS時代に改めて考え直す必要がある。

 終章では、イギリスの人類学者ティム・インゴルドの「手書き」の擁護を紹介し、コミュニケーションの発達という観点からすれば一段階前の、直筆の手紙によるコミュニケーションに、親密な他者との交流を求める姿勢がまだ残っていることを紹介したい。

著者

出口顯(でぐち・あきら)
島根大学名誉教授・放送大学島根学習センター所長。博士(文学)。1957年、島根県生まれ。専門は文化人類学。著書に『ほんとうの構造主義──言語・権力・主体』(NHKブックス)など。

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