「イケメン俳優と駆け落ち不倫、豪華な海外生活、娘の死」女優・澤蘭子の壮絶人生
戦前の日本映画界において、宝塚少女歌劇団から銀幕へと羽ばたき、美貌と清新な魅力で人気を集めた女優がいた。
彼女の名は、澤蘭子(さわ らんこ)。
蘭子は、10代後半で作曲家と結婚したのち、人気俳優との恋愛関係から失踪事件を起こし、世間の注目を浴びた。
その後、映画出演の機会を求めて海外へ渡り、華やかな生活を送るが、その幸せはやがて戦争の荒波に呑み込まれていった。
今回は、激動の時代を生きた女優・澤蘭子の歩みをたどる。
宝塚から映画界入り。出演した映画が大ヒットし一躍有名に
明治36年(1903)7月、澤蘭子(本名・澤靜子)は、宮城県仙台市に生まれた。
父は漢学者の澤幸次郎である。
大正5年(1916)、東京家政女学校へ進学した蘭子は、姉に連れられて浅草のテノール歌手・田谷力三のオペラ公演を見た。
その夢のような世界に感化された蘭子は、大正8年(1919)に女学校を中退すると、宝塚音楽歌劇学校へ入った。
宝塚へ入ったのにはもう1つの理由があり、将来結婚して平凡な家庭人になるのではなく、自立した女性を目指していたためだったという。
大正9年(1920)、芸名「泉蘭子」で初舞台を踏み、娘役として注目を集めた。
翌大正10年(1921)には『ヘンゼルとグレーテル』『ネヴィーライフ』で主演を務め、将来を期待される存在となった。
しかし、作曲家の松本四郎との恋愛問題が原因となり、同年に宝塚を退団した。
18歳で松本と結婚した蘭子は、再び舞台とは異なる世界に歩み出す。
大正12年(1923)には「澤らん子」の名で松竹蒲田撮影所に入社するが大きな役に恵まれず、同年6月に日活向島撮影所へ移籍した。
しかしここでも活躍の機会を得られず、翌大正13年(1924)、「澤蘭子」と改名して帝国キネマ演芸へ移籍する。
この転機が、蘭子をスターへ押し上げることとなる。
同年6月、若山治監督『恋慕地獄』で初主演を飾り、続く松本英一監督『籠の鳥』で、婚約者を持ちながら避暑地で出会った男性に惹かれてゆくヒロインを演じ、帝キネ創立以来の大ヒットとなった。
「籠の鳥の澤蘭子」と呼ばれるほどの人気を博し、一躍トップ女優の地位を得たのである。
その後も、伊藤大輔監督『星は乱れ飛ぶ』で洋装を見事に着こなすオペラ歌手役を務め、モダンな魅力を持つ女優として映画界の花形となった。
しかし、多忙な撮影が続いた結果、蘭子は肺病を患い、しばらく休養を余儀なくされることとなる。
駆け落ち事件でイメージダウン。スターの座を失う
昭和2年(1927)5月、蘭子は、当時主演級の女優が大勢いた日活へ復社した。
日活撮影所で、40年以上も女優の髪を結い続けた伊奈もとは、蘭子について「妖艶というか、二重瞼に黒みがかった眼、笑うと左に八重歯がのぞき、色気があった」と当時の印象を語っている。
松本四郎との夫婦仲も良好で、周囲からは理想的な夫婦と見られていたという。
復帰後の蘭子は、人情劇『浮世車』で主演を務め、さらに時代劇『忠次旅日記・御用篇』では大河内傳次郎演じる忠次に恋する娘役を熱演し、人気・実力ともに充実期を迎えた。
しかし昭和4年(1929)11月、二枚目スターとして人気の高かった美濃部進(のちに岡譲司に改名)と失踪、いわゆる駆け落ち事件を起こし、世間を驚かせた。
二人は映画で共演した後、深い仲になったという。
「夫婦仲が良い」と思われていた蘭子のイメージは大きく下がり、その後、蘭子と美濃部はともに日活を退社することになった。
二人は事実上の結婚生活に入り、蘭子はいったん映画界から身を引き、声楽やダンスの稽古に励んだ。
その後、宝塚の創設者であり松竹興行の重鎮である小林一三の紹介により、昭和6年(1931)春、松竹蒲田撮影所へ入社した。
美濃部も同時に松竹へ移籍し、芸名を「岡譲二」と改めている。
昭和7年(1932)、島津保次郎監督の『歓喜の一夜』で岡と共演した蘭子は、洗練された都会的女性を演じ、話題を呼んだ。
しかし、松竹では次第に助演に回ることが増え、かつての主演女優としての存在感は薄れていった。
一方、岡は松竹で人気を獲得し、立場の差が二人の関係に陰を落とし始める。
昭和9年(1934)、東京宝塚劇場出演の誘いを機に松竹を退社した蘭子は、P.C.L映画製作所(のち東宝)作品にも出演したが、主役の座を取り戻すには至らず、昭和11年(1936)に同社を退社した。
その後、フリー女優となり、片岡千恵蔵プロダクションの『女殺油地獄』で高く評価されたものの、昭和12年(1937)公開の伏水修監督『白薔薇は咲けど』への出演を最後に、映画界を去った。
同時に、岡譲二とも別れを迎えた。
幸せな海外生活
その後、蘭子は「アメリカへ渡る」という一大決心をする。
アメリカで『マダム・バタフライ』を映画化する計画があり、その主演候補として名が挙がったためである。
昭和12年(1937)夏、蘭子は横浜港から渡航の船に乗り込んだ。
その船上で、新交響楽団(現・NHK交響楽団)の指揮者・近衛秀麿(このえ ひでまろ)と出会う。
ちなみに秀麿の実兄は、首相として3度組閣した近衛文麿である。
近衛は、約2万人を収容するハリウッド・ボウルで指揮を行うための渡米であった。
渡米後、2人はハリウッドで同棲生活を始めた。
当時、秀麿には正式な妻がおり、蘭子は周囲から愛人関係として見られていた。
やがて『マダム・バタフライ』映画化の計画は日米関係の悪化により中止となり、2人はヨーロッパへ渡りドイツ・ベルリンで生活を始める。
蘭子は声楽とドイツ語を学び、近衛の演奏会に同行するなど、社交界でも注目を集める華やかな日々を送った。
昭和15年(1940)2月には娘・曄子(ようこ)を出産する。
しかし戦争の激化により、幸せな生活は一変してしまうのである。
疎開地での極限生活と娘の死
昭和19年(1944)蘭子は近衛と離れ、娘を連れてバーデンバーデンへ疎開した。
翌昭和20年(1945)5月、ドイツ降伏後はベルリン郊外のソ連軍占領地区にある古城に立て籠もり、100人以上の邦人とともに食料も乏しい極限状態で、タンポポの葉を食べるなどしてしのいだという。
その後、ソ連軍が入城してきて、蘭子たちはバスに乗せられて移動することになった。
夜は南京虫やしらみがいる空き家で寝て、食べ物は1日に藁を混ぜたパン1つといった辛い状態が何日も続き、同年6月、満州里に到着した。
同年8月、満州にソ連軍が侵攻し、だれ彼なしに銃殺するという状況の中を、蘭子はなんとか生き延びることができた。
しかし翌9月、娘・曄子が、栄養失調のため5歳で亡くなってしまったのである。
蘭子にとって最大の悲劇であった。
その後、ハルピンを経て、翌昭和21年(1946)9月に引き揚げ船で博多に上陸し、京都の姉のもとに身を寄せた。
やがて蘭子は、再び映画界に復帰して数本の作品に出演したが、役は脇役に留まり、やがて映画を離れて歌の道へ進む。
日劇や各地のミュージックホールのステージに立ち、特に人気の出たのは大阪・道頓堀角座に出た頃で、1ヶ月連続で1日3回のステージをこなしたという。
後に銀座や京都でクラブやバーを経営し、第一線を退くと、親しい人を迎えたり、シャンソンを楽しむなど自由な晩年を過ごした。
平成15年(2003)1月11日、京都市内で老衰のため死去。享年99。
宝塚から映画界へ、そして戦禍の欧州をさまよい、帰国後は歌の道で人生を切り拓いた澤蘭子。
華やかな舞台の光と、戦争に奪われた深い悲しみとを胸に抱えながら、激動の時代を懸命に生き抜いた女優の生涯であった。
参考 :
大島幸助「銀座フルーツパーラーのお客さん」文園社
筒井清忠編「銀幕の昭和」清流出版
文 / 草の実堂編集部