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「逆玉も楽じゃない?」王冠なき王アルバートと、英国女王ヴィクトリアの絶妙な権力バランス

草の実堂

画像:1854年のアルバートとヴィクトリア public domain
画像:ヴィクトリア女王一家 public domain

19世紀中盤、英国の政治と社会の変革を象徴する存在が、ヴィクトリア女王アルバート王配の関係でした。

ヴィクトリア女王は1837年に即位し、1901年に崩御するまでの長きにわたり統治を行い、その治世は「ヴィクトリア時代」として知られています。

彼女の夫であるアルバート王配は、単なる配偶者にとどまらず、王室の在り方を改革し、政治や文化にも影響を与えました。

一方で、この2人の関係は単なる理想的なロイヤルカップルというものではありませんでした。

気性が激しく感情を表に出しやすいヴィクトリアと、冷静で勤勉なアルバートの間には、どのような力関係が存在していたのでしょうか。

今回は、夫妻の歩みをたどりながら、そのバランスの変遷を探っていきます。

王位継承者の花婿選び

画像:戴冠式のヴィクトリア女王 public domain

1836年、17歳の若さで王位継承者と目され、母であるケント公爵夫人と共にケンジントン宮殿で暮らしていたヴィクトリアの元には、花婿候補たちが次々と訪れていました。

しかし、訪問者である若いプリンスたちへのヴィクトリアの評価は辛辣で、オランダ王族であるオラニエ家の2人の公子たちにいたっては、醜く愚鈍と感じるほどでした。

ちなみにヴィクトリア自身は身長145cmほどで、生涯彼女を悩ませる肥満が既に身体に現れていました。
教養に関する好奇心は控えめで、後に夫となるアルバートとは対照的でした。

ともあれ、数いた候補の中で彼女の目を引いたのは、現在のドイツにあたる公国ザクセン=コーブルク=ザールフェルトの2人の王子、エルンストとアルバートでした。

とりわけアルバートの容姿を気に入っていましたが、舞踏会などの社交には関心を示さなかったアルバートは、ほとんど部屋にこもっていたため、二人の関係に大きな進展はありませんでした。

しかし、同年にウィリアム4世が崩御し、ヴィクトリアが即位すると、ベルギー国王レオポルド1世の勧めもあり、アルバートが再び花婿候補として浮上しました。

アルバートは容姿こそ整っていたものの、英語が得意ではなかったため、ヴィクトリアは当初ためらいもあったようです。

しかし、再会を果たすと改めて彼の容姿の良さに高揚し、再会の4日後には彼女の方からプロポーズを果たしたのです。

逆玉も楽じゃない

画像:1840年時のアルバート公子 public domain

けれども、アルバートの前途は棘だらけと言っても差し支えのない状態でした。

このドイツ人プリンスに対し、イギリス議会は帰化することに異存はないものの、どのような身分を与えるかについて意見が割れ、結論が出せなかったのです。

そのため、最終的にヴィクトリア自身が王令により「公式な場において優先される上席権について、プリンスは女王に次ぐ権利を持つ」と決定せざるを得ませんでした。

しかし、議会の同意を得られないままの決定は、国外における上席権の問題を片付けることができませんでした。
よって大ブリテン島を一歩出れば、アルバートは自身の扱われ方に大いに不満を抱くであろう可能性が残ったのです。

もはや、イギリス政界がこの外国からのプリンスを歓迎していないことは明白でした。それを裏付けるように議会は、アルバートに肩書、軍隊での階級、貴族院での資格も与えないことを決定したのです。

王族費に関しても、アルバートが求めた5万ポンドのうち、認められたのは3万ポンドのみでした。
それは「アルバートは、たまたま女王の夫となった外国の公子に過ぎない」と言わんばかりの扱いでした。

あくまでアルバートは、実権や王位継承権を持たない、女王の配偶者たる「王配」に過ぎなかったのです。

産休がもたらしたパワーバランスの変化

画像:1854年のアルバートとヴィクトリア public domain

それでも2人の私的な間柄は仲睦まじいもので、新婚の間にヴィクトリアが親族に送った手紙には、結婚生活の幸福さが熱烈に綴られていました。

しかし、ヴィクトリアはアルバートを熱愛する一方で、夫と権力を共有することに関しては頑なに拒否していました。
アルバートは国務に関する文書の閲覧を一切許されず、宮廷内の事案についても何も知らされませんでした。
ヴィクトリアは毎日のように首相と長時間話し込み、国務に勤しむ一方で、夫アルバートの公的な立場、公務に関しては文字通り放置だったのです。

けれども、このパワーバランスは徐々に変化をしていきます。それはヴィクトリアの度重なる妊娠と出産がきっかけでした。

1840年11月に長女ヴィクトリアが誕生して以降、女王は9回の出産を経験します。世継ぎを産むことは君主としての義務でもありましたが、そのたびに公務を中断せざるを得ない状況に、ヴィクトリアは苛立ちすら覚えていました。

一方、アルバートは外交に対する知見を持ち、真面目な性格から次第に周囲の信頼を得ていきました。産褥期を私室で過ごすしかないヴィクトリアに代わり、枢密院会議に代理出席するようになり、外交関係の書類を彼女に届ける役目を負うようになります。

この女王の私設秘書かのような役割を、アルバートは喜んで買って出ていました。

こうしてアルバートが政府文書の内容を把握するようになると、彼は自然な流れで妻に助言を与え始めました。これに対しヴィクトリアは君主としての苛立ちを覚えながらも、妊娠・出産を繰り返したため、夫の存在感が高まることを受け入れざるを得ませんでした。

限りなく続く公務の補佐を控えめに、生真面目に行うアルバートに対し、人々の評価は次第に高まっていきます。

王配として軽んじられていた彼は、やがて「王冠なき王」として、事実上ヴィクトリアと共に英国政治の舵取りをする存在となっていったのです。

早すぎる永遠の別れ

画像:1861年のアルバートとヴィクトリア public domain

こうして、絶妙なバランスの上に成り立っていたヴィクトリア女王夫妻の関係は、1861年12月14日、アルバートの死によって終焉を迎えました。

42歳という若さでこの世を去った夫の死は、ヴィクトリアにとって計り知れない衝撃と深い悲しみをもたらしました。
彼女はその喪失感から立ち直ることができず、以後1901年に崩御するまで、喪服を纏い続けました。

アルバートの死後、ヴィクトリアは10年間公務を控え、ほとんど人前に姿を現さなくなりました。

しかし、彼女が王位にある限り、国の象徴として君臨し続けなければならない運命からは逃れられませんでした。
彼女の統治はアルバート亡き後も30年にわたり続き、その間、イギリス帝国は最盛期を迎えました。

イギリス黄金期の礎はアルバート王配の知性と人柄、そしてヴィクトリア女王の強い政治的意志が結びつくことによって、築かれていたといっても過言ではないでしょう。

参考文献:『ロイヤルカップルが変えた世界史』ジャン=フランソワ・ソルノン(著) 神田 順子(翻訳) 清水 珠代(翻訳)他
文 / 草の実堂編集部

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