東京スカイツリー。天空の現場で起きていた、知られざるドラマ――試し読み『新プロジェクトX 挑戦者たち』
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版の第一作『新プロジェクトX 挑戦者たち 1』より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。
<strong>東京スカイツリー 天空の大工事――世界一の電波塔に挑む</strong>
1. 世紀の難工事
延べ58万人の熱き思い
2012(平成24)年、東京のど真ん中に天を衝くタワーが出現した。世界一の高さを誇る自立式電波塔、東京スカイツリーである。
高度成長の象徴として1958(昭和33)年に完成した東京タワー(日本電波塔)の一大プロジェクトから半世紀、日本の建設業界が叡智を結集して臨んだ東京スカイツリーの建設は、高層建築の記録を飛躍的に更新した。その裏には、誰にも語られていないドラマがある。
天空の大工事である。634メートルのタワーを築く前人未踏の現場には、たたき上げの鳶職人ですら尻込みをした。最大風速は台風並みの30メートル超。荒天になれば、雷鳴や吹雪が足下から襲ってきた。
現場は予期せぬ出来事の連続だった。2011(平成23)年3月11日、午後2時46分、完成目前のタワーが大きく揺らいだ。マグニチュード9.0の巨大地震。東日本大震災は、難工事の「弱点」を突いた。高所で作業していた職人たちは、立っていられない恐怖に「死」を覚悟した。
スカイツリーの建設は、そもそも工法自体が超難題だった。3万7000ピースもの鉄骨を立体パズルのように精密に組み上げなければならない。一つのミスが命取りになる。最新の技術を駆使してもなお、頼りになるのは人の力だった。
施工の責任を背負った技術者には、上司への誓いがあった。
最強の鉄板と格闘したプレス職人には、妻との約束があった。
鳶たちを率いたリーダーは、震災の危機の中で重い決断を下した。
設計会社、ゼネコン、鉄鋼メーカー、鋼材加工工場、熟練の鳶集団、選りすぐりの溶接工や塗装工たち……。延べ58万人が、それぞれの思いを胸に秘め、未知の領域に挑んだ。これは、世界一の電波塔建設に誇りをかけた者たちの熱き物語である。
東京タワーに代わる電波塔を
2003(平成15)年、バブル崩壊から10年が経った東京の都心。200メートル級の高層ビルが次々に建設される中で、見過ごすことのできない問題が持ち上がっていた。関東一円の情報網を支える電波塔の役割を担ってきた東京タワーの周辺を高層ビル群が取り囲み、電波が遮られる障害が多発していたのである。
同年12月、関東・近畿・中京地区を皮切りに地上デジタル放送がスタートした。電波を安定して送信するためには、新たな電波塔の建設が急務だった。必要とされる高さは東京タワー(333メートル)の約2倍。実に、600メートル級の建造物を首都圏に構築しなければならない。放送事業者6社は「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足させ、空前の計画が動き出した。
新しい電波塔をどこに建てるか? 日本一高い建物が完成すれば、間違いなく関東屈指の観光名所になる。10を超える地域が誘致に名乗りを挙げた。2006(平成18)年3月、建設地に決まったのは、近くを隅田川が流れる墨田区押上の一角。東武鉄道の貨物ヤード跡地だった。
土地を所有する東武鉄道は、新タワー誘致に際して、設計を業界最大手の日建設計に依頼していた。日建設計は東京タワーの設計企業であり、名古屋テレビ塔(180メートル)、福岡タワー(234メートル)、瀬戸デジタルテレビ放送所電波塔(245メートル)など、数々のタワー設計を手掛けてきた。海外でも、中国の大連タワー(190.5メートル)などを設計した実績がある。
敷地は東京タワーの4分の1
新タワーのデザインは、同社の意匠設計者、吉野 繁が任された。が、初回の打ち合わせから面食らった。
「半信半疑でしたね。東武鉄道さんから『時空を超えたランドスケープをつくってください』と言われたんですが、『こんな場所に、600メートルを超えるタワーが本当に建つのか?』というのが最初の印象でした」
その敷地には、致命的な難点があった。狭さである。350メートル×100メートル程度と、四方の長さが均等ではなく、地下鉄が敷地内を横断しているため、そこに新タワーを建てるとなれば、足元の面積は東京タワーの4分の1という狭さとなる。
「エッフェル塔や東京タワーのプロポーションは、およそ3対1。高さ300メートルに対して、足元は100メートルくらいが構造として合理的なんです。600メートルを超える建物であれば、敷地の一辺は200メートルは欲しかった」
入社以来、才能を見込まれた吉野は、いくつもの困難な案件を任されてきた。しかし、実現に至らないケースも多々あった。10件やって、実際に建つのは1つ。新タワーの直前に携わった案件でも、大きな模型をつくってプレゼンを始めた途端、「それ、気に入らないから」という建築主の一言で不採用になっていた。
そんな悔しさを、吉野はバネに変え、地図上に何度も線を描いた。敷地の制約で、東京タワーのような正四角形の足元ではなく、一辺をもっとも長く取れる正三角形にしても、68メートルが最大値。だが、3本脚ならどんな地形の上にも置けることは、古代の土器が示していた。
一方で、譲れないこだわりがあった。日本一の高さを誇るタワーに展望台は欠かせない。吉野は、これまで世界各地のタワーを視察した結論として、訪れた人は必ず自分の国や家の方向を見ることから、展望台はぐるりと一周できる円形であるべきだと考えていた。
「設計段階で形を求めるための模型は無数につくりました」(吉野)
たどり着いたのは、3本の脚で立ち、上に伸びると円形に変わる独創的なデザイン。地上350メートルと450メートルの高さに一円を見渡せる展望台を設置し、最上部にデジタル放送用アンテナを搭載したゲイン塔を取り付ける。
縦横比9対1のプロポーションは、東京タワーのようなどっしりとした印象には乏しかった。だが、有識者も参加したデザインを検討する会議では、吉野の新タワーのデザインにある「そり」と「むくり」に注目が集まった。断面を正三角形から円に移行しつつ、上空に向かってなだらかに細身になる外観には、日本刀のような曲線(そり)と、寺院建築の柱のようなふくらみ(むくり)という2つの特徴が表れる。そのデザインは、有識者たちからこう評価された。
「細長い建造物には日本の雅的な美しさがある」
日建設計で吉野とともに新タワーの設計に携わったのは、構造設計者、小西厚夫。
「600メートルを超えるタワー建設は、誰も手掛けたことがない。教科書も指針もない。会社で『やってみないか』と言われたときは、想像を超えていたという意味で現実味がなかったんですが、やり始めるとどんどん坂が急になっていく思いがしました」
小西に課せられたのは「このノッポなタワーをあらゆる地震に耐えられるものにせよ」という構造上の難題だった。必要なのは、建設場所で想定しうる最大規模の揺れへの対策。タワーの揺れが一定以上に大きくなり放送設備に被害が及ぶと放送が途絶し、地震直後の被災地にとって命綱である情報発信がとだえてしまう。
頭の中には入社6年目に遭遇した、あの惨状が焼き付いていた。
地震直後でも放送が継続できる制振機構の開発
1995(平成7)年1月17日、神戸市灘区に住んでいた小西は、阪神・淡路大震災を経験した。小西が愛する建築物が、一瞬で人の命を奪った。3年間、被災した建物を復旧する仕事に携わりながら、小西は唇を噛みしめた。
「とにかく悔しかったですね。私も神戸の町が好きで住んでいたんですけれども、それが惨憺たる姿になったというのは、とても受け入れられない感じだった」
以来、小西は構造設計のエンジニアとして地震対策に執念を燃やしてきた。人知を尽くす――小西が一番大事にしている言葉である。ただし、地震は自然災害でありその全てを人が制することはできないことを謙虚に受け止めつつも、人としてやれることをやりきるというこの言葉は印象以上に厳しい信念であり、やれることを最後までやりきらない自分が許せない。頑固一徹ぶりは社内にも知れ渡っていた。意匠設計の吉野は言う。
「議論していると、『そんなのはできないよ』と言下に否定されることもあって、小西とはしょっちゅう喧嘩していました。腹立たしかったですよ。けれども、突き詰めていくと、小西は正しいことを言っているんですよね」
ダメなものはダメ。どれだけ急かされても、「まだわからん」と突っぱね、小西は電卓を叩いてひたすら計算に明け暮れた。大きな地震が高い確率で発生し、毎年大きな台風が襲来する日本は、高層の構造物の設計にとって世界でもっとも厳しい地域の一つである。そこに初めて計画する600メートル級構造物が抱える未知のテーマは多岐にわたり、かついずれも難題であった。小西は、これまで培われた日本国内の研究論文に埋まりながら、耐震・耐風をはじめとする建築工学の学識経験者とともにこの難題を解いていた。日本には、厳しい自然環境の中でも信頼できる600メートル級構造物を実現するための研究と技術の蓄積がすでに備わっていた。小西はそれを、粛々と設計に落とし込みまとめていたのだ。
「結局、ずっと考えているんですね。そうしないと解けないというか、解いても、もっといい案があるんじゃないかとか。自宅に戻っても、気がついていないことがまだあるかもしれないと思って調べ始めたり。夜中に起きて、電卓を叩いて、数字をつくってみて、ようやく眠ることができた」
そして小西はとんでもないものを持ち出した。「心柱」である。
塔体の内部に建設する構造体はシャフトと呼ばれる。高速エレベーターなどの設備が入るシャフトは円筒形で、その筒の中を心柱が貫く。心柱は、長さ375メートルに及ぶ鉄筋コンクリート製。地震の際、鉄でできた塔体よりコンクリート製の心柱のほうが少しゆっくり揺れるように設計されている。そうすることで、心柱は塔体につかず離れず、遅れて揺れるため互いの揺れを打ち消し合う効果を生む。
果たして、そんな建造物が本当につくれるのか? 不安視する声も挙がった。が、小西に妥協はない。
計算は徹底的にやり尽くしている。建設場所で想定されるあらゆる地震、たとえば東京でもっとも大きな揺れを起こすといわれる海溝型の長周期地震動や、未知の直下型地震の揺れなどまで想定したシミュレーションを徹底的に重ねた。たとえ大地震が敷地近くで起きても、タワーの揺れを効果的に抑えて設備を稼働させ続け、被災地の命綱である放送を地震直後も継続するためには、心柱制振機構が必要であるというのが小西の主張であり、阪神・淡路大震災の被災者としての思いでもあった。
2006(平成18)年11月24日、新タワーのデザイン発表の日。意匠設計の吉野と構造設計の小西たちによる新タワーの姿は、建設業界を震撼しんかんさせた。縦、横、斜めに無数の鉄骨が幾何学的に連なる塔体。その断面は、三角形から段階的に円形へと変化する。しかも中心には、重さ1万トンもの巨大な心柱。
見たこともない建造物。建設関係者は、みな頭を抱えた。
2. 技術者人生をかけて
無数の鉄骨をいかに組み上げるか
日本の建築史に新たな1ページを刻むタワーの建設は、ゼネコンにとっても垂涎の案件だった。施工者はコンペで決まる。とはいえ、「建設できる」という裏付けがなければ、安易に手を挙げることはできない。
無数の鉄骨をどのように組み上げるのか。直径6メートル・長さ140メートルものゲイン塔を、いかにして地上500〜600メートルのタワーの最上部に取り付けるのか。完成図は描けていても、そこに至る道筋は示されていない。どんなやり方なら、この巨大タワーを建てられるのか……。
途方もない難題に、名だたるゼネコンが挑んだ。スーパーゼネコンと称される大手の一つ大林組で、その大役を任されたのは当時45歳だった田辺 潔。これまで、数々の難工事を斬新なアイデアで救ってきた、大林組の「頭脳」である。しかし、世紀の大工事の受注に向けて盛り上がる社内で、田辺は一人静かだった。
「正式に命じられなければ自分の仕事ではないので、あまり関わらないようにしていました。たいへんだからです、たいへんに決まっているから、関わらないほうがいいと思っていたら、ある時期に『いや、これは君の担当だ』と、いきなり仕事を振られたんです。軸組フレームだけでつくりあげていくタワーというのは、ビルと違って床がありませんから、極端な言い方をすれば地上600メートルでサーカスをするような状況を想定しなければならない。素人みたいな発言ですけれども、『これ、どうやって建てるんだ?』というところからのスタートでした。社内的に、『おまえが施工計画を決めなきゃ誰も仕事にならないぞ』というプレッシャーがあって、そうはいっても地道に下から積んでいくような計画では絶対に技術提案コンペには勝てませんから、朝から晩まで悩み通しだった」
技術屋の意地
受注を勝ち取るために、社内では生産技術部と特殊工法部から精鋭が集められ、研究開発グループが発足した。田辺の悩みを、メンバーの水島好人も共有した。
「従来からある自社の工法を組み合わせて草案をつくってみると、建設には5年もかかってしまう。コンペでは工期も他社との競争になるので、38か月から42か月くらいで検討することになり、どうやったら工程を圧縮できるかということも大きな課題でした」(水島)
田辺の1年後輩で生産技術部にいた田村達一は、2003(平成15 )年に完成した六本木ヒルズの計画に携わった経験から、こう述べる。
「倍速で建物をつくる一番簡単な方法は24時間仕事をすることです。六本木ヒルズは、夜間も工事をすることで、約3年で竣工できた。一方、新タワーは東京の下町に建てるから夜間に大きな音は立てられなかった」
工期の壁は、技術力で乗り越えるしかなかった。田辺は、自身のエンジニアとしての矜持を支えている上司の訓戒を反芻した。
選りすぐりが集まる生産技術部に田辺が配属されたのは29歳のとき。口下手で、人前に立つのが苦手ながら、ついに一人前のエンジニアとして認められたと思った。が、その鼻はすぐにへし折られた。自信を持って提出した施工計画。気づかなかった問題点をズバリと指摘して却下したのは、社内一の辣腕で鳴らしていた上司の鳥居 茂だった。
田辺や水島の手元には、鳥居の厳格さを物語る一通の書面がある。部下たちを震え上がらせた、通称・鳥居通達。曰いわく、「とにかく自分で勉強して知識を蓄え、技術力は自分でつかむこと」。
田辺は、当時の記憶をたぐり寄せる。
「最初に施工計画を見せたときに、『なんだ、これは。おまえはそれでも技術屋か』と、鳥居さんからガツンと言われたわけですよ。『技術屋なんだから、もっと技術の裏付けがあるものを持ってこい』と。グサッときました。そのときの私は、たぶん楽な設計をしていたんでしょうね」
鳥居の鞭撻に田辺は奮い立った。4年間、毎日のように社内の書庫に籠もり、過去の施工記録を読みあさる。人一倍研究熱心な田辺は、伝統建築から最新技術、さらには特殊な工法まで、しらみつぶしに学んだ。その知識の蓄積が、新タワー建設の難問を解くカギになった。自社の技術であるリフトアップ工法とスリップフォーム工法を駆使し、田辺は前例のない大胆なプランをまとめ上げた。
塔体は3万7000ピースの鉄骨を立体パズルのように地上から組み上げていく。ゲイン塔を設置する500メートル以上では危険の度合いが増すため、ゲイン塔は地上で組み立て、シャフトの空洞を通して吊り上げる(リフトアップ工法)。そうすれば、高所作業を最小限にすることができる。
心柱は、ゲイン塔の後を追いかけるようにコンクリートを積み上げてつくる(スリップフォーム工法)。タワー中心のわずかな空洞を巧みに利用したアイデアだった。
功名心は捨てよ
2007(平成19)年、新タワーの施工は大林組が受注した。とはいえ、万に一つでも工法に穴があれば、工事は命の危険に直結する。かつての東京タワー建設では、高所作業中の墜落死も発生した。新タワーは、そのときの2倍の高さ。日本の建設業界にとって未知の領域である。
「施工会社は、工事が始まる前に建設工事保険を掛けておくんです。ところが、『建てられるかどうかもわからないような建物には保険金が設定できません』と保険会社から言われて、納得してもらえるまで事細かに実施計画を説明しなければなりませんでした」(田辺)
田辺のプランを安全に、なおかつ確実に遂行するためには、現場の目線で解決しなければならない課題も山積していた。田辺の部下で現場配属になった生産技術部の長野義邦は述べる。
「いままでの経験値を上手く利用できる部分が少なく、すべて新しく考えていかなければなりませんでした。たとえば、現場で使う足場です。普通のビルとは違い、建設中の塔体は三次元的に形状が変化していきますから、設置する足場も既製品を使い回すことができなかった。しかし、毎回変わる形状に合わせて足場を製作するのは不可能に近い。そこで、伸縮して形が変わり、さまざまな形状変化に対応できる特殊ユニット足場を独自に考案しました」
鉄骨を高所に吊り上げるタワークレーンも通常のものは使えなかった。建設途中で地震が起きた場合、高所ではクレーンのマスト(支柱)が揺れに耐えられない可能性があるという施工時解析の結果が出ていた。この課題をクリアするため、特注した強化マストと、油圧で揺れの影響を軽減する制振ダンパーを壁繫ぎに組み込んだタワークレーンが現場に導入されることになった。
さらに、高所作業の安全性を高める創意工夫。養生のために張るネットは、台風並みの強風に晒されても外れることがないよう、ワイヤーで補強する。そして、強風対策として開発された、とっておきの装置がスカイジャスターだった。
「クレーンの吊り荷は強い風にあおられるとグルグル回り出すことがあって、これを人の手で止めるのは厄介な作業です。コマの原理を使ったジャイロ機構の働きで、ある程度の回転を止める装置は以前から自社にありましたが、そこに改良を加えて性能を高め、回転を制御するだけでなく、吊り荷の姿勢をコントロールすることも可能にしたのがスカイジャスターでした」(長野)
2008(平成20)年6月、新タワーの名称が「東京スカイツリー」に正式決定した。世紀の難工事の責任者となる総合所長に就任したのは、あの鳥居茂。その指揮下で、田辺は副所長の一人として現場を動かす役目を担った。
田辺が試行錯誤の末にまとめあげた施工計画に対して、鳥居は何も言わずに承認していた。鳥居の一発OKは異例のことだった。
「技術力は自分でつかめ、自分の技術力を信用しろ」
幾度となく聞いた鳥居の言葉である。それを田辺はあらためて肝に銘じた。
「本当にできるかどうかわからないことを成し遂げようと思ったときに、われわれ組織人は……、サラリーマンと言ったほうがわかりやすいかもしれませんが、先のことを考えてしまうんですよ。けれども、その気持ちが強くなって、『認められたい』とか『成功したら昇進できる』とか、功名心みたいなものが出てくると、逆にプレッシャーになって思い切ったことができなくなる。だからスカイツリーの建設が始まったら、自分の技術を信用して、やるべきことに最善を尽くすことだけを考えようと自分に言い聞かせていました」
功名心を振り払うために、田辺は念じた。先はない、これが最後の仕事のつもりで技術者人生をかけ、東京スカイツリーの建設は必ずやり遂げてみせる――。