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『古代中国』たった一人で秦を出し抜いた男! 「完璧」の語源となった伝説の交渉術とは?

草の実堂

画像 : 藺相如完璧歸趙 public domain

戦国時代の中国とは? 強国の秦 vs それに抗う諸国

いまから二千年以上前、中国は幾つもの国が覇権を争う戦国時代(紀元前475年~紀元前221年)にあった。

この時代、七つの強国「秦・趙・楚・斉・燕・韓・魏」が互いに領土を奪い合い、戦乱が絶えなかった。

画像 : 紀元前260年の戦国七雄 wiki c Philg88

この七国の中でも、西の秦は特に強大だった。

厳格な法制度と圧倒的な軍事力を誇り、周囲の国々を次々と飲み込んでいった。

そんな中で趙は、胡服騎射(こふくきしゃ)という軍制改革を取り入れ、強力な騎兵部隊を擁していた。
※胡服騎射とは、趙の武霊王が採用した軍事改革で、胡族の服装と騎射戦術を取り入れ、機動力に優れた騎兵を育成した。

趙は当初、秦と互角に戦っていたものの、次第に国力の差が広がっていった。

こうした中でも、趙が滅亡せずに粘り続けた背景には、ある人物の存在があった。

その人物こそ、藺相如(りん しょうじょ)である。

彼はもともと無名の食客にすぎなかったが、知略と胆力を武器に、一気に国の重臣へと上り詰めた。

そして、彼の名を歴史に刻んだのが、「和氏の璧(かしのへき)」を巡る秦との交渉である。

藺相如はこの交渉で巧みに立ち回り、趙の誇りを守り抜いた。この出来事が、後に「完璧」という言葉の語源となる。

今回は、藺相如と「和氏の璧」について紐解いていきたい。

和氏の璧とは

戦国時代、楚で発見された「和氏の璧(かしのへき)」と呼ばれる天下の名玉があった。

画像 : 和氏の璧イメージ 草の実堂作成(AI)

この宝玉は、やがて趙の恵文王の手に渡った。

これを知った秦の昭襄王(しょうじょうおう)は、恵文王に「和氏の璧と引き換えに、15の城を譲る」という申し出を持ちかけてきた。

一見、魅力的な提案のように思える。しかし問題は、秦が本当に約束を守るのか保証がないことにあった。

もし、璧を渡した後に城が得られなければ、趙の威信は失墜し、他国からも侮られてしまう。
かといって、この申し出を断れば、秦に侵攻の口実を与えてしまうことにもなりかねない。

趙の朝廷では激しい議論が繰り広げられた。

最終的に趙王は、藺相如(りん しょうじょ)を使者として秦に派遣する決断を下す。

当時、藺相如は宦官・繆賢(びゅうけん)の食客に過ぎなかったが、繆賢が「知略に優れた人物」として趙王に推薦したのだ。

こうして、藺相如は「もし秦が約束を破った場合、必ず璧を持ち帰る」と誓い、秦の都・咸陽へと向かったのである。

「完璧」の語源!咸陽での交渉戦

画像 : 昭襄王 public domain

藺相如が秦の昭襄王に璧を献上すると、王は満足げにそれを手に取った。

しかし、しばらくしても15の城を引き渡す話が出る気配はない。
むしろ、昭襄王は群臣や寵姫に璧を見せびらかし、まるで既に自分の所有物であるかのように振る舞い始めた。

これを見た藺相如は、すぐに秦の真意を見抜く。

藺相如はとっさに「実はこの璧には小さな傷があります。王自らご確認いただきたい」と進み出た。

昭襄王が興味を示した瞬間、藺相如は璧を取り返し、柱の前に後退して立った。

そして、怒気を込めてこう宣言したのだ。

「趙王は貴国を信じ、5日間身を清めてこの璧を献上しました。しかし、秦王は城を渡すどころか、ただで宝玉を手に入れようとしている。このままでは、趙は大国の誇りを失います。私は趙の威信を守るため、璧をこの柱に叩きつけて砕く覚悟です!」

画像 : 藺相如完璧歸趙 public domain

昭襄王は動揺した。

もしここで藺相如を殺せば、趙との交渉は決裂し、周囲の国々から非難を浴びるかもしれない。
王は仕方なく、「ならば城を引き渡す準備を整えよう」と伝えた。

しかし、藺相如はそれを信用しなかった。

彼は「趙王が璧を献上する前に5日間潔斎したように、大王も同じように潔斎してください」と申し出る。

昭襄王はそれを受け入れ、5日後の正式な儀式を約束した。

その間に、藺相如は密かに部下に命じて璧を趙へ持ち帰らせる。
そして5日後、昭襄王が「城を渡す準備が整った。璧を出せ」と命じたとき、藺相如は平然と答えた。

「すでに趙へ送り返しました。秦王が本当に誠意を示すならば、先に15の城をお渡しください。その後、改めて璧を献上いたします。」

さらに

「私は秦王を欺いた罪に問われるべきです。どうぞ私を煮殺してください」

とまで言い放ったのだ。

秦側は、謀略が失敗したことを悟った。

昭襄王は激怒したが、結局、藺相如を処刑することはできなかった。
むしろ彼の胆力に感嘆した王は、「使者としての役目を果たしたのだから」と、手厚くもてなし、無事に趙へ帰国させたのである。

こうして藺相如は、秦の策謀を見抜き、趙の誇りを守り抜いた。

この「璧を完(まっとう)する」見事な交渉術が、後に「完璧」という言葉の語源となったのである。

藺相如が残したもの 「完璧」の教訓

画像 : 藺相如(りんしょうじょ)聖君賢臣全身像冊 public domain

藺相如が見せた知略と胆力は、単なる外交交渉の成功にとどまらない。

彼の機転と決断力がなければ、趙は秦の策略に屈し、国の威信を損ねていただろう。
この出来事は、戦国時代の外交戦略における模範として語り継がれ、後の時代の政治家や交渉人にとっての指針となった。

「完璧」の故事は、単なる言葉の語源ではなく、「信義を守り、知恵と勇気をもって逆境を切り抜ける」ことの象徴である。

藺相如には他にも「黽池の会」や「刎頸の交わり」などの有名な逸話があるが、それはまた別の機会に紹介しよう。

参考 : 『史記』「廉頗藺相如列伝」司馬遷 他
文 / 草の実堂編集部

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