『古代中国』たった一人で秦を出し抜いた男! 「完璧」の語源となった伝説の交渉術とは?
戦国時代の中国とは? 強国の秦 vs それに抗う諸国
いまから二千年以上前、中国は幾つもの国が覇権を争う戦国時代(紀元前475年~紀元前221年)にあった。
この時代、七つの強国「秦・趙・楚・斉・燕・韓・魏」が互いに領土を奪い合い、戦乱が絶えなかった。
この七国の中でも、西の秦は特に強大だった。
厳格な法制度と圧倒的な軍事力を誇り、周囲の国々を次々と飲み込んでいった。
そんな中で趙は、胡服騎射(こふくきしゃ)という軍制改革を取り入れ、強力な騎兵部隊を擁していた。
※胡服騎射とは、趙の武霊王が採用した軍事改革で、胡族の服装と騎射戦術を取り入れ、機動力に優れた騎兵を育成した。
趙は当初、秦と互角に戦っていたものの、次第に国力の差が広がっていった。
こうした中でも、趙が滅亡せずに粘り続けた背景には、ある人物の存在があった。
その人物こそ、藺相如(りん しょうじょ)である。
彼はもともと無名の食客にすぎなかったが、知略と胆力を武器に、一気に国の重臣へと上り詰めた。
そして、彼の名を歴史に刻んだのが、「和氏の璧(かしのへき)」を巡る秦との交渉である。
藺相如はこの交渉で巧みに立ち回り、趙の誇りを守り抜いた。この出来事が、後に「完璧」という言葉の語源となる。
今回は、藺相如と「和氏の璧」について紐解いていきたい。
和氏の璧とは
戦国時代、楚で発見された「和氏の璧(かしのへき)」と呼ばれる天下の名玉があった。
この宝玉は、やがて趙の恵文王の手に渡った。
これを知った秦の昭襄王(しょうじょうおう)は、恵文王に「和氏の璧と引き換えに、15の城を譲る」という申し出を持ちかけてきた。
一見、魅力的な提案のように思える。しかし問題は、秦が本当に約束を守るのか保証がないことにあった。
もし、璧を渡した後に城が得られなければ、趙の威信は失墜し、他国からも侮られてしまう。
かといって、この申し出を断れば、秦に侵攻の口実を与えてしまうことにもなりかねない。
趙の朝廷では激しい議論が繰り広げられた。
最終的に趙王は、藺相如(りん しょうじょ)を使者として秦に派遣する決断を下す。
当時、藺相如は宦官・繆賢(びゅうけん)の食客に過ぎなかったが、繆賢が「知略に優れた人物」として趙王に推薦したのだ。
こうして、藺相如は「もし秦が約束を破った場合、必ず璧を持ち帰る」と誓い、秦の都・咸陽へと向かったのである。
「完璧」の語源!咸陽での交渉戦
藺相如が秦の昭襄王に璧を献上すると、王は満足げにそれを手に取った。
しかし、しばらくしても15の城を引き渡す話が出る気配はない。
むしろ、昭襄王は群臣や寵姫に璧を見せびらかし、まるで既に自分の所有物であるかのように振る舞い始めた。
これを見た藺相如は、すぐに秦の真意を見抜く。
藺相如はとっさに「実はこの璧には小さな傷があります。王自らご確認いただきたい」と進み出た。
昭襄王が興味を示した瞬間、藺相如は璧を取り返し、柱の前に後退して立った。
そして、怒気を込めてこう宣言したのだ。
「趙王は貴国を信じ、5日間身を清めてこの璧を献上しました。しかし、秦王は城を渡すどころか、ただで宝玉を手に入れようとしている。このままでは、趙は大国の誇りを失います。私は趙の威信を守るため、璧をこの柱に叩きつけて砕く覚悟です!」
昭襄王は動揺した。
もしここで藺相如を殺せば、趙との交渉は決裂し、周囲の国々から非難を浴びるかもしれない。
王は仕方なく、「ならば城を引き渡す準備を整えよう」と伝えた。
しかし、藺相如はそれを信用しなかった。
彼は「趙王が璧を献上する前に5日間潔斎したように、大王も同じように潔斎してください」と申し出る。
昭襄王はそれを受け入れ、5日後の正式な儀式を約束した。
その間に、藺相如は密かに部下に命じて璧を趙へ持ち帰らせる。
そして5日後、昭襄王が「城を渡す準備が整った。璧を出せ」と命じたとき、藺相如は平然と答えた。
「すでに趙へ送り返しました。秦王が本当に誠意を示すならば、先に15の城をお渡しください。その後、改めて璧を献上いたします。」
さらに
「私は秦王を欺いた罪に問われるべきです。どうぞ私を煮殺してください」
とまで言い放ったのだ。
秦側は、謀略が失敗したことを悟った。
昭襄王は激怒したが、結局、藺相如を処刑することはできなかった。
むしろ彼の胆力に感嘆した王は、「使者としての役目を果たしたのだから」と、手厚くもてなし、無事に趙へ帰国させたのである。
こうして藺相如は、秦の策謀を見抜き、趙の誇りを守り抜いた。
この「璧を完(まっとう)する」見事な交渉術が、後に「完璧」という言葉の語源となったのである。
藺相如が残したもの 「完璧」の教訓
藺相如が見せた知略と胆力は、単なる外交交渉の成功にとどまらない。
彼の機転と決断力がなければ、趙は秦の策略に屈し、国の威信を損ねていただろう。
この出来事は、戦国時代の外交戦略における模範として語り継がれ、後の時代の政治家や交渉人にとっての指針となった。
「完璧」の故事は、単なる言葉の語源ではなく、「信義を守り、知恵と勇気をもって逆境を切り抜ける」ことの象徴である。
藺相如には他にも「黽池の会」や「刎頸の交わり」などの有名な逸話があるが、それはまた別の機会に紹介しよう。
参考 : 『史記』「廉頗藺相如列伝」司馬遷 他
文 / 草の実堂編集部