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横須賀市長にインタビュー - 横須賀市長 上地克明の現在地

湘南人

浦賀へのペリー来航を端緒に近代日本の玄関口として形成された横須賀市は、米海軍第7艦隊の母港と約2万人規模の米軍関係人口を抱える、日本でも特異な都市です。

国の安全保障を引き受けるまちの宿命を背負いながら市政を率いてきたのが、現在3期目を迎える上地克明(かみぢ かつあき)市長です。

「誰も一人にさせないまち」を掲げ、海洋都市、音楽・スポーツ・エンターテインメント都市、そして個性あるコミュニティ都市という3本柱を、独自の反骨精神と行動力で推し進めてきました。

反骨を宿した若者が新自由クラブと出会い政治に踏み出し、ロックに思想を重ね、AIや地方分権の将来像を語り、MURO圏構想で三浦半島の未来を描く――。それらは一見離れたテーマのようでいて、「人と共に生きる」という一本の軸で貫かれていました。

現役ロック歌手の"歌って踊れる市長"に、横須賀市の今とこれからを伺いました。

「誰も一人にさせないまち」の原点

Q1 2017年の市長就任以来、「誰も一人にさせないまち」を理念に、「経済と福祉の好循環」を軸として市政を進めてこられました。


さらに、まちづくりのグランドデザインとして「海洋都市」「音楽・スポーツ・エンターテインメント都市」「個性ある地域コミュニティのある都市」という3つの都市像を掲げておられます。


多様な取り組みの中で、とりわけ「ご自身らしさが表れている」と感じる政策があれば、ご紹介いただけますか?

やっぱりね、音楽・スポーツ・エンタメという"ツール"で、まちを元気にしたいっていうのが、自分らしいところなんですよ。あくまで"ツール"なんだけど、でも、そこが一番自分らしさとして出ていると思っています。

もう一つは谷戸政策。どんな時代になっても、人は助け合って生きていくものだと、僕は本気で思っている。これはもう揺るがない。だから、この2点が自分らしさとして一番しっくりくるところですね。

  谷戸で育ったというルーツについては、この後の質問でも触れようと思っていました。

就任以来の「誰も一人にさせないまち」っていうのは、ただのスローガンじゃなくて、自分が生まれ育った横須賀の原体験そのものなんです。昔で言う長屋みたいなもので、みんな貧しかったけど、助け合って生きていた社会だった。

昭和52年頃って、自営業が55%くらいで、サラリーマンが45%くらいな感じだったと思う。その頃、横須賀の谷戸のあたりは、ほとんど自営業しかいなかった。だから、みんなで生きるっていう価値観が、最初から自分の中に強烈にあったんですよ。

横須賀って、決して歴史が深いまちというわけじゃない。鎌倉時代に三浦一族の活躍があった後は、近代史からクローズアップされてきたまちなんです。ペリーが来て、海軍工廠(※)ができて、日本全国から人々が職を求めて集まってきて、そこで急激にまちができた。職人とか技術屋さんとか、色んなルーツの人たちが混ざり合って生きてきた。そういう場所では、もう助け合うしかない。そういうマインドが、横須賀の“へそ”に詰まっていると思っています。

※艦艇の製造・修理を担った旧日本海軍の横須賀海軍工廠のこと。幕末のペリー来航を機に、幕府が海防のために創設した横須賀製鉄所が起源。

だから、まちが大きかろうが小さかろうが、「誰も一人にさせない」という理念から離れることはない。36万都市だから難しい、じゃない。横須賀って、そもそも助け合って生きてきたまちなんだから。歴史の厚みとかじゃなくて、近代から発展してきたまちなので、逆にそのマインドが強く残っている。ここを外したら横須賀じゃない。

自分の政策の中で"自分らしい"と感じているのは、この価値観をまちづくりの中心に置いている点なんです。海洋都市でも、音楽・スポーツ・エンタメ都市でも、個性ある地域コミュニティでも、全部その土台にあるのは「助け合って生きる」という考え方。

正直に言えば、これは政治思想というより、自分の生き方そのものなんですよ。沖縄に父のルーツがあって、横須賀の谷戸で育って、その両方から受けた「人は助け合って生きるものだ」という感覚が、今の政策の全部の礎になっている。

合理性や経済性だけで社会が成り立つとは思っていない。結局は、人間は人間として生きなきゃいけない。だから時代がどう変わっても、横須賀を「誰も一人にさせないまちにしたい」という思いは変わることはない。

反骨の青春——新自由クラブと政治への覚悟

Q2 早稲田大学在学中、新自由クラブの学生遊説隊長を務められたと伺いました。当時、新自由クラブがなぜご自身に響いたのでしょうか?


僕が政治に走った原点は、新自由クラブ(※)なんですよ。学生時代、もう誰よりも先頭に立つぐらいの勢いでのめり込んで、就職するつもりもなくて、全部捧げました。それくらい衝撃的で、人生を変えた出会いでした。新自由クラブの学生遊説隊長をやっていましたからね。

※1976年、ロッキード事件を機に、河野洋平・田川誠一・西岡武夫ら当時の若手・中堅議員が「自民党は歴史的役割を終えた」として離党し、保守本流の刷新を掲げて結成した改革派の保守グループ。

ちょっと上の世代は学生運動が華やかだった時代。革命を起こそうなんていう先輩がたくさんいた。でも僕らの頃はその熱が少し下がって、価値観が揺れ動いていた時期なんですよ。その中で新自由クラブが突然あらわれて、「これだ!」と。迷いはなかったですね。

  新自由クラブの何がそこまで刺さったのですか?大学卒業後には1年間の民間企業勤めを経て、新自由クラブ神奈川県連の広報副委員長と田川誠一衆議院議員の秘書を務められました。

新自由クラブのどこに心を持っていかれたかというと、河野洋平先生や田川誠一先生への憧れももちろんある。でも、一番刺さったのは、「何になるかじゃなくて、何をするか、何ができるか」という、その考え方なんですよ。肩書きにもお金にもあまり興味はない。人間の価値は、自分が社会のために何をするかしかない。その言葉に完全に痺れてしまった。今でもそこは全く変わっていません。政治以前の思想なんです、結局。思想、哲学としての生き方。

政治の道で2回の挫折を味わい、経済感覚もずれてるから事業なんかやってもうまくいかない。三浦が傾いているからなんとかしてくれと頼まれて、自分で会社を興して、三浦で鮪の血合いのスモークを6,000本作ったことがあるんです。日本で初めて鮪の血合いをいじったのは僕たちだと思ってます(笑)それなりに金をかけたのに、逆に売ろうと思ったらもう金がなくなっちゃっててバンザイしたというね。とにかく、失敗の連続でしたから。そうなったのは、なんでも真っ直ぐにしか生きられないからなのかもしれない。

また、僕は権威が嫌いなんです。国に対してもヒエラルキーに対しても、その思想は変わらない。「じゃあなんで政治やってるんだ?」と聞かれれば、思想と主義主張が先にあって、その延長として政治に行き着いたんだと思います。

  このシリーズで首長のみなさんにインタビューをしていると、みなさん「政治家である必要はない」と言われます。上地市長は「政治家でなくてはならなかった」ということでしょうか?

大学の頃から政治家になりたいと思っていて、国会議員になって世の中を変えたいと思っていた。田川さんの秘書に押しかけて「秘書になりたい」と言ったら、「社会を知らないようではだめだ」と言われて洋平先生に預けられ、洋平先生の紹介で株式会社ニチリョウに1年行ったということなんです。そこで経済と社会の勉強をして、そのあと田川先生の秘書になった。もう最初から政治の道しかなかったんですよ。

人と自分を比較することはないし、人がどう見ているかにも興味がない。自分の生き方を貫くことにしか興味がない。ずっとそうやって生きてきました。

横須賀市議に初当選した49歳まで成功体験はなくて、ずっと厄年みたいなものですよ。71歳(現在の年齢)まで厄年だったと思ってるくらいで。でも49歳になったとき、過去の経歴を知らない若い世代が「親父、親父」と言ってくれて、「横須賀で市議やってくれ」と言われて、「じゃあやるよ」と。正直、「なんで俺が今さら」とも思ったけど、それまで仲間とやってきた延長でならまた立つことができると思えた。それで政治の世界に戻った。

だから全体として言えば、直球でしか生きられない人間が、直球のまま政治に来たっていう、それだけの話なんですよ。

三浦半島から地方分権を問う——MURO圏構想の真意

Q3 2025年5月、三浦半島4市1町(横須賀市、鎌倉市、逗子市、三浦市及び葉山町)の防災対策など新たな連携の枠組として、「三浦半島首長連合会議(略称:MU、通称:ファミリーミーティング)」の第1回会議が開催されました。


「MU(Miura Union)」という略称は、ヨーロッパのEU(European Union)になぞらえて、上地市長が提案されました。地域通貨「MURO(ミューロ)」の導入も検討されているそうですが、この経済圏や文化圏を共有して三浦半島全体で利を得ていくという「MURO圏構想」について、市長が思い描くイメージをお聞かせください。

なぜかというとね、地方と国っていうのは本来同格じゃなきゃいけないんですよ。僕はもう"地域主権主義者"だから、外交や安全保障、マクロ経済など、国が担うべき仕事以外は地域の自主性に任せればいいと一貫して思ってきた。

その前提で考えたとき、三浦半島は連携してもっと自立すべきだと思ってきた。"向こう三軒両隣"じゃないけど、さっきの谷戸の話と同じで、どのまちも、文化も価値観もルーツも近い。三浦半島が一体になって自治を持つべきだと、若いときから強い信念で思っていました。

国だって、昔は合併を奨励したけど、今はそうでもない。じゃあどうするんだって話になったとき、国を待っていても何もできないじゃないですか。だから、三浦半島の連携の中で何かをやっていくしかない。その一つの出発点が、MURO圏構想なんです。

"基地と共に生きるまち"の現実と覚悟

Q4 よく知られているように、横須賀市は米国の本土以外で唯一空母の母港となる、アジア最大規模の海軍基地であると同時に、併設する海上自衛隊横須賀基地との連携は、日米同盟の深化と協力関係を示す旗印でもあります。


横須賀市の都市としてのアイデンティティとも深く結びついている米国との関係について、改めてどうお考えかお聞かせください。

信頼関係を醸成しなきゃいけない。日米同盟の象徴が横須賀である以上、しっかりした信頼関係を築く仕組みを、横須賀の首長は持っていなきゃいけない——そう、僕は思っています。

米海軍の人たちとは懇意で、ペンタゴンに行く機会もあるけど、彼らはアメリカがどういう状況になろうが本当に「日本を守る」という強い意識を持っているんですよ。世の中では「アメリカは守らないじゃないか」って言うけど、本人たちはものすごく横須賀に愛着を持っていて、「横須賀を守る」という信念を感じている。これだけは言っておきたい。

だからこそ、僕も彼らを横須賀の市民だと思っているし、そこで信頼関係ができている。

安全保障環境が激変している。中国の台頭、北朝鮮のミサイル、ロシアの動き……世界がもう全然違う状況になっている。僕はベトナム戦争の時代を見てきたし、朝鮮戦争の頃は生まれていなかったけど、その流れの中でアメリカと日本の歴史も見てきた。

だけど、まさかここまでの状況になるとは、正直、新自由クラブ時代には予測してませんでした。僕は昔はどちらかというと自主防衛論者だった。でも環境が大きく変わって、アジアの安全保障が厳しくなると、今はやっぱり日米同盟をしっかりと強化していかなきゃいけないと思っています。

そして、その中核が米海軍。その重要部門が唯一横須賀にある。これはもう、本当に大きな責任だと思っています。

"横須賀のマチュピチュ"——旧市営田浦月見台住宅 再生プロジェクトのこと

当記事の写真の多くは、2025年10月5日に田浦月見台住宅(横須賀市田浦町)で開催された「月見祭」での様子を撮影したものです。(インタビューの場となった横須賀市役所3階の市長応接間と、JR横須賀駅前のヴェルニー公園で撮影した写真を、一部含みます)

田浦月見台住宅は昭和期に整備された市営住宅で、老朽化と空室率の悪化が課題となっていました。2023年以降、横須賀市と民間事業者・エンジョイワークスが協働して再生プロジェクトを進め、住宅を「居住+店舗」の複合型へリノベーションする取り組みが進行しています。

イベント開催時点で47戸中42戸が入居または契約済で、飲食、雑貨、民泊、コミュニティスペースなどが開業しつつあり、団地全体が新しい地域拠点へと変わり始めています。

高台からまちと海を望む立地から、上地市長が挨拶の中で"横須賀のマチュピチュ"と呼びたいと話したのも納得でした。

この日は、新「月見台住宅」のオープンを祝うイベントとして、入居者マーケットやジャズライブが開かれました。地元の実力派ジャズバンド・横須賀オールドボーイズが演奏を始めると、会場には子ども連れの家族や近隣住民が集まり、ゆるやかに音楽に身を委ねました。上地市長は観客の中に混ざり、体でリズムを取りながら耳を傾けていましたが、途中でバンドから声がかかり、ステージへ呼び入れられました。

上地市長は秘書から受け取った水筒で慎重に喉を潤すと、そのまま自然な流れでマイクを握り、レイ・チャールズの『Georgia on My Mind』を即興で熱唱。観客からは歓声が上がり、夕暮れのステージは一体感のあるあたたかい雰囲気に包まれました。

行政の長としての顔とは別に、地域の人々と同じ目線で音楽を楽しみ、その場の空気に溶け込む姿は、上地市長の親しみやすさや肩肘張らない人柄をよく表していました。

なぜ、ロックなのか?

Q5 2023年11月に初開催された「MIND ROCK AWARD」は回を重ね、40歳以上のメンバーを含むバンドやソロアーティストが出場するコンテストとして、国内最大規模のイベントに成長してきました。今年も市長ご自身もバンドで出演され、拍手喝さいを浴びています。


数ある音楽ジャンルの中で、なぜ「ロック」なのでしょうか?

なぜロックだったのかというと、やっぱり"反骨"の精神なんだと思う。もうそれしかない。権威が嫌いなんです。人間みんな平等で、差別のない社会をつくりたいという意味での平和主義者なんです。

ロックっていうのは、信念を持って、心で生きるというマインドの象徴なんですよ。これからもロックは歌っていきたいと思っています。

  ロックとの出会いはいつ頃だったのでしょう?

たぶん知らないかもしれないけど、FEN(※)がアメリカの音楽をいっぱい紹介し始めた頃。そこから始まって、EMクラブ(※)にジャズとかロックとか、どっと入ってきた。昔はジャズ・ロック・リズム&ブルースとか、様々な音楽に触れた時代で。音楽が米軍と一緒に一気に流れ込んできたのが横須賀で、僕が気づいたときには、もう街中に音楽があったんですよ。

※FEN:かつて日本国内の米軍基地向けに放送されていたラジオ局「FEN(Far East Network、極東放送網)」。
※EMクラブ:世界最大級と言われたアメリカ海軍下士官兵集会所。下士官たちの社交場であり、戦後ジャズの発祥の地とも言われる。跡地にはベイスクエアよこすかが建っている。

仲間も、ベトナム戦争帰りの兵隊と一緒にドブ板通りでロックを聴いたり、弾いたり、歌ったりしていた。さまざまな伝説が残っている。でも僕はその頃、もう政治に走っていて、自分で参加したことはなかった。好きではあったけどね。

30代前半くらいかな、仲間から「一緒にやろうよ」って言われて、そこからです。学生時代からじゃない。学生時代はもう政治一本だったから。

30歳ちょいくらいから本格的に歌い始めて、いろんなバンドでやっていました。

もちろんビートルズ世代ですよ。あれはあれで当たり前の存在だったけど、クラプトンに憧れた。

ギターはちょこっとやったけど、全然使い物にならなくて。ピアノも小学校で何年かやっていた、親父のすすめでね。うちのじいさんが宮古島で三味線で歌をいっぱい作っていた人。僕は政治に行っちゃったけど、うちの長男はそっちに行った。曲も書くし、ぶっ飛んだ詞も書くし、そういう血があるんでしょうね。

"怪物"と僕——人であり続けるための行政

Q6 横須賀市は2023年4月に全国の自治体として初めて生成AIを全庁に導入し、DXを進めてきました。あるインタビュー記事で、市長が職員に伝えているという、次の言葉を見つけました。


「庁内にいる必要はない、どんどん外に出ろ、人と一緒に生きろ」


「庁内の事務業務はAIやロボットに任せればいい」


行政がシステムとか制度をつくって、真ん中にでんと構えてる時代じゃないと思っているんです。高齢化が進む中でこれからの行政は、人と向き合って生きていくしかない。

——単なる効率化や労働力の代替ではないAIに対する考え方を感じます。AIと行政との共存について、どのような未来像を描かれていますか?

おとといも民生委員・児童委員の皆さんとお会いしたんだけど、あの方々はボランティアで、あちこちの家庭を訪問して、行政とのパイプをつないで——本当にボランティアでやっている。「市長、私たちにご支援いただいてありがとうございます」と言われたけど、いやいや違う、僕らが感謝しなきゃいけないことでしょ、と。

本来それがあるべき姿なのに、制度やシステムの中で、なんで行政が市民を管理したり、ああしろこうしろと言わなきゃいけないのか、本当に分からない。そういうところはAIに任せればいいんですよ。AIにでもロボットにでもどんどん任せて、人は人と一緒に生きる。これが本来の行政だと思っている。行政の役割って本来そういうものなんだと思っています。

で、僕は徹底した"地方分権主義者"だから、市内に9か所ある行政センターに人も財源も送り込んで、地域の人たちと一緒に共生していく。それが究極の地方分権だと思っている。自治体って本来そうあるべきだし、それが僕の夢でもある。

谷戸なんですよ、全部。原点にあるのは谷戸。僕はそこで生まれ育って、そこではみんなが助け合っていた。小さな世界で、ある意味村社会なのかもしれないけど、僕にとってはユートピアだった。

谷戸って、昔は揶揄するような言葉として使われていたけど、僕にとっては人が助け合って足りないところを補い合って生きる、そういう象徴なんです。だから「谷戸」と言うとき、僕は場所のことじゃなくてマインドのことを言っている。

繰り返しになりますが、「誰も一人にさせないまち」という理念の原点はそこなんです。全部そこにつながっている。

  ご自身のルーツとして、横須賀の谷戸の生まれであることのほか、宮古島ご出身のお父様の存在が大きいとお聞きしています。

父親の存在は大きかったですね。PTSDだったし、ニューギニア戦線の生き残りだったから、権威が嫌いで、社会に対して強い不信感を持っていた。沖縄の人間だから差別も受けたし、そのせいか酒乱で、DVもあったし、小さい頃は苦しかった。"怪物"のような人でした。90歳すぎても「ワァーッ」という、すごい声量でしたしね。

でも結局、僕が政治という世界を見つけて以降は、あの父親の不条理が原動力になったのかもしれない。

ユートピアって言いましたけど、僕の子ども時代は楽しいとか嬉しいとか、そういう記憶はあんまりない。成功体験なんて49歳までなかったというのはお伝えした通り。

だからこそなのかな、谷戸にユートピアを求めたいのかもしれない。だからこそ、みんなで助け合う社会を作りたいのかもしれないね。

開かれた"谷戸社会"へ——未来の横須賀

Q7 最後の質問です。今後の横須賀市政において、市民の皆様に「ここに注目してほしい」「共に育んでいきたい」と思われる取り組みや分野があれば、ぜひご紹介ください。


いい意味でも悪い意味でも半島という地政学上、閉鎖社会だったんですよ、横須賀は。だからこそ、新しい光、新しい道を提示させてもらって、今言ったようなマインドを持って助け合う社会を作りながら、例えば経済も含めて、新しい流れを作っていきたいと思うんです。観光分野も含めてね。

ぜひ一緒に、開放的な"谷戸社会"、これはパラドクスなんだけど、開放的でみんなで助け合う社会を作っていきたい。

そういう時代にしたいと思っています。

結びに——人と共に生きる

横須賀市政の歩みには、基地と共に生きる現実と、谷戸の助け合いの記憶が折り重なってきました。その間で上地市長が拠りどころとしてきたのは、「人と共に生きる」という自らの原点でした。

AIがどれほど進化しても、制度の仕組みがどれほど洗練されても、まちを支えるのは人のまなざしと関係性。誰かの痛みに気づく優しさや、足りないものを補い合う小さな循環から、横須賀の未来は立ち上がっていく。
それが、上地市長の語る"ユートピア"のかたちなのだと思います。

横須賀がこれからどんな未来を紡いでいくのか——その行方を、私たちもまた「共に生きる者」として見届けていきたいと思います。

上地克明プロフィール

氏名:上地 克明(かみぢ かつあき)
生年月日:1954年1月29日
出身地:神奈川県横須賀市吉倉町
信条:一人では何もできない。しかし一人でもはじめなければ何もはじまらない。
座右の銘:「天同和賛」※ご自身による造語。「皆同じ一つの天のもとで讃えあい、助けあって生きることが大事」の意という。
趣味:バンド、スポーツ、読書

【略歴】

1972年3月 神奈川県立横須賀高等学校卒業
1977年3月 早稲田大学商学部卒業
1977年4月 株式会社ニチリョウ入社
1978年2月 衆議院議員・田川誠一秘書
1978年2月 新自由クラブ神奈川県連広報副委員長
1983年4月 神奈川県議会議員選挙落選
1987年4月 神奈川県議会議員選挙落選
2003年4月 横須賀市議会議員当選(4期)
2017年7月 第37代横須賀市長に就任(現在3期目)

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