戦後80年!終戦記念日に響かせたい珠玉の J-POP5選「17才」「1000のバイオリン」…
“戦後” を100年、200年と続けていくために
今年2025年は “戦後80年” である。これってすごい話だ。なぜなら日本は1945年、連合国に無条件降伏して以来、80年もの長きにわたって戦争をしていないということなのだから。いまだに世界では戦争が行われているし(内戦や地域紛争含む)、これだけ長く “戦後” が続いていることの有り難さを日本国民はもっと噛みしめないといけない。
それが実現できたのは、もちろん先人たちの努力があったからであり、《国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する》と第9条で謳った日本国憲法があったからだ。
私は1974年、小学2年生のときにこの条文の存在を知って純粋に感動し、その時点で日本が30年近くその誓いを守っていることを誇りに思った。それからさらに半世紀が過ぎたが、日本ではずっと “戦後” が続いている。憲法第9条についていろいろ意見はあるだろうが、不戦を誇りに思う気持ちにまったく変わりはない。だからこそ自由に音楽も聴けるのだ。
ただ、人間というものは反省しない生き物である。戦後80年経ったということは、戦争を直接知る人たちがごくわずかになったことを意味する。私は明治生まれの祖父が兵隊として中国大陸に行っていたし、父と母は幼かったが空襲の中を親と一緒に逃げまどった経験を持つ。だから体験談も聞けた。
だが、戦後生まれがほとんどになった今の日本では、戦争体験は “伝聞” になる。あれだけ国全体が悲惨な経験をしたにもかかわらず “なんで戦争しちゃいけないの?” “隣国が乱暴狼藉を働くなら、こっちも武力で一発かませ!” というような意見を頻繁に聞くようになったのは、そんなことも背景にあるのだろう。
そういった中、今回 “終戦記念日に響かせたいうた” を邦楽で5曲選んでほしいという依頼をRe:miner編集部からいただいた。何だかんだいって、音楽の力は大きい。そして、平和はそれを維持しようという努力がなければ、簡単に終わってしまう。だからそのことを思い出すためにも、終戦記念日の今日、これから挙げる曲をじっくりと聴いてほしい。“戦後” を100年、200年と続けていくために。
脱走兵 / 沢田研二(1990年)
ジュリーが表明した “戦争拒否” の信念
ジュリーが東京グローブ座で始めた、たったひとりの音楽劇『ACTシリーズ』で、1990年、フランスの詩人、ボリス・ヴィアンを取り上げた際に劇中で歌った曲。原曲は「Le Déserteur」(脱走兵)という曲で、ヴィアンが作詞・作曲を手がけている(曲はアロルド・ベルナール・ベルクとの共作)。ヴィアンについては小説『L'Écume des jours』(うたかたの日々)でご存じの方も多いだろう。
ヴィアンがこの曲を書いたとき、フランスは第1次インドシナ戦争(1946年〜1954年)を戦っていた。フランスの旧植民地・ベトナムの独立をめぐる戦いで、戦況は泥沼化。フランスでは厭戦気分が蔓延していた。また、シャンソン歌手のムルージが歌ったのは、ちょうどアルジェリア戦争(1954年〜1962年)が勃発した頃。アルジェリアも旧仏領で、この戦争の最中に出た「脱走兵」は “けしからん!” と放送禁止の処分を受けてしまう。
だがこの曲は、戦いを嫌う人々の支持を受けて広がっていき、米軍の介入でベトナム戦争(1955年~1975年)が始まると、反戦歌として歌われるようになる。日本では高石友也が「拝啓大統領殿」というタイトルで歌い、高田渡や加藤和彦もカバー。加藤和彦はザ・フォーク・クルセダーズ時代にも愛唱し、亡くなる直前までライブで歌っていた。
ジュリーは高石たちが歌った日本語詞ではなく、原詩により忠実な訳で「脱走兵」を歌っている。
大統領閣下 手紙を書きます
もしお暇があれば 読んでください
僕は今 戦争に行くようにとの
令状を受け取りました
いわゆる赤紙です
こんな出だしで始まる「脱走兵」は、大統領への書簡という体裁を採っている。主人公は曲中で、こう宣言する。
大統領閣下 僕は嫌です
戦争するため 生まれたのではありません
勇気を出して あえて言います
僕は決めました 逃げ出すことを
そして最後に、こう叫ぶ。
血を流したいなら どうぞあなたの血を
猫をかぶったみなさん お偉い方々
僕を見つけたら どうぞご自由に
撃ってください
撃ってください
最後に両手を上げるジュリー。だがそれは降伏ではなく、戦わないことへの決意表明だ。私はこの舞台をビデオで観て、ジュリーが囁くように、しかし途中からは力強く歌うこの曲に圧倒されてしまった。この舞台はDVD化されており、また『ACTシリーズ』でジュリーが歌った曲を集めたCD『KENJI SAWADA act 1989-1998』にも収録されているので、ぜひ聴いてほしい。そしてこのときジュリーが表明した “戦争拒否” の信念は、35年経った今も何ら変わっていない。
1000のバイオリン / THE BLUE HEARTS(1993年)
壮大で心に響く “反戦” のメッセージ
THE BLUE HEARTSには「青空」はじめ、「爆弾が落っこちる時」「月の爆撃機」といった “反戦” のメッセージを込めた曲が多い。彼らは自分の率直な感情を、嘘偽りなくストレートに歌う。だが “反戦歌” と言われている彼らの曲は、直接 “戦争反対” と叫んでいるわけではないし、描き方はけっこう婉曲的だったりもする。“歌詞の解釈は聴き手に委ねる。僕らは意見の押しつけはしない” というのが彼らの一貫したスタイルだ。根っこの部分に人間的な優しさがあるから、説教臭いプロパガンダと違って歌がスーッと心の中に入って来るし、胸に響く。
「1000のバイオリン」は1993年に出たTHE BLUE HEARTS通算15枚目のシングルで、真島昌利の作詞・作曲。カップリング曲の「1001のバイオリン」は、バックの演奏をオーケストラに入れ替えたバージョンだ。2010年にアパレルのCMで宮﨑あおいが自転車に乗りながら歌っていたので、それでご記憶の方も多いだろう。この曲、冒頭の歌詞にまずヤラれる。
ヒマラヤほどの消しゴムひとつ
楽しい事をたくさんしたい
ミサイルほどのペンを片手に
おもしろい事をたくさんしたい
どんだけでっかい消しゴムだよと思うけれど、わかるわかる! 世の中から消し去りたいものってあるよね。核兵器なんかその最たるものだ。そんなものはバカでかい消しゴムでゴシゴシと消してしまって、ミサイルみたいな大っきなペンで、街を破壊するんじゃなくて、楽しいものをどんどん描こうじゃないか… こんなに壮大で心に響く “反戦” のメッセージがあっただろうか。
夜の扉を開けて行こう
支配者達はイビキをかいてる
何度でも夏の匂いを嗅ごう
危ない橋を渡って来たんだ
あの深作欣二監督もこの曲を気に入り、自身の葬儀の際、オーケストラバージョンの「1001のバイオリン」を流した話は有名だ。“仁義なき戦い” は映画の中だけで結構。戦いよりも、みんなが笑える楽しいものを創っていこうぜ。
教訓Ⅰ / 加川良(1971年)
きわめて今日的なメッセージソング
1970年、第2回 『全日本フォークジャンボリー』に飛び入り参加した加川良が歌い、喝采を浴びた曲。この曲で注目された加川は、翌1971年に本曲を収録したアルバム『教訓』でデビューを果たし、そのメッセージソングは後進のシンガーソングライターたちにも大きな影響を与えた。意外に思うかもしれないが、松山千春も加川の熱心なフォロワーの1人だ。生前の加川と交流があった夫婦デュオ、ハンバート ハンバートもこの曲をカバーしている。
加川によると実はこの曲、大阪・梅田の地下街でたまたま買ったガリ版刷りの文集に、詩人・上野瞭の詩が載っていて “これいいな。歌にしたい” と思ったそうだ。その詩を参考にして作った曲が「教訓Ⅰ」である。
命はひとつ 人生は1回
だから 命をすてないようにネ
あわてると つい フラフラと
御国のためなのと 言われるとネ
お国のために命を捧げるよう為政者から強要されても、従う必要などないと歌うこの曲。戦時中だったら “非国民” と呼ばれ投獄されていただろう。
御国は俺達 死んだとて
ずっと後まで 残りますヨネ
失礼しましたで 終わるだけ
命の スペアは ありませんヨ
確かにその通り。では、“戦え”と言われたらどうしたらいいのか? 答えはこうだ。
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい
これは先に挙げた「脱走兵」にも通じるけれど、戦うのは嫌だと逃げることは、何も恥ずかしいことではない。“国家 > 国民” ではなく、自立した個人の集合体が国家なのだから、自分の意思に反して命を捧げることはないのだ。「♪にげなさい かくれなさい」は別に卑怯な呼びかけではなく “自分を曲げるな、自立した個であれ” という力強いメッセージである。
そしてこの曲、“御国” を “会社” や “学校” に置き換えてみると、企業に劣悪な労働条件で働かされている会社員や、いじめに遭っている生徒へのメッセージソングになる。精神的に限界を超えているのに、出社や登校を強制されて心を病み、自ら命を絶つ人たちがこの国にはなんと多いことか。そもそも会社や学校って、命を捨ててまで通わなきゃいけない所なのか? 加川は生前のインタビューで、この曲はベトナム戦争との絡みで反戦歌と思われがちだが、“本当は命の歌なんです”と語っている。「教訓Ⅰ」は決して時代遅れな反戦フォークソングではなく、きわめて今日的な歌なのだ。
一本の鉛筆 / 美空ひばり(1974年)
美空ひばりが広島で歌わなければいけない曲
終戦直後に9歳で歌手デビュー。その歌声で、敗戦に打ちひしがれていた日本国民を励まし、明るい希望の星となった美空ひばりは、反戦歌も歌っている。1974年に発表したシングル「一本の鉛筆」だ。
ひばりは幼い頃に横浜大空襲を経験。母親と一緒に戦火をくぐり抜けた経験があり、戦争が大嫌いだった。そんなこともあって、広島テレビが “世界に平和を発信したい” と企画した『第1回広島平和音楽祭』への出演オファーを快諾。「一本の鉛筆」はその際に披露された曲だ。同音楽祭で総合演出を担当した映画監督の松山善三が作詞。黒澤明監督作品の映画音楽を手掛けた佐藤勝が曲を書いた。
一本の鉛筆が あれば
私はあなたへの 愛を書く
一本の鉛筆が あれば
戦争はいやだと 私は書く
鉛筆が1本あれば、愛を訴え、反戦を訴えることができる。訴える人の数が多くなれば、世の中は必ず動く。当時、広島のステージ上でひばりはこう語った。“幼かった私にも、あの戦争の恐ろしさを忘れることができません” …ひばりにとってこの曲は、原爆が落ち、何万人もの市民が一瞬で命を落とした広島で “歌わなければいけない曲” だった。
それから14年後の1988年。前年に大腿骨骨頭壊死と肝臓病で入院したひばりは、重い病を抱えた状態で再び『広島平和音楽祭』のステージに立った。楽屋にはベッドが置かれ、出番以外のときは点滴を打ちながらの熱唱。だが観客の前では辛そうな素振りは一切見せず、常に笑顔だったという。あの『不死鳥コンサート in 東京ドーム 』を終えた後だったから、体はもはや限界を超えていたはずだ。なのに「一本の鉛筆」をもう一度、広島で歌うんだと気力を振り絞って、観客の胸を打ったひばり。
一本の鉛筆が あれば
八月六日の 朝と書く
一本の鉛筆が あれば
人間のいのちと 私は書く
翌1989年6月、昭和が終わった年に、ひばりも逝った。だが、曲は残った。「一本の鉛筆」は浜田真理子らによってカバーされ、令和の今も歌い継がれている。
「17才」南沙織(1971年)
理不尽な戦争からの解放を歌った曲
最後に選んだのは、1971年、南沙織が歌ったデビュー曲「17才」だ。1989年、森高千里がカバーしてリバイバルヒット。そちらでこの曲を知った方も多いだろう。また2008年には銀杏BOYZもパンク調でこの曲をカバーし、鮮烈な印象を残した。
なぜこの曲を終戦記念日に?と思うかもしれないが、この曲こそ8月15日に聴いてほしいと私は思う。南沙織は沖縄出身。この曲が出た1971年はまだ沖縄は日本に返還される前で、アメリカの施政下にあった。だから南も洋楽を聴いて育った。スカウトを受けて上京したときも沖縄からパスポートを持って “来日” したのである。
作曲者の筒美京平は、南に “君は今までどんな曲を聴いてきたの?” と尋ね、南がリン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」を挙げると、その曲調をベースにまったく新しいポップスを創り上げた。この曲はその後のアイドルソングの起点になっているように思う。そのヒントを与えたのは紛れもなく南だ。
作詞を担当したのは有馬三恵子。青い空の下、好きな男性と2人っきり、誰もいない海で愛を確かめ合う17才の女の子。南のみずみずしい魅力をみごとに反映させた素晴らしい歌詞だ。私はかつて有馬に取材した際、“「17才」の歌詞でいちばん気に入っているところはどこか?” と訊いたことがある。答えは、サビのこのフレーズだった。
好きなんだもの
私は今 生きている
戦時中は、こうして好きな人と海辺で戯れることさえ “国家の非常時に不謹慎だ” と禁じられた。自分の好きな人と、好きな場所で好きなことをして、何がいけないのか? 大戦中、日本国内で唯一地上戦を経験し、おびただしい数の一般市民が犠牲になった沖縄。その沖縄からやって来た少女が、このフレーズを歌ったことに大きな意味がある。この曲は単なるアイドルソングではない。理不尽な戦争からの解放を歌った曲なのだ。
好きな人といつまでも一緒にいたい、という思いはいつの時代も変わらない。だからこの曲は半世紀以上経った今も古くならないし、令和のアイドルにもカバーされているのだと思う。それが音楽の力だ。
以上、5曲挙げてみた。繰り返すが、平和を維持するにはそうしたいと願う心が必要だ。でないと、戦争はすぐに始まってしまう。私は、好きな音楽を好きなときに好きなだけ聴ける日本であり続けてほしい。微力ながら、こういうコラムを書くことで、私なりに戦っていきたいと思っている。