赤ちゃんは結局お母さんが一番好き、は不正確「父と子と私」――昆虫・動物だけじゃない、篠原かをりの「卒業式、走って帰った」子育てエッセイ
動物作家・昆虫研究家として、さまざまなメディアに登場する篠原かをりさん。その博識さや生き物への偏愛ぶりで人気を集めていますが、この連載では「篠原かをり」にフォーカス! 忘れがたい経験や自身に影響を与えた印象深い人々、作家・研究者としての自分、プライベートとしての自分の現在とこれからなど、心のままにつづります。今回は篠原さんが夫婦で子育てに奮闘した結果得られた、すてきな家族の形態についてです。
※NHK出版公式note「本がひらく」の連載「卒業式、走って帰った」より
父と子と私
赤ちゃんが保育園に入園し、夫が10か月に及ぶ育休を終えて、会社に復帰した。
赤ちゃんは、もはや赤ちゃんとは呼べず、子供と称した方が正確では?と思うくらいに大きくなったような気がしていたのだが、先日もベビーカーに乗った小さい子に「ベイビーがいる!」と声をかけられたので、まだ(少なくとも乳児のうちは)赤ちゃんと呼ぼうと思っている。
まだはっきりとした言葉は話していないけれど、言葉に聞こえる喃語(なんご)をたくさんしゃべりだして、会話が楽しい。
赤ちゃんに「今日どこ行く?」と問いかけると「那覇」と返ってきたりする。
抱っこされているばかりではなく、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。私の弟は赤ちゃんにぎゅっと抱きしめられて「温泉に入っているみたい」と目を細めながら天を仰いでいた。かなり健康にいい。
私の親としての自覚は依然乏しく、ご飯を取り分ける際にさりげなく、付け合わせの人参を全て赤ちゃんに食べてもらったりしているが、毎日すごく楽しくて、この愛想の良い、お餅のような小さい人が仲良くしてくれるなんてうれしいなと思っている。
私の働き方には、育休というものが存在していないので、既に仕事復帰しており、もう8か月になるが、保育園に入園したことで、この怒涛(どとう)の日々に一つの区切りがついたように感じてほっとしている。すごく良い保育園にご縁があり、毎日、「歌うように喃語をしゃべりながら、カモミールを揺らして楽しんでいました」というようなすてきな連絡をもらい、心温まっている。
若いときから妊娠・出産でキャリアが断絶することを恐れていた。ごく最近、それもまだ不十分であると聞くが、企業の中では、妊娠出産によってキャリアを途絶えさせないための法制度による保護が進みつつある。
しかし、フリーランスに近い働き方をしている私のキャリアは、完全に自己責任である。
休むことなく、時には、それなりの無理をしてチャンスという飛び石を踏み続けるようにして前に進んできた。
出産前に販売した自身のコラボグッズのバッグを出産時の入院バッグとして持っていった。絶対に仕事に戻るという自分なりの願掛けだった。今、そのバッグは、保育園の通園バッグになっている。
夫が育休を取得して、主たる保育者になってくれたおかげで、8か月たった今、仕事量は完全に産前の水準に戻るか、やや追い越すくらいの勢いである。
何か月までなら休んでも支障なくキャリアを維持できたのかを知る術すべはないが、産休のみで復帰して、今までどおりの仕事を得ることができたのは、強靭きょうじんな肉体と幸運と夫が信頼して任せられる親であってくれたからである。
もちろん、最初からうまく回っていたわけではない。子育ての初心者の大人が二人集まって、人間の初心者を育てるというのは、理屈ではどうにもならないことの連続であった。
それでも、これからずっと家族として生きていくうえで本当に重要な10か月であった。
以前も書いたと思うが、仕事をしているということは育児をしないことの言い訳にはならない。
私も働く者としてだけではなく、育児をする者として、かなり頑張った。仕事をしていない時間は、育児か家事をしていた。イレギュラーが生じやすい環境の中で、原稿を落としたくないと思って、寝かしつけた後の布団の中など、空き時間に前倒しで原稿を書くようになった。その結果、無理な前倒しで作った時間を満たすように育児家事が流れ込んできて、あっという間に表面張力ギリギリのコップのようになり、度々溢れ出して泣いていたし、研究はほぼ完全にストップしていたので、実際には常に溢れていたとも言える。
加えて、夫も育休中とはいえ、会社の業務に該当しないメディア出演は続けていたので、最初の頃は、どちらかがサボっているわけではなく、二人の時間や労力を合わせて、ようやく一人の赤ちゃんを育てられるという状態だった。
今、夫と二人で生後2~3か月くらいの、まだ寝返りもせずにふにふにと動いているだけの小さな赤ちゃんの動画を見返すと、なぜ、二人がかりであんなに大変だったのだろうと不思議になるが、とにかく最初は本当に余裕がなかった。
最初の数か月、育休を取って一人で赤ちゃんの世話をしている友人らを見て、その配偶者が羨ましかった。「フルタイムで仕事ができるうえに家ではご飯が出てくるだと!?」と思った。そして、「私は、世の中の父親と比べたら、仕事の時間は半分で家事育児の時間は倍、給料はそれなりだから、だいぶ良い方だよな」という思いが何度も頭をよぎった。我ながら、これはかなり最悪である。もう少し育児をサボっていたら、取り返しのつかない最悪の配偶者になっていた可能性がある。そもそも、SNSでのぞき見ることができる他人の家庭は、切り取られた一部分にすぎないし、まず、人と比べることは無意味である。
しかし、子育てに真剣に取り組んで、一人でずっと続けるのは不可能な大変さであると身にしみて分かった。
産前、「産まれてからの方が大変」と言っていた人は一人残らずワンオペで育児をした人だった。分かち合う人がいて、時には休むことができるというだけで妊娠中より遥かに心も体も楽であった。
いまだに、我々は家に自分一人しかいないときに赤ちゃんとお風呂に入り、自らも体を洗う方法を知らない。赤ちゃんを清潔にしながら、自分はお湯にふやけるのが精いっぱいだ。
ワンオペ育児という修羅道を越えた人に比べると、軟弱で親力に欠けてしまうかもしれないなと思う。
育児に関して、片方しかできない分担がないという状態になったのが何よりの収穫である。どちらかがメインで担当している役割というのは存在するが、逐一報告しあい、赤ちゃんの様子にアップグレードが入れば、普段担当していない役割も経験し、常に対応できるようにしている。
互いに赤ちゃんを託して出張に行くこともできる。赤ちゃんに関することは全て安心して任せられるので、時折、今、私がいなくなってしまっても、赤ちゃんは幸せに大きくなることができるだろうなと考える。「君のために死ねない」と「君のためなら死ねる」という相反する感情を両手に握りしめながら生きる子育ての日々で、恐らく不死ではないはずの私は、夫と私の二人とも親として機能する現状に、大きな安心感を覚えている。
「赤ちゃんは結局、お母さんが一番好き」というのは、不正確だ。赤ちゃんは、自分の世話を主として担う人を好きになり、それが現状、お母さんであるケースが多いというだけである。
うちの赤ちゃんは、どちらかに対する態度が違うわけではないが、どちらかといえば、ややパパっ子だと思う。夫と赤ちゃんがそれぞれ別の感染症にかかって、唯一元気だった私が看病していた時だけ完全に私に傾いたが、五日天下だった。
妥当だと思うので、今は、赤ちゃん好感度ランキングでかなり順位を上げている掃除機に負けないように頑張ろうと思っている。この前、私の元に笑顔で這い寄ってくるとき、手前に置いてある掃除機の存在に気付いて、5秒くらい止まったときはドキドキしたが、辛くも勝利を収めた。
夫婦どちらの後追いをするか気になっていたのだが、二人とも均等に追われるようになった。基本的にはどちらでもいいようだが、眠いときや具合の悪いときなど、不安な気持ちになると、両親そろっていないと泣いてしまう。出産前に、育児について書かれた本で、赤ちゃんはお母さんと自分を1つの存在だと思っていて、お父さんは、赤ちゃんにとっての初めての他人だと読んだことがある。
うちは、3人で1つの存在だと思っている三位一体赤ちゃんになった。三位一体を構成する要素は、「父(神)」と「子(イエス・キリスト)」と「聖霊」なので、消去法で私は聖霊のポジションということになる。
夫の育休最後の夜、十分に睡眠を取ってもらった状態で翌日送り出したいと思って、私と赤ちゃんで眠っていたのだが、夜中に赤ちゃんが大きな声で泣きだした。夜泣きである。ところが、泣き声で起きたパパが隣に滑り込むと、安心した様子で解けるように眠った。赤ちゃんとは、そもそもそういうものなのかもしれないが、うちの赤ちゃんは凄絶(せいぜつ)に寝相が悪く、魔改造されたベイブレードのように布団の上で転がり回る。結局、大して寝られずに会社に向かっていった。
保育園に行きはじめてからは、いわゆる「保育園の洗礼」によって、健康な時の方が少ないのではないかと思うほどに家族中で体調を崩しまくっている。子供が産まれる前、自分が幼少期に通り損ねたコンテンツを履修する機会を得たり、十分に学んでいなかった分野の知識を補強できたりするのではないかと楽しみにしていたが、最初に履修することになったのはウイルスや細菌である。
この前、私が家族の中で最後に体調を崩し、寝室に向かうとき、交代でやってきたパパに赤ちゃんが愛情の滴るような視線を向けているのを見た。その横顔を見て、これは、安心して熱を出せるぞと、聖霊は思った。
プロフィール
篠原かをり(しのはら・かをり)
1995年2月生まれ。動物作家・昆虫研究家/慶應 義塾大学 SFC 研究所上席所員。これまでに『恋する昆虫図鑑~ムシとヒトの恋愛戦略~』(文藝春秋)、『LIFE―人間が知らない生き方』(文響社)、『サバイブ<SURVIVE>-強くなければ、生き残れない』(ダイヤモンド社)、『フムフム、がってん!いきものビックリ仰天クイズ』(文藝春秋)、『ネズミのおしえ』(徳間書店)、『歩くサナギ、うんちの繭』 (大和書房) などを出版。
バナーイラスト 平泉春奈