冨永愛に憧れたモデルが、26歳でプロレスラーへ転身した話。
「強く・気高く・美しく」をモットーに、2013年にプロレス界に君臨したプロレスラー・赤井沙希さん。
当時のプロレス界では珍しい細身の体を駆使し、自身よりも大きな選手を相手にする様子は、注目の存在でした。そんな赤井さんは2023年、人気絶頂のさなかで10年の選手活動に幕を下ろします。
プロレスラーとして活動する以前はモデル・タレントとして活動していた赤井さん。なぜリングに立つようになり、その後引退を決意したのでしょうか。インタビューを通し、赤井さんの半生に迫ります。
引っ込み思案な幼少期。冨永愛さんに憧れて芸能界へ
「格闘技の世界は、よちよち歩きのときから身近でした」
幼いころの記憶について、赤井さんはそう振り返ります。物心ついたときには両親が離婚し、ボクシングトレーナーだった母親のもとで育てられた幼少期。ボクシングジムではサンドバッグや腹筋台を遊具がわりに遊んでいました。
ただ、遊び場として自由に使わせてもらっていたジムの中でも「赤井さんが決して触ってはいけないもの」が。
「グローブには簡単には触らせてもらえませんでしたね。母が『命をかけて戦うための道具だから気軽に触っちゃいけない』って。チャンピオンベルトも『触っていいのは本当に努力して、勝ち進んだ人だけ』って教わってきました。
そのせいか、リングのことも自ずと『神聖な場所』と捉えるようになっていて。幼い頃から『自分みたいなのが立ってはいけないスペースなんだ』と思っていました」
プロレスラー時代は174cmという身長の高さと堂々とした立ち振る舞いから、リング上でも圧倒的な存在感を放っていた赤井さん。しかし中学校の途中までは人前に立つことが苦手で、引っ込み思案だったと言います。
赤井さんに変化をもたらしたのは、雑誌に掲載されていたあるモデルの存在でした。
「中学2年生のとき、ファッション誌『VOGUE』で見た冨永愛さんに衝撃を受けました。ルーズソックスを履いて、ギャルのような格好をしている冨永さんの美しさに目を奪われてしまって。
私は当時から背が高く、悪目立ちすることが嫌でした。でも身長が180cm近くもあって堂々としている冨永さんの姿を見て、自分の身長の高さを受け入れられるようになりました」
富永さんの存在を知った同年に、たまたま関西を拠点とするタレント事務所にスカウトされ、モデル活動を始めた赤井さん。高校進学とともに全国誌でも活動するようになります。関西と東京を往復しながら、徐々に活躍の場を増やしていきました。2008年からは人気バラエティ番組「クイズ・ヘキサゴン」にも出演するように。
「そのころは『楽しい』とか『つらい』とかを考える余裕すらなかったかもしれません。大勢の有名人に囲まれながら、常に『どうやったら爪痕を残せるか』『私にしかできないことは何か』を模索していました」
「死ぬ気で一生懸命になる最後のチャンス」を掴んだ26歳
2011年、プロレスをテーマにしたドラマ『マッスルガール!』(TBS)に出演したことを機にプロレスへ興味をもち、プライベートでもプロレス観戦をするようになった赤井さん。2012年に『ラジオ新日本プロレス』(ラジオ日本)でアシスタントMCを担当したことで、運命が大きく動きだしました。
「日本のプロレス団体の一つ・新日本プロレスを中心に紹介する番組だったんです。MCとしてプロレスをちゃんと語りたかったので、他団体の試合にもよく足を運んでいて。番組が最終回を迎えた後もプロレスの情報は引き続き追いかけ、試合を観戦した日には感想をブログに残すようにしていました」
あるとき、DDTプロレスリングの試合を観戦したことをブログに書いて投稿したところ、DDTの運営元・株式会社Cyber Fightの高木三四郎代表取締役社長(現在は取締役副社長)から『相談したいことがあるので会いたい』と人づてに連絡が。
「高木社長から口頭で聞かされたのは、DDTが主催する両国国技館での2DAYSイベントへの出演オファーでした。『1日目のファッションショーにモデルとして登場。2日目には試合に出場し、DDT所属のプロレスラーとしてデビューしてほしい』って」
プロレスファンである赤井さんにとって、魅力的な提案だったはず。しかし、赤井さんはその場で「YES」と回答しませんでした。
「運動が苦手、というのもありましたが、芸能人である私が参戦することで、聖域の敷居を下げてしまいそうで。それに、オファーの時点で私は26歳。当時のプロレス業界では、あまりにも遅いスタートです。プロレスが好きだからこそ、即答できませんでした」
1週間ほど悩み抜いた末、とうとう赤井さんは「プロレスラー・赤井沙希」として両国国技館でデビューすることを決意します。
「MC時代、プロレスを知らない人に『まずは知ってもらう』方法を模索したまま、答えが出せなかったことが心残りでした。それで『私自身がプロレスラーになることが答えなのでは』と思って。何より、一つのことに死ぬ気で一生懸命になれる、最後のチャンスかもしれないと感じたんです」
初めて経験した「リングの中の痛み」
契約書を交わし、晴れてDDTに入団した赤井さん。両国国技館でデビューするまであと4カ月、というタイミングでした。限られた期間の中で、赤井さんは過酷なトレーニングを経験します。
はじめに高木社長は赤井さんへ、モデル体型を維持した「プロレス界に染まらない異質な選手」になってほしい、と提案しました。当時、赤井さんのような細身の女性レスラーはかなり珍しい存在だったのです。
とはいえ試合に出場するためには、ある程度の筋肉とスキルが不可欠。練習初日のメニューは、リング上での「でんぐり返し」でした。
「グルッと回ってから『なんでやねん!』ってツッコミを入れるような具合に、両手で床をバンっと叩くんですよ。最初はなんでこんなことをやらされているか、分かりませんでしたね。何度も何度も『なんでやねん!』って感じで床を叩きながら、心の中でも『私、何しとんねんっ!』ってツッコミを入れて(笑)。
ただそのおかげで10年間、一度も怪我で欠場することはありませんでした。どんな体勢でも受け身をとるための大事な練習だったんだと、今なら分かります」
練習初日を終えた翌日は、筋肉痛の酷さに階段も登れなかったという赤井さん。観客席では分からなかった「激痛」にも苦しみます。
「リングって床板がたわむので、強く叩きつけられない限りはそこまで痛くないだろうと舐めていたんですよ。そんなことない。めちゃくちゃ硬くて、ちゃんと痛いです。ロープワークも観客席にいたころは『楽しそう』なんて呑気に考えていたのですが、練習でロープが食い込むたびに肋骨が折れそうになりました。
ただ痛み以上に、自分の体がイメージ通りに動かないことがとにかく悔しくて、つらかった!あまりの悔しさに鼻水と涙を垂れ流しながら、毎日練習していました」
また、つらかったのはリングの中だけではありませんでした。
「細身の芸能人がプロレスをやるので、遊び半分だと思われていました。『顔をボコボコにされちまえ』といった誹謗中傷をSNSで送ってくる人もいて。叩かれること自体は気にしていませんでしたが、自分が不甲斐ないせいでDDTの格が下がることだけは嫌で、プレッシャーを感じる毎日でした」
2013年8月18日に迎えたデビュー戦。両国国技館の観客席から見た景色とはあまりにも違う「リングからの光景」に、赤井さんは圧倒されます。
「リングから天井を見上げると、歴代横綱が私のことを見下ろしているんです。『お前みたいなやつが上がれる場所じゃねえ』って言われている気がしました。
デビュー戦は男女混合の3人組同士が戦う6人タッグマッチ。練習期間4カ月の私ができることなんて、正直ほぼありません。ただ、とりあえず声はたくさん出しました。顔を踏まれたら声を出すし、むかついたら声を出す。あとで動画を見返したら、プロレスラーらしからぬ声が出ていましたけどね(笑)」
デビュー戦を境に、徐々に試合本数も増え、経験値と技術力を高めていった赤井さん。自分より体格の大きな選手から技を受けるのは日常茶飯事でした。試合そのものに対する恐怖はなかったのか、と尋ねると「もちろんありましたよ!」と即答。
しかし、どんなに過酷な試合でも忘れなかったのは「強く・気高く・美しく」あることでした。
「大前提として、プロレスは格闘技です。技術がない人はリングに立ってはいけないと思っています。見た目ばっかり煌びやかにして、試合内容がしょぼい選手は嫌い。ただファンからプレゼントをもらってチヤホヤされるだけの存在もあり得ません。
ただ、プロレスは『人前に出て自分を魅せる』競技でもあります。せっかく戦うなら、美しい方が良いじゃないですか。体重100キロでも、背が小さくても、その選手にしか引き出せない美しさはある。決してプロレス体型とは言えない私だからこそできる『美しい戦い方』を、常に模索していました」
人気絶頂での引退宣言。「美しいまま散る花でいたい」
ベルトを獲得した輝かしい試合から、号泣してしまうほどの悔しい試合まで、10年間で数々のドラマを残した赤井さん。実は「負けることや誹謗中傷、攻撃の痛みよりも恐い」と感じていたことがありました。それは「引退」です。
しかし、人気絶好調の最中であった2023年。赤井さんは「私は枯れてくちていく花ではなく、美しいままで散る花でいたい」というコメントとともに引退を宣言。自身が掲げた「強く・気高く・美しく」というモットーを、最後の一瞬まで貫き続けるための選択でした。
「当時は自分の体力が落ちる感覚もなく、むしろ前年よりスタミナアップしていました。引退することで、居心地のいい家族のような存在であるDDTの皆や、ファンと離れなきゃいけないのも怖かった。私が引退すると知ったら、皆はどう思うんだろうって。
でも自分自身が最後まで『強く・気高く・美しく』あるためにも、右肩上がりの状況が続くうちに、ケジメをつけたかった。それがプロレスラー・赤井沙希の美しさであり、自分の求めるプロレスラー像だと思ったんです」
文字通り「駆け抜けた」10年間。「目の前のことに一生懸命になり、お客さんと一緒に楽しんでいたらあっという間だった」と振り返ります。
「最初はただプロレスを知らない人に、観戦の楽しさを知ってもらいたくて始めました。気付けば環境も変化し、居心地が良くなっていました。プロレスという競技、DDTという団体でしか得られない絆を感じた日々でした。固い絆で結ばれた人たちに恥を欠かせたくないからこそ、10年間も続けられたのだと思います」
現在はDDTの裏方として現役選手を支えながら、元々興味のあった美容サロンのプロデュースにも着手し、選手に限らず多くの人々の「美しさ」をサポートする赤井さん。「美容関係の仕事に就くのは来世だと決めていたのですが、予定を前倒しちゃいました」と笑います。
では来世、もし再びプロレスラーになれるチャンスが訪れたら?
「やりたいですね。次はもっと若くから始めたいです。タレント時代があったからこそ今の私があるのは分かっています。でも、もっと早く始め、より長く続けたかった。
プロレスが、自分に足りなかったものを全部補ってくれたんです。度胸がついたし、人とのつながりの温かさも知れた。涙と鼻水でグシャグシャになった顔や、絞め技をかけられて痛みに歪む顔など、どんな自分も『美しい』のだと自信が持てるようになりました。
プロレスを通じて、自分の中がたくさんの色で満たされたんですよね。だから、私は来世でもプロレスラーになりたいです」
(文:高木望)