カラックスの記憶と思考の中に呑み込まれる魔法のような42分 『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』予告編
4月26日(土)よりユーロスペースほかにて全国順次公開される、レオス・カラックスが初めて自ら編集し、圧倒的なビジュアルセンスで記憶と思考をコラージュしたセルフポートレート『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』のポスタービジュアルと予告編が解禁された。
100%カラックス映画、心揺さぶる自画像
レオス・カラックスの新作『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』。「これは私ではない」と題されたセルフポートレート、カラックスが初めて自ら編集しためまいのようなコラージュ。「鏡を使わず、後ろ姿で描かれた」自画像。子供の嘘の始まりのような「僕じゃない」という言い訳ーー。 2024年のカンヌ国際映画祭プレミア部門で初公開され、大きな注目と関心を集めた本作は、ルモンド紙が「五つ星・傑作」としたのを始め、「ゴダールの精神的後継者による心揺さぶるエッセイ」「カラックスのとてつもない宇宙」と高く評価された。アメリカでは秋のニューヨーク映画祭で「多彩なヴィジュアルスタイルのシネエッセイ」「2024 年の最も颯爽とした映画」と高評が続き、同映画祭に参加していたイザベル・ユペールも「100%レオス・カラックス映画。この映画にとても心を動かされた」と語っている。
カラックスの記憶と思考の中に呑み込まれる、魔法のような42分
パリの現代美術館ポンピドゥセンターはカラックスに白紙委任する形で展覧会を構想していたが、「予算が膨らみすぎ実現不能」になり、ついに開催されることはなかった。その展覧会の代わりとして作られたのが『ITʻS NOT ME イッツ・ノット・ミー』である。 ポンピドゥセンターからの問いかけは、カラックスの今いる位置を聞いたものだったが、カラックスはそれをもっと根源的に捉え直し、自分がどこから来てどこへ行くのかという答えのない謎に地の底から響くような低い声で口籠もりながら語ってゆく。家族について、映画について、20世紀と独裁者と子供たちについて、死者たちについて、そして「エラン・ヴィタル(生の飛躍、生命の躍動)」(ベルクソンの言葉)について。ゴダール(1930-2022)の後期のエッセイ・スタイルへのオマージュではあるものの、ゴダールが思索的・分析的なのに対し、カラックスはずっと夢想的・連想的にみえる。ホームビデオから映画、音楽、写真とさまざまなジャンル、フォーマットの映像を夢の断片のようにコラージュしながら自身のポートレイトをプライベートにダイレクトに描く。そこにはストーリーも結論もないが、至る所に見る者の心を揺さぶる声や瞬間がある。難民の子供の遺体に重なるジョナス・メカスの声。留守電に残されたゴダールの伝言。娘のナスチャがピアノで奏でるミシェル・ルグランの「コンチェルト」のテーマ。主観ショットで捉えられた『汚れた血』のジュリエット・ビノシュ。『ポーラX』のギョーム・ドパルデュー (1971-2008)とカテリナ・ゴルベワ (1966-2011)。盟友だった撮影監督ジャン=イヴ・エスコフィエ(1950-2003)への献辞。その後で、不意に訪れる驚嘆すべき素晴らしい終幕――。すべてが親密で私的で詩的なカラックスからのメッセージだ。
ポスタービジュアル・予告編映像解禁!
今回解禁となったポスタービジュアルは、波紋がたゆたうエメラルドグリーンの空間に重力を失ったかのような人物が浮遊している瞬間を切り取っている。そして鮮烈な赤でタイトルの『IT’S NOT ME イッツ・ノット・ミー』。「この世の美はまばたきを求めている」というキャッチコピー、結論も終わりもないこの映画が最後に残す「まばたき」についてのメッセージが添えられている。
予告編では、カウントダウンと「MERDE」のテロップから始まり、スパークスの「without using hands」にのせてポンヌフの橋で踊り回り続ける人、『汚れた血』のドニ・ラヴァンの疾走、ジュリエット・ビノシュの疾走。そして、『怪人マブゼ博士』、『ポーラX』のギヨーム・ドパルデューとカテリナ・ゴルベワ、文豪フョードル・ドストエフスキーや歌手で活動家のニーナ・シモン、マリリン・モンロー、アナキストのシャンソン歌手レオ・フェレと若きカラックスが二人でタバコを吸う写真、爆弾を投下する戦闘機や独裁者ウクライナの女性活動家オクサナ・シャチコのアーカイヴ、新たに撮り下ろされたベッドに横たわる子供たちや娘ナスチャがピアノを弾くシーンなど映画・写真・動画、さまざまなジャンル、フォーマットの映像が夢の断片のようにコラージュされていく。カラックスの記憶と思考を垣間見る予告編となっている。