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【やはり戦争に行きたくなかった?】徴兵から逃れた日本男児たちの驚きの手法とは

草の実堂

画像:日本における徴兵検査の様子(内閣情報局『写真週報』1941年)public domain
画像 : 第二次世界大戦 public domain

戦前の日本は軍国主義であり、「お国のために」戦うことが是とされてきた。

しかし、それはあくまで表面的なことである。
本音を言えば、戦争に行きたくなかった者も多かっただろうし、家族も同様であろう。
それを象徴するかのように、徴兵制度の盲点をつき、兵役から逃れようとする者は多くいた。

いわゆる、徴兵忌避者である。

1873年(明治6年)に始まった徴兵制施行から、1945年(昭和20年)の終戦まで、徴兵を忌避した人々は何万人にも上ると推定されている。しかし、徴兵を避けることに成功した者たちは当局に知られることがなかったため、正確な人数を把握することは困難である。

当然、彼らは密かに徴兵忌避し、戦後も多くの者がその事実について語ることはないのだ。

今回は、「非国民」と誹りを受けながらも、戦前の徴兵忌避者たちがいかにして徴兵を逃れたか、その方法について迫りたい。

徴兵検査

画像:日本における徴兵検査の様子(内閣情報局『写真週報』1941年)public domain

まずは、徴兵検査について触れていきたい。

戦前の日本では、20歳に達した成人男子は全員徴兵検査を受ける義務があった。
4月〜5月頃に通知が届き、地元の集会所や小学校などで検査が行われた。

徴兵検査では、体格や持病の有無などによって被験者を「甲、乙、丙、丁、戊」の5つに格付けした。
甲は、体格面、健康面ともに問題なく、すぐにでも入隊可能な者で、戊は重大な病気がある入隊不適格者だった。

検査合格者の中から抽選で選ばれた者は、翌年の1月10日に各連隊に入営することとなる。
入営後は3年間「常備軍」として服役し、「常備軍」の兵役を終えた後は、4年間「後備軍」として戦時召集の対象となった。

普通に検査を受ければ、ほとんどの成人男子が「兵役に適する」と判断される。
そうしたなかで、ありとあらゆる方法で徴兵忌避を試みた者は、意外と多くいたのだ。

徴兵忌避の方法には、大きく分けて「合法的な手段」と「非合法的な手段」の2種類があった。

徴兵忌避テクニック ~合法編~

画像 : 赤紙(臨時召集令状)出典 平和祈念展示資料館

徴兵制度が始まったのは、明治6年(1873年)である。

金を払う

当初は、「」さえ払えば戦争に行かずに済んだ。
兵役免除料は270円で、現在の価値にするとおよそ270万円だ。
しかし、この制度は金持ちを優遇するものだとして批判が殺到し、明治16年の法改正で廃止になった。

その間、この制度を利用して徴兵を逃れた者は、約2千人にのぼった。

養子縁組を行う

金で解決できなくなった後は、「養子縁組」を使った方法が流行した。
当時の徴兵制度では、「一家の長は徴兵免除になる」という特例があったのだ。
そのため、徴兵されそうになると男子のいない家に養子に行ったり、また、形ばかりの家を作って家長になるといったことが頻発した。

明治9年から16年までの養子縁組の件数は、およそ9万件。

しかし、明治22年の改正で一家の長の兵役免除はなくなり、この方法も使えなくなった。

学歴を使う

そうした中でも長く使えたのが、「学歴」を使ったテクニックだった。

徴兵令では、中学校を卒業し、文部省が指定する高校や大学、専門学校などに進学している場合は、26歳までは徴兵を免除された。
当初、学生の徴兵免除は官立学校だけが対象の予定だったが、私学がそれに猛反発したため、文部省が認めた私学も対象となったのだ。

その結果、徴兵猶予が認められた私学には受験者が殺到した。
しかし、戦争が激化するにつれて、この制度も廃止される。

昭和18年、戦局の悪化に伴い「在学徴集延期臨時特例」が公布され、文系の学生は在学中でも徴兵されることになった。
いわゆる「学徒動員」である。

理工系や教員養成系などの一部を除き、学生たちはみな戦争に駆り出されていったのだ。

画像:在学徴集延期臨時特例・御署名原本・昭和十八年・勅令第七五五号

海外に逃げる

その他では、「海外逃避」という方法もあった。

当時の徴兵制度では、海外留学者や海外勤務者の徴兵は免除されていた。
これは明治以来、「外国に学ぶ」ことを国是としてきた政府が、より多くの若者に海外での学びの機会を与えるために設けた制度であった。

陸軍の統計によると、国外にいたため徴兵延期になった者は、昭和元年で約3万7千人。
満州事変直後の昭和7年で約4万5千人、昭和11年になると約5万4千人にまで増えていた。

北海道、沖縄に逃げる

また、北海道や沖縄に行くという方法もあった。

当時の北海道や沖縄では、開発のための労働力を確保するために徴兵令が未施行であった。
そのため、本籍地を北海道や沖縄に移せば、徴兵から逃れることができたのである。

あの文豪・夏目漱石も、徴兵猶予ギリギリで本籍地を北海道に移し、徴兵を免れている。

徴兵忌避テクニック ~非合法編~

画像:イメージ

非合法な手段には、それこそ無数の方法があった。

逃亡する

まず、もっともシンプルな手段は「逃亡」である。

これは事実上「死んだもの」として扱われるため、公的な身分証明書などを作ることができないなど、社会生活上で大きな制約を受けることになる。
それでも「戦争に行くよりはマシ」ということで、この方法をとる者が絶えなかった。

当時の調査によれば、徴兵検査の対象者のうち、毎年2千人前後が行方不明になっていたという。
変わった例では、死亡届まで出して地下に潜伏していた、などというケースもある。

こうした行方不明者は北海道で開拓民になったり、工事現場に紛れ込んだりしていたようだ。

犯罪者になる

また、極端な方法の中には、「犯罪を起こす」というものもあった。

徴兵令では、「6年以上の懲役、禁錮を受けた者は徴兵しない」という決まりになっていたため、徴兵されないためにわざと犯罪を起こして、長期の刑罰を受けようとする者がいたのである。

満州事変以降、刑期6年前後の犯罪が急増しており、その中には、徴兵忌避者が相当数含まれていたのではないかと推測されている。

自傷する

その他では、「自傷」という方法もあった。

徴兵検査の体格、健康面で不合格になるために、あえて自分の身体を傷つけるのである。
具体的な方法としては「目を突く、指を切る、足を折る、手を切る、精神病を装う」などがあった。
また、体重を急激に減らしてみたり、検査前に醤油を一気飲みして心臓障害を起こす、という方法もあった。

しかし、これらの非合法な徴兵忌避方法は、戦局が泥沼化するにつれて難しくなっていった。
在郷軍人会や青年団、特高警察といった監視の目が厳しくなったため、おいそれと逃げることができなくなったのである。

それでも昭和5年の検査では、約60万人中438人が身体毀傷や病疾詐称で摘発されている。
これは不正が発覚した人数なので、実際にはかなりの数がいただろう。

おわりに

徴兵制が導入された明治6年から昭和20年の終戦まで、徴兵から逃れようとする人々は絶えなかった。
彼らのほとんどは終戦後も沈黙を続けたため、忌避者の実数は把握できない。

終戦前の日本は、特に日清・日露戦争の勝利以降、世論や社会の雰囲気が変わっていった。

1937年の日中戦争ごろには軍国主義が一層強まり、「戦争に行きたくない」という思いを口にすることすら、非国民と見なされる風潮が強まっていった。

しかしやはり、「戦争には行きたくなかった」というのが本音だったのではないだろうか。

参考 :
『教科書には載っていない!戦前の日本』著/武田知弘
『日本における徴兵忌避』市川ひろみ
文 / 小森涼子

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