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日本初の女性弁護士が、日本初の女性裁判所長となり、退官まで全力疾走の日々【三淵嘉子の東京を歩く③】

さんたつ

三淵4

「法服を彩る紅三点“女性の法律は女性が”—弁護士試験初の栄冠」というタイトルの記事が昭和13年(1938)11月2日の『東京朝日新聞』に掲載された。この年、嘉子は同じ明治大学法学部の出身者である田中正子、久米愛とともに高等文官司法科試験に合格した。

皇居散歩で憂さ晴らし

高等文官司法科試験に合格した嘉子は、弁護士補として1 年6カ月の研修を受けることになる。研修先は東京第二弁護士会に所属する大手弁護士事務所で、東京駅前の丸ノ内ビルヂングにあった。

嘉子と一緒に合格した田中、久米の研修先も近くにあり、昼休みには待ち合わせて一緒に昼食を食べたという。丸ノ内ビルヂング内には、フランス料理や洋食などの飲食店も多く入っていた。

研修期間中は月額20円の手当が支給されるが、これは女学校卒のタイピストやエレベーターガールの半額程度。当時は洋食店のランチが30〜40銭、ハヤシライスなら20銭くらい。薄給のサイフにはちょっと厳しいか?

現在の丸ノ内ビルヂング(通称丸ビル)は2002年竣工。初代丸ビルは大正12年(1925)竣工。東洋一のビルと言われ、低層階でショッピングモールを展開する先駆けとなった。

食事の後は皇居の堀端を散歩しながら、事務所や先輩弁護士の愚痴を言いあいウサを晴らす。

また、職場は銀座や有楽町からも近く、4年前に完成した東京宝塚劇場も徒歩圏内。付近には帝国劇場や日劇もある劇場街だった。学生時代から宝塚ファンの嘉子にとっては、うれしい職場の立地条件である。終業後の観劇は、仕事のストレスを癒やしてくれる妙薬になったことだろう。

皇居外苑は法務省から内堀を挟んですぐの場所にある。戦前・戦後を通じて嘉子はここを憩い場として利用してきた。

戦争の激化で弁護士は開店休業

昭和15年(1940)12月に研修期間を終えて、研修先だった事務所に席を置いて弁護士を開業した。

しかし、その時期が最悪。太平洋戦争が始まる1年前で、街のあちこちに対米戦を意識して戦意高揚を煽るポスターや横断幕が掲げられている。国民一丸となるべき時に、個人の権利を主張するのは恥ずべきワガママ。と、世にはそんな風潮が蔓延していた。

女性弁護士に刑事事件は不向きと、事務所から紹介される仕事は民事が中心だったが、世相の影響で離婚や財産などに関する民事訴訟は激減している。こんな非常時に、個人の利益を争って揉めるのは控えるべき。内々で話し合って解決したほうがいい、と。

そのため弁護士は開店休業の状況。嘉子は暇をもてあましていた。またこの頃は、かつて彼女の家に下宿していた和田芳夫との結婚も決まり、その準備にも忙しい。

関心が結婚や子育てに向き、仕事へのモチベーションも下がっていたことも否めない。

昭和16年(1941)11月に結婚した後は出産や子育て、夫の出征や空襲を避けての疎開生活。と、戦時下での度重なる苦難の連続で、弁護士の仕事からはさらに遠ざかってしまう。

終戦から約1カ月後、嘉子は疎開先から焼け野原の東京に戻ってきた。父母が疎開していた川崎市登戸の社員住宅で、息子の芳武や弟たちと一緒に暮らす。

久しぶりの家族との再会……だが、苦難はまだ終わらない。それから半年が過ぎた1946年5月、夫が長崎の陸軍病院で病死したことを告げられる。さらに翌年1月には母が脳溢血で突然死、同年10月には父も妻の後を追うように亡くなった。

悲しいのは当然、しかし、悲しんでばかりもいられない。もう頼れる人はいない。これからは、自分が金を稼いで息子を養っていかねばならない。

そのために何をやるべきかと考える。そして悟った。法律家の国家資格とその知識、自分にはこれしかない、と。

民法を改正する動きがある。男女の平等が明記された新憲法にあわせて、女性の権利を制限していた旧民法には大きく手がくわえられるはず。

旧民法下で既婚女性が仕事に就く場合、夫の許可が必要だった。夫の同意がなければ何もできない“無能力者”という扱い。そんな者に国の重要な仕事を任すことはできないとして、判事や検事の採用は「男子に限る」とされていた。

民法が改正されて女性が“無能力者”でなくなれば、そんな職業差別もなくなる。

弁護士よりも裁判官のほうが、自分には向いている。昔からそう思っていた。女性にもその門戸が開かれるというならば、

「私は裁判官になる!」

と、目標が定まる。そこからの嘉子の行動は素早く果敢。司法省(現在の法務省)人事課に出向いて裁判官採用願を提出した。

法務省旧本館は戦災で破壊されたが1950年に復旧工事を完了し、建造時の姿に復元されてる。

高等文官司法科試験に合格し、司法研修も終えた彼女にはその資格があるはずだが……人事課担当者は前例のないことに躊躇(ちゅうちょ)した。判断は東京控訴院(現在の東京高等裁判所)に委ねられ、「いきなり裁判官任命というのは時期尚早」という判断がされた。

とりあえずは司法省民事部で勤務し、そこで働きながら裁判官として必要な知識を学ぶよう指示される。

40歳を過ぎて本当にやりたかった仕事と出合う

嘉子は司法省民事部で、新しい民法の立法作業を手伝うことになった。

桜田門南方の桜田通りには、司法省や大審院、海軍省などの赤煉瓦造りの官庁がならんでいた。戦前は美しく壮観な眺めだったが、この頃は空襲で焼け焦げた瓦礫が至る所に散乱している。歩道の敷石も損傷が激しくデコボコで歩き辛い。

かつて「霞が関の女王」といわれたネオバロック様式の司法省庁舎も、屋根や床が焼け落ち、赤煉瓦の壁だけが残る廃墟のような状態だった。

その敷地に建てられたバラックのような仮庁舎が、嘉子たちの仕事場。当時は電力事情が悪く停電は日常茶飯事だったが、職場は忙しく日が暮れても仕事は終わらない。蝋燭(ろうそく)の薄暗い灯りのなかで、机の上に山高く積まれた書類と格闘した。

忙しい職場だったが、しかし、居心地は悪くない。人間関係は良好。仕事が終われば気のおけない仲間たちと、カストリ焼酎での酒盛りがはじまる。

嘉子は酒もかなりいける口。また、物怖じしない性格だけに、興が乗ると得意の歌を披露して宴を楽しんだ。酒を飲んで弾けても、

「女のクセに」

などと言うような者はいない。ここの職場ではすでに、男女平等が確立されていたようだった。

正面から眺める法務省旧本館。戦前までは「司法省」の名称が用いられていた。

民法改正事業がひと段落した1948年1月、嘉子は司法省民事部から最高裁判所事務局に転任し、翌年8月には東京地方裁判所民事部の判事補に任官される。その後、1952年名古屋地方裁判所で判事に昇格、1956年には東京地方裁判所判事と東京家庭裁判所判事も兼任することになった。

東京簡易裁判所や東京家庭裁判所、弁護士会館なども法務省と同じ区画に集まっている

1960年代に入ってから少年犯罪が急増していた。終戦直後とは違って豊かになってきた日本では、少年非行の要因は貧困だけではない。豊かな社会ゆえに、さまざまな新しい問題が起きている。

嘉子は当事者の少年たちと語りあい、一緒になって問題の解決手段を模索した。親身になって接するうち、彼らの目に輝きが戻ってくると自分のことのようにうれしくなる。

家庭裁判所の裁判官は人を裁くのではなく、当事者と話あいながら問題の解決をはかることが仕事だ。40歳を過ぎた年齢になって、自分が本当にやりたかった仕事と出会ったような気がする。

1972年6月には新潟家庭裁判所長に就任。日本初の女性裁判所長となった。再婚していた夫を東京に残して新潟に単身赴任し、ますますこの仕事にのめり込む。その後、浦和家庭裁判所長、横浜家庭裁判所長を歴任して定年退官の時を迎えた。

現在の浦和家庭裁判所。

1979年11月、日比谷公園内にある料理店『松本楼』で嘉子の退官を慰労するパーティーが催された。

公園のすぐ裏手には、かつての職場だった司法省(法務省)がある。1950年には庁舎の補修工事が完了し、いまは「霞が関の女王」といわれた美しい外観を取り戻している。

粗末な木造の仮庁舎で働いていた頃が懐かしい。仕事を終えるとよくこの日比谷公園を通り抜けて、銀座や新橋の闇市に行った……そんな昔の記憶が呼び起こされる。

当時の園内は、花壇は食料増産のための芋畑となり、鶴の噴水がある池は節水のため水を止められて干上がっていた。

戦時中の日比谷公園。食料増産のため、園内の花壇は芋畑に転用されていた(日比谷公園内のレリーフより)。
1953年、雲形池が復元され日比谷公園のシンボル「鶴の噴水」の再設置を完了。

この「松本楼」もまた、進駐軍に接収されて兵士の宿舎に。そこから時々、おいしそうな香りが漂っていた。米兵たちはステーキにワインの夕食に舌鼓しているのだろうか。とか考えながら、空腹をかかえて暗い夜の公園を歩いていた。

いまは『松本楼』で、自分のための宴が催されている。おいしい酒と料理を囲んで、懐かしい人々と昔話に花が咲く。

嘉子の退官慰労パーティーが催された『松本楼』は今も日比谷公園内で健在。

この人たちと一緒に、庁舎の事務所でカストリ焼酎を飲みながら語らい、新橋の闇市で具のないすいとんを一緒に頬張った。そんな懐かしい思い出が、またあふれだす。全力疾走で駆け抜けた日々は早く過ぎるものだ。

取材・文・撮影=青山 誠

青山 誠
ライター
歴史、紀行(とくにアジアの辺境)、人物伝などが得意分野。大阪芸術大学卒業。著書に『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』『首都圏「街」格差』 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』『戦艦大和の収支決算報告』ほか多数。ウェブサイト『BizAiAi!』で「カフェから見るアジア」、雑誌『Shi-Ba』で「日本地犬紀行」を連載中。

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